(後編) 



「……そのままだとまた風邪引くよ」

防具を脱ぎながらカカシ先輩が言った。さっきのぴりぴりした気配は心なしか弱まっている。恐る恐るカカシ先輩の顔を窺うと、疲れたような表情をしている。

「そう、ですね」

まだ緊張は解けないまま返事をして、私も先輩に倣って防具を外していく。気まずい沈黙の中、背負っていた刀を下ろし、胸当て、手甲を外している間、先輩の視線が体にひしひしと突き刺さるのを感じて、居た堪れなくなった。

正面に片膝をついて座っている先輩をもういちど見ると、ばっちり目が合ってしまい息をのんだ。濡れた髪から覗く瞳が、獲物を狙う野生動物のように静かに光っている。慌てて視線を手元へと落とした。どきどきと高鳴る心音は、いつもなら、先輩のかっこよさに見惚れてしまうせいだけれど、今はその整った顔が恐ろしいもののように感じてしまう。

先輩は今、何を考えているんだろう。

最後に太股のホルスターを外しながら、ぼんやりと、春にこの洞窟にきた時の事を思い出していた。

あの時もテンゾウが見張りにいって、私と先輩が中に残って、こうして二人きりになったんだった。今とは別の意味で緊張していた事を思い出す。……憧れのカカシ先輩と二人きりという状況に対して、私はがちがちになっていて、けれど、あの時のカカシ先輩は優しく私を気遣ってくれた。もっと普通に話もできていたはずだし、冗談なんかも言われたりして……。

あの和やかな雰囲気が、これまでの優しいカカシ先輩の事が、たまらなく懐かしくなって、鼻の奥がつんとした。

テンゾウは先輩とちゃんと話し合った方がいいって言ったけど、ずっと押し黙っているカカシ先輩になんと切り出したらいいのかまるで思い浮かばず、息をするのも苦しいような沈黙の中、ただ、じりじりと時間がすぎるのを待っていた。

私の意識はあの風邪を引いた日に、マグカップを貰った日に、浴衣で手を繋いだ神社の夜に、あちらこちらへとんでいった。どの場面でも、そこには優しく笑ってくれている先輩がいて、苦しいほど胸が切なくなった。

先輩と過ごした思い出のひとつひとつが大切で――いつから先輩の事がこんなに、好きになっていたんだろうと考えて、それからまた、今の重苦しい状況を思って、溜息をつくのだった。

ほんの数時間前、急にカカシ先輩にキスをされた。片想いの人からされた事なのに――怒りが伝わってくるような激しい口づけが怖くて、苦しくて、何がなんだかわからなかった。
膝を抱えていると、先輩が唐突に口を開いた。

「あの日、ガイと何してたの」

声をかけられた事に驚いて、先輩の顔をみつめる。
先輩は無表情に、けれど真っ直ぐ私の事を見ていた。

「……先輩、あの日私達を見たんですか?」
「質問に答えろ」

先輩の目つきが鋭くなる。低く、有無を言わせぬ口調に、握りしめた手が震えてしまう。

「……買い物です」
「買い物?何を?」
「……」

先輩の誕生日プレゼント選びに付き合って貰ったとは言えず、なんて言おうか迷っていると、先輩はイラついたように「黙ってちゃわかんないよ」と言った。

怒っている先輩が怖くて、けれど、どうしてこんな、わけのわからない怒りをぶつけられなくちゃならないんだとも思って、次第に恐怖よりも、怒りのようなものがふつふつと湧いてきた。

「先輩には秘密です」

先輩の事を睨み返す。……私が睨んだところで先輩にとっては怖くもなんともないだろうけれど。
案の定1ミリも変わらぬ冷徹な表情を貼り付けたまま、
「……ああそう。ガイと随分仲良さそうだったね」とカカシ先輩は言った。

