(前編)
罠にかかって毒蛇に噛まれたことを説明すると、テンゾウの表情は驚きから険しいものへと変わった。
「毒抜きはした?」
「カカシ先輩に……してもらった」
先輩の名前を出す時、声が少し震えてしまった。変に思われなかったか心配になったけれど、テンゾウは私の身を案じるのにいっぱいいっぱいで、気にした様子はない。
「なら早く里に戻ろう。顔が赤いよ。毒のせいで熱が出ているんじゃないか?」
「これは……」
多分、蛇の毒のせいじゃない。それよりも、もっと恐ろしいものに噛まれたせいだ……。そんな事を言えるわけもなく、私は俯いた。さっきカカシ先輩にされた事を――骨の髄まで吸い尽くされるような口づけを―――思い出してしまい、さらに顔に熱が集まる。
「脈も速くなってる。……急ごう」
テンゾウが急に手首を掴むから驚いた。黙って眉間の皺を深くするテンゾウの顔を眺めながら、何であんな単純な罠にかかってしまったんだろうと、改めて落ち込んだ。この、人の良い幼馴染みは、私が怪我をしたりすると、いつもこんな風に真剣に心配をしてくれた。
「里に戻る前に、アジトに寄るぞ。こんな罠を張るくらいだから血清も置いてあるだろ」
それまで黙っていたカカシ先輩が口を開いた。先輩は平然とした様子で、まるで何事もなかったかのようで――胸の奥が小さく軋む音がした。
「ボクが先にアジトに戻って血清を探しておきます」
そう言って、離れていきそうになったテンゾウの手を慌てて捕まえる。
「やっ…!行かないでテンゾウ!」
「え?」
テンゾウは目に戸惑いの色を浮かべて、私の顔をのぞきこんだ。
「一緒にいて……お願いだから」
テンゾウが行ってしまったら、カカシ先輩と二人きりになってしまう。あんなことがあった後で、二人きりになるのは怖かった。テンゾウは困った顔をして「でもナズナ、急がないと……」と言う。
「血清はオレが探しに行く。お前はナズナを連れて後から来い」
鋭い語気にはっとして、カカシ先輩を見る。私とは目を合わせず、苛立ちを堪えるような冷たい目つきをしている。
「カカシ先輩……?」
テンゾウが気遣わしげな声を出す。カカシ先輩は何も答えない。ぴりぴりとした緊張を感じているのは私だけではないようで、テンゾウは困惑を顔に浮かべている。……不機嫌な先輩が怖くて、私は地面に目を落とす。
「何かあったのか?」
小声でテンゾウに聞かれるけれど、何と答えれば良いのかわからない。私の顔と先輩の顔を交互に見て、テンゾウは諦めたように、
「わかりました。宜しくお願いします、カカシ先輩」とだけ言った。
テンゾウに背負われて森の中を進む。木のように逞しい背中は温かく、体を預けていると心から安心できた。まだ左腕は痛いけれど気持ちが緩んでしまって、鈍い眠気がやってくる。
「で、カカシ先輩と何があったんだい?」
いつもの穏やかな口調で聞かれて、はっと目を開けた。
「……話したくないならいいけどさ。ボクでも聞くぐらいはできるかと思って」
「テンゾウ……」
私が何かに悩んだり、落ち込んでいるときはいつも、テンゾウはこうして話を聞いてくれた。任務で失敗してしまった時や、修業が上手くいかない時。これまでは、何だってテンゾウに話してきたけれど……。
カカシ先輩の事は、今までの悩みとは種類が違っている。
それに、さっきの事を話しても、テンゾウは困惑するだけだと思う。私だって何であんな事になったのかわからないのだ。言葉を探して黙っている私に、テンゾウは無理矢理聞き出すようなことはしなかった。その優しさが温かくて、迷った末、やっぱり少しだけ話を聞いて貰うことにした。
「……カカシ先輩は、私の事どう思っているんだろう」
口に出してから、やはり恥ずかしくなってきゅっと目を閉じた。
さっき、カカシ先輩に突然キスをされた。ああなる前に先輩の言っていたことを思い出そうとするけれど、あまりにも驚いたので、随分と記憶がぼんやりしている。けれど断片的に思い出せるのは、『オレのものにならないお前なんて、許せないよ』だとか『オレ以外の男の名前呼ぶな』だとかの、私に都合の良い妄想としか思えないような言葉ばかりで。……苛立っていた先輩の顔が浮かんでは胸が苦しくなった。