「……ガイさんは、親切にしてくださいましたけど」
「お前がそういう態度とってると、あいつ勘違いするよ?」
「……そういう態度ってなんですか?」

何ひとつはっきりと言ってくれない先輩にムッとして言い返すと、これまで淡々と話していた先輩の語気が急に強くなった。

「男に期待を持たせる態度だよ」

先輩は低い声でそういうと、嘲るように笑った。

「私そんな態度なんて……」
「ガイに告白でもされたらどうするの?」
「……」

ふと、あの日のガイさんの表情が鮮明に脳裏に浮かんだ。
『オレはナズナさんのことが好きです。』
ガイさんの真っ直ぐな告白を思い出して、膝を抱えている腕に力が入る。

「……まさか、もう告白された?」

先輩の言葉にびくりと震えると、カカシ先輩はさっきまで浮かべていた笑みを引っ込めて、睨むように私を見た。

「あいつと付き合うの?」
「……何で先輩がそんなこと気にするんですか」
「質問に質問で返すなよ」

なんで、こんな尋問まがいなことされなきゃいけないんだろう。

「……何なんですか」
「……」
「何で……カカシ先輩怒ってるんですか!」

半ば叫ぶようにして言い、先輩の事を睨んだ。先輩は狼狽える様子もなく私の事を静かに見返した。

「怒ってない」
「嘘です、怒ってますよね」
「……そうだとして、オレが何で怒ってるか、お前ほんとにわかんないの?」

急に先輩が近づいてきて、驚いて身を引く間もなく、壁に勢いよく肩を押し付けられた。

「っ……痛い」

悲鳴を無視して、先輩は私の顎に指をかけた。くい、と顔を持ち上げられて、先輩の顔が至近距離に近づく。

その目には燃えるような熱が宿っていて、――数時間前のキスを思い起こさせて、身がすくみ、何も言えなくなった。

「……いい加減、わかれよ」
「んぅっ……」

覆面ごしのキスは冷たく、温度を感じられなかった。身を捩って抵抗すると、先輩は小さく舌打ちをして、覆面をひきおろした。すぐにまた唇を塞がれて、今度は熱い先輩の舌が唇をこじあけて侵入してきた。噛み付くようなキスに、頭があっという間に恐怖に支配される。押し当てられた唇の熱さも、押さえつけられた腕の強さも、奪われる呼吸も、なにもかもが恐くて、けれど同時に、下腹の奥の方がじんと熱くなるのを感じた。先輩の舌が私のそれに絡む度、喉の奥から押し殺せない小さな声が上がり、離れようともがいても、体は岩壁に強く押しつけられ、頭は大きな手によって固定されてしまい、逃れることが出来ない。

先輩の圧倒的な力が――支配しようとする強い意志が怖かった。抗えない恐怖に、涙が溢れてくる。

こんなの、いやだ。先輩は何で、こんなに怒ってるの……なんでキスするの……なんでこんな、乱暴なことをするの。
こわい……こわいよ……。

「…………ふっ……ぅ……」

唇の隙間から泣き声が漏れて、先輩の顔がふいに離れた。
目尻から溢れた涙が頬を伝っていくつも落ちていく。

恐る恐る目を開くと、カカシ先輩は痛みを堪えるような表情を浮かべていた。

「……っ、ナズナ」

先輩の腕の力が一瞬弱まった隙に、渾身の力で先輩を押し退けた。

震える足で何とか立ち上がり、その場を去ろうとすると先輩の腕がまた伸びてきた。

「待っ…「いやっ……!!」

恐怖に身が竦み、その場で頭を抱える。先輩の手はそれ以上近づいてこなかった。
先輩の顔は見ずに、私はすぐに背を向けて洞窟の出口へと走った。

苦しい……胸が痛い……張り裂けそう……。先輩の事が怖くて許せなかった。
あんなキス、気持ちが通っていなきゃなんの意味もない。

手の甲で唇をごしごし擦りながら狭い道を抜けると、洞窟の出口にはテンゾウの張った結界があった。解の印を結ぶと、肩の傷が鈍く痛んだ。

外はまだ土砂降りの雨が降り続いている。正確な時間はわからないけれど辺りは真っ暗で、里へ帰る為にどの方角へ向かえばいいのかもはっきりしなかった。冷静にならなければと思うほど気持ちが焦り、とにかく此処には居たくなくて、もつれる足をがむしゃらに動かした。雨脚は強まるばかりで自分の足音も聞こえない。普段なら雨粒が顔にかかると鬱陶しいと思うけど今は違う。この唇の感触も、先輩への気持ちも、情けなく溢れてしまう涙も、この雨に、全部流れてしまえばいいのに……。