「先輩はナズナの事、気に入ってるように見えたけど」
「……本当?」
「うん。……長年後輩やってきたボクが言うんだから、間違い無いよ」
「でも……私、カカシ先輩の事を怒らせちゃったみたいで……」
口に出すと、胸の奥がずんと重たくなった。先輩にキスをされて頭の中が真っ白になって……だけど同時に、カカシ先輩がすごく怒っている事も伝わってきて、怖かった。
先輩と約束をしたけれど会えなくなってしまった日、私は先輩の誕生日プレゼントを探すために街に出た。そして、偶然会ったガイさんに、買い物に付き合って貰ったのだけれど……。さっきのカカシ先輩の口ぶりからすると、カカシ先輩はどうやら、私とガイさんが一緒に居るところを見たらしい。そういえばテンゾウが、あの日は夜にはもう里へ戻ってきていたと言っていた。解散のあと、カカシ先輩が急いだ様子だったとも、言っていたような気がする。
――もしかして、私を探してくれていたの?
それで、ガイさんと一緒にいる私を見たんだろうか。だけど、だからって何故、先輩はあんなに怒っていたんだろう。
ガイさんと私が一緒にいることが、いやだったの?もしそうだとしたら、カカシ先輩は……。
都合の良い妄想が浮かんでは、心の中で打ち消した。だって、カカシ先輩がヤキモチなんて焼くはずがない。
先輩が……私なんかの事を好きになるなんて……そんな都合の良い事、あるはずが……。
「よくわかんないけど、ナズナはあんまり悩まなくていいんじゃないか?」
テンゾウの声にはっとする。
「え、なんで……?」
「カカシ先輩は、感情的になってしまう事があったとしても、あとで必ず冷静になって自分を振り返れる人だし……仲間を悲しませるようなことは絶対にしない人だからさ」
テンゾウは、はっきりとした口調でそう言った。カカシ先輩と一緒に任務についた事のある忍なら、テンゾウの言葉に頷かない人などいないと思う。カカシ先輩は確かに本当に信頼できる上司で、仲間にはいつも、厳しいだけでなく、とても優しい人だった。……いつまでも背中を追いかけていきたいと思える人で、だから私は、カカシ先輩に憧れて、先輩みたいになりたいとずっと思ってきた。その気持ちはいつの間にか、恋愛感情を伴うようになっていて。
「……そうだね。ありがとう、テンゾウ」
そう返事をしながらも、私はまだ、もやもやとした気持ちのままだった。カカシ先輩に仲間として、後輩として、今まで大切にされてきた事は間違いない。けれど、あのカカシ先輩が、私みたいな何の取り柄も無い女の事を好きになるだろうか。あんな風に怒ってキスをしたのは、何となく虫の居所が悪かっただけなんじゃないだろうか。そんな事を思っては、先輩と向き合うのが怖くて、心が重くなっていく。
アジトへ戻ると、カカシ先輩は既に血清を見つけてくれていた。どうやら医務室をしらみつぶしに探したらしく、部屋は薬品や注射器が散乱していて、激しい戦闘でもあったかのように荒れ果てていた。
血清を打ってもらい、これでようやく安心できるのだと思うとどっと力が抜けて、テンゾウに凭れかかった。
「ナズナ?!」
「大丈夫……安心したら力抜けちゃった」
へらり、と力なく笑ってみせると、テンゾウの表情が少しだけ和らいだ。
「血清は打ったけど、早く里に戻って医療班に診てもらった方がいい」
笑顔ひとつ浮かべずに、カカシ先輩はそう言った。私は先輩の言葉にうなずいて、
「ありがとうございます」と返したけれど、言葉尻が小さく震えてしまった。
「ナズナ、動けそうか……?」
「うん、もう歩けると思う」
これ以上テンゾウを疲れさせるわけにはいかないのでそう言うと、カカシ先輩はわざとらしく溜息をついた。
「途中でバテるに決まってるだろ。……いいからオレの、」
「やっぱりテンゾウ、もう少し背中借りても良い?」