「――ナズナ!!」

突然後ろから抱きしめられた。動揺している私にカカシ先輩がすぐに追いつくのは当然の事だった。また怖くなって、腕を振りほどこうと身を捻る。けれど先輩の腕の力は弱まらず、更に強い力で閉じ込められてしまった。

「ごめん、ナズナ」
「やっ!離して…」
「……好きだ」

その瞬間雨音が止んだような気がした。
それはほんの一瞬で、またすぐに激しい雨音が耳を打つ。

「うそ……」
「嘘じゃない。ナズナが好きだ」

今度は耳元ではっきりと告げられた。心臓が雨の音に負けないくらいばくばくと音を立てている。

「ナズナこっち向いて」
「い、いやです」
「こっち向けって」

先輩いま、なんて……。
私を、好き……?
もしかしてと思い、あるはずないと切り捨てた可能性。……本当に?夢じゃないの?

「いやです……今、絶対変な顔してるから……そんな顔先輩に見られたくない」

さっきまであんなに先輩の事が怖かったのに、今は別の意味で激しく心臓が高鳴り、顔が熱くなっていた。けれど涙は相変わらず止まらなくて、

「……頼むから顔見せて」

懇願するような先輩の声に、どきりとする。
もう緩んでいた先輩の腕を、恐る恐る体の前から外し、私はゆっくりと振り返った。
先輩は真剣な顔で私を見つめていた。

「泣かせて、無理矢理して……本当にごめん」

カカシ先輩は眉を寄せてそう言うと、頭を下げた。雨具も防具もないまま飛び出してきたのは先輩も一緒で、雨に打たれた銀髪は鈍い鉛色に見える。

「ガキみたいに嫉妬して、お前の事を傷つけた」
「……」
「好きなんだ……。傷つけたいわけじゃ無いのに……」

先輩がゆっくりと顔をあげた。
私の顔はいま、茹でたこのように真っ赤になっていると思う。

「……可愛すぎ」
「え?……わ、…!」

私はまた先輩に抱き締められていた。今度は向かい合った状態で。

「せ、先輩……離してください」
「離したらまた逃げる……」
「もう逃げませんから」

少し間をあけて、先輩は渋々といった様子で拘束を解いてくれた。ゆっくり先輩を見上げると、覆面をおろしたままの素顔からは、洞窟にいた時のような怒っている雰囲気や威圧感が消え去っている。
こうしてきちんと真正面から向き合って、カカシ先輩の顔を見て話すのが、何だか随分久しぶりのように感じた。

「先輩……私の事、好きなんですか」
「うん」
「ガイさんのこと何度も聞いたのも、私を、好きだからですか」
「……あぁ」
カカシ先輩は一旦言葉を切って、
「もしかしてガイと……付き合ってるの?」と不安そうな顔をした。
びしょ濡れの大型犬みたいに情けない表情の先輩がおかしくて、私はすこし笑ってしまった。

「ガイさんとはお付き合いしていません。……好きな人がいるからと、お断りしました」

先輩の瞳が、僅かに見開かれる。
相手に自分の気持ちを伝えることはとても怖い。それでも、ガイさんは私に真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれた。だから、私もあんな風に真っ直ぐに、相手を想う気持ちを伝えたいと思った。
ガイさんに貰った勇気を、無駄にはしたくない。

「私も……カカシ先輩が好きです」

カカシ先輩はさっきよりも大きく目を見開いて驚いている。
言葉にしたら急に恥ずかしくなって、視線を落としそうになると、また先輩の腕の中に閉じ込められてしまった。

「……!」
「オレのものになってくれるって事?」

先輩の言葉にかぁっと体が熱くなる。
オレのもの、なんて、強い言葉を言うくせに、疑問形の語尾が何だか可愛らしい。

「私でよければ……」

小さな声で返事をすると、先輩の腕の力がまた強くなった。話をしている内に、雨脚が少し弱まったような気がする。ずぶ濡れで抱き締め合っている事が急に可笑しくなってきて「二人とも風邪をひいてしまうかもしれません……」と私が言うと、カカシ先輩は小さく吹き出した。