先輩の言葉を遮ってそう言った。カカシ先輩が私を背負ってくれようとしたのだと解った瞬間、咄嗟に逃げてしまった。テンゾウが困った顔で私を見ている。私とカカシ先輩の間の異様な空気に気づいているのだと思う。……ごめん、テンゾウ。
「……わかったよ。ほら乗って」
しゃがんで背を向けるテンゾウの背中にしがみつくと、背中に刺すような視線を感じた。先輩の事が怖くて振り返ることができず、逃げるようにテンゾウの肩に顔を埋めた。
帰路についてからもカカシ先輩は、行き以上に言葉少なだった。それでも行きよりはゆっくりとした移動速度なのは、テンゾウの背に揺られる私の体を気遣ってくれているのかもしれない。
テンゾウの背中からは森を窺わせる様な優しい匂いがした。温かくて、とても安心することができて、私はまた眠気に襲われた。今度は抗うことができず、重たくなった瞼を閉じると、そのまま落ちるように意識が遠退いていった。
――雨の匂いがする。
ゆったり意識を浮上させると聞こえてくる雨音は次第に大きくなる。頻りに顔に何かが当たるのを感じて瞼を持ち上げると、既に日は沈んでいて、重たい雨が降っていた。いつの間にか私には雨具が着せられていて、おかげで体はそんなに濡れていなかったけれど、フードの端から垂れた水滴が涙のように頬を伝った。雨具越しに雨に打たれた体は冷え切って、手がかじかんでいる。
テンゾウは私の体に負担がかからないよう、気を遣って走ってくれていた。それでも、悪天候で山道がかなり泥濘んでいるために、振動が体にダイレクトに伝わってくる。
「テンゾウ……」
「どうかした?」
「私、降りようか?もう、歩けるかも……」
「ナズナは何も心配しなくていいから休んでな」
「……ごめんね」
はっきりと覚醒した頭で考え直してみると、確かに、私がここで降りた方が結果的にテンゾウとカカシ先輩に迷惑をかける事になりそうだ。弱い頭痛を感じながら、前を走るカカシ先輩の背中に視線を送る。
黒い雨具を纏って先を急ぐ先輩が、振り返る様子は無かった。血清が効いてきたお陰か、痺れるような腕の痛みはかなり楽になっていた。けれど、心はまだ重たいままだ。
台風の予報では無かったはずなのに、こんなにも天候が崩れるなんて。雨だけでは無く、風もどんどん強くなっている。こんな悪天候の中、私を背負って走るのは相当骨が折れるに違いない。テンゾウに申し訳ないと思いつつ、この幼馴染はいつも、私が弱っている時はどこまでも優しくしてくれるから、こうして甘えてしまってばかりだった。
帰ったらお礼にまたクルミクッキーを焼いてあげようと密かに決めた。
「テンゾウ、止まれ」
風雨が一段と激しさを増す中、先輩の合図に従ってテンゾウは足を止めた。
「またですか……参りましたね」
溜め息交じりの声に、何があったのだろうと身を乗り出して、テンゾウの視線を辿った。
途切れた道の先は、崖になっているようで、暗闇なのでよく見えないが、轟轟と崖下から音がしている。
行きに崖を越えるため、今にも落ちそうなつり橋を渡った事を思い出した。
この嵐によって落ちてしまったようだ。
既視感のある状況に記憶をたぐり寄せる。いつかもこんな激しい雨の帰り道、三人で崖を前に立ちつくした事があった。
「ナズナを早く連れて帰りたいですが、雨も弱まる気配がありませんし、これ以上は危険です」
「……そうだな」
迂回する道はあっただろうか、と思っていると、テンゾウは先輩の先を歩き、道とは言えないような獣道をかき分けて進んでいった。まさか、という予感は現われた洞窟により確信へと変わった。
「ナズナ、立てる?」
「うん」
狭い入り口に屈んで中へ入ると、足元にカンテラが転がっていた。気づかなかったなんて随分ぼんやりとしていたみたいだ。見覚えのあるそこは、春に三人で雨宿りをしたあの洞窟だった。火遁で火をつけて奥へと進むと、細く長く続いているように見えた内部はすぐに行き止まりに辿りついた。それほど広くはないけれど、三人で雨風を凌ぐには十分だ。前に来たときと変わりなく、幾つかのカンテラが転がっていて、カカシ先輩がひとつひとつに灯をつけていく。
このまま三人で夜を越え、雨風が弱まるまで待つという事のようだった。
「早くナズナを医療班に診せてあげたいけれど……すまない」
「テンゾウが謝ることじゃないよ」
雨具を脱ぎながら笑うと、テンゾウは私の頭を軽く撫でた。
「ボクは外へ見回りに行ってくるので、二人とも中で休んでいてください」
テンゾウの言葉に驚いて固まる。カカシ先輩も当惑した様子で
「……あいつらは全員片付けたんだし、入り口に結界でもはっときゃいいでしょ」とテンゾウを見た。
「念のためです。ついでに結界も張ってきますから」
取り合わず背中を向けたテンゾウを、私は慌てて引き留めた。
「待って!結界なら私の方が得意だし、テンゾウは休んでよ。私はずっと背中で休ませてもらってたんだから」
「何言ってるのナズナ。君はまだ安静にしてなきゃだし適任はボクでしょ。それに、木遁を使った結界をなめてもらっちゃ困るな」
「なめてなんか無いけど……」
テンゾウの言うことはもっともかもしれないけれど、カカシ先輩と二人きりで洞窟に残されるのは困る。テンゾウだって、私と先輩の間の微妙な空気に気づいていたはずだ。なのに、どうしてこんな突き放すようなこと言うんだろう。行かないでと目で訴えると、テンゾウは困ったように笑ってそっと私に耳打ちをした。
「先輩とちゃんと話し合った方がいいと思うよ」
話合うって言ったって、何を話せばいいのかもわからない。困惑していると、カカシ先輩が小さく咳払いをした。
「見張りが必要って言うならオレが行けばいいんだろ。……仲の良いお二人さんで、ゆっくり休んでなよ」
……なんでそんな棘のある言い方をするんだろう。さすがに怒りのようなものがわいてきて口を開きかけたら、私よりも先にテンゾウが声を出した。
「先輩大人げないですよ。何を怒ってるのかしりませんが、ナズナに何か言いたいことがあるならはっきり言ってあげてください」
テンゾウが先輩にそんな口を聞くのを初めて聞いた。びっくりしてテンゾウの横顔を見上げると、いたって冷静な表情をしている。
「……お前には関係ない」
対してカカシ先輩は、目に見えて不機嫌な様子が増して、ぴりぴりとしたプレッシャーが辺りを支配した。自分の身がひとまわり縮んだような気さえする。けれどテンゾウは臆さなかった。
「関係あります。ナズナはボクの大切な兄妹ですから」
テンゾウの言葉は、素直に私の心を打った。
私達は血が繋がっているわけじゃないし、同じ戸籍に入っているわけでもない。兄妹という言葉が適切なのかはわからない。けれど、この言葉を使ってもいいくらい長い間、私とテンゾウは家族のように親しい間柄だった。――家族というものを本当に知っているわけではないから、想像でしかないのだけれど。
私達はお互いに物心ついた頃から家族がいなかった。テンゾウとは、兄妹のように親友のように、共に修業をし任務を熟してきた仲間だった。私は時々、彼の事を、もし兄や弟がいたらこんな風だったんだろうか、なんて密かに思うことがあった。決して口には出したことが無かったけれど。――テンゾウも同じように思ってくれていたのだと知り、ふいに目頭が熱くなった。
「先輩がそんな態度なら、ボクがナズナを貰ってもいいんですよ」
「……は?」
「っていうのはウソですけど……」
カカシ先輩の殺気にテンゾウは顔を引き攣らせた。さっき一瞬かっこよく見えたのは気のせいだったんだろうか。
「とにかく、見張りはボクが行きますんで。……さっさと仲直りしてください」
「え、ちょっと、テンゾウ……」
私が呼び止める声を無視して、テンゾウは今度こそ行ってしまった。
あとには私とカカシ先輩だけが残されて、洞窟の中はしんと静まりかえり、水滴が岩をうつ音しか聞こえなくなった。
→後編
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