抱擁が解かれて、洞窟に戻るのかな、と思っていたら、先輩の手がのびてきて、私の頬を優しく包みこんだ。色違いの瞳にじっと見つめられたかとおもうと、その顔がゆっくり近づいてきて、私は自然に目を閉じた。

触れるだけのキスは、雨と涙がまじって少しだけしょっぱい。重なった唇の熱さも、ゆっくりと確かめるような動きも、とても優しかった。

そっと唇が離れて、二人で微笑みあって、どちらともなくまたキスをする。
唇が重なるたび、愛の言葉を囁かれているみたいだ。甘くて蕩けそうな口づけに、頭がくらくらする。

「ふぁ……」
また侵入してきた舌に声が漏れてしまう。くずれおちそうになる私の体を先輩が支えてくれている。
「……せんぱい…これ以上は、ドキドキしすぎて、おかしくなっちゃいます」
甘えたような声がでて、本当に息がくるしくて、カカシ先輩の胸にもたれる。
「はあ……かわいすぎ」
また顔を包まれて、唇を柔らかく食まれてしまう。
「ぁ……んんっ……」
「ん……ナズナ」

暫くの間、どしゃぶりの雨に打たれながら、お互いを求め合うように何度も唇を重ねていた。



それから、ついにしゃがみ込んでしまった私を、カカシ先輩は横抱きにして洞窟の中へ運んでくれた。
先輩の足の間に挟まれるようにして座り、後ろから抱きかかえられている。

結構な時間がたっているはずなのに、テンゾウはまだ戻ってこない。まだ見回りを継続しているのだろうか。

もし万が一、さっきのキスを見られていたら……恥ずかしくて身を固くしていると、カカシ先輩にぎゅっとまた、抱き締められてしまった。

「……くしゅん!」
「大丈夫?寒い?」
「大丈夫です」

今はこうして後ろから包まれているし、何度もキスをされたせいで、雨の中にいたはずなのにむしろ体は熱いくらいに火照っている。抱き寄せられて濡れた体はぴったりと密着していて、こんなに近づいたら心臓の音が先輩に聞こえちゃっているかもしれないと思うと恥ずかしくなる。緊張して、自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。

「雨……全然止みませんね」
「やっぱりここをたつのは夜が明けてからになるだろうね」
「昼には戻れるでしょうか。……あ、……ああ!」
「ん?どうしたのナズナ」

振り向いてカカシ先輩の顔をみる。その近さに、またどきりとしてしまった。

「……もしかしてもう日付って変わってますか?十五日ですか?」
「正確にはわからないけど、もう変わってるだろうね」

……今日一日でいろいろありすぎてうっかりしていた!

「カカシ先輩、お誕生日おめでとうございます!」

必要以上に大きな声が出てしまって、また顔が熱くなった。
先輩は面食らったような顔をしてから
「ああ……覚えてくれてたんだ、ありがとう」と言って、ふわりと微笑んだ。

「あの、プレゼントも用意してあるので帰ったらお渡しますね」
「……もしかしてガイと買い物してたのって」
「はい……そうなんです」
「……なんだ、それで秘密にしてたのか」

カカシ先輩が深い息をつく。
「良かった……」
その言葉に、本当に先輩が焼きもちを妬いていたのだということを改めて感じて、胸の奥がきゅんとしてしまった。
「気持ちは嬉しいけど、帰ったらナズナはまず病院に行かないとね。それに……」
先輩の顔が近づいて、目を瞑る間も無くキスをされる。

「一番欲しいものはもう手に入ったから十分だよ」

蕩けるような甘い声色で言われて胸がどきどきしてしまう。

「ほんとうに、本当に私なんかでいいんですか」
「ナズナが良いんだよ」

先輩は嬉しそうに微笑みを浮かべて、また私の唇を塞いだ。
ありきたりな言葉が浮かんで、けれどそれ以上の願いは今、何も無かった。

このまま、時間がとまってしまえばいいのに。

雨の音が少しずつ和らいでいく。


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