2 


昼食を終えて、巻物の整理を再開した。

点検が済んだ巻物は、後でまとめて片づけようと一ヶ所に置いてある。カカシ先輩にはそれらを元の位置に戻してもらうことにして、私は残りの点検作業にとりかかった。

ただでさえ、カカシ先輩と密室で二人きりなんて緊張するのに、いつもと何かが違う先輩のことが気になって、作業中も横目でちらちらと先輩を追ってしまう。額あてで片目を隠して正規部隊の格好をしている先輩は時間が経ってもまだ見慣れない。時々先輩は私の視線に気づいて優しく笑いかけてくる。そのたび私はどぎまぎして……今日の先輩は一体どうしちゃったんだろう、と考えていた。

急にカカシさんって呼んでほしいとか、家に泊めて欲しいとか、突拍子もないことを言うのも気になるし、何か、いつもと様子が違っているような気がする。

また先輩とぱちりと目が合って、にこっと笑いかけられた。その笑顔に胸がきゅっと締め付けられる。暫く見惚れてしまって、ハッと我に返り慌てて視線を手元に戻した。自分の作業に集中しなければ。

点検作業が一通り終わって、私も巻物を元の位置に戻す作業に移った。手に取った巻物を片っ端から棚に戻していると、一番上の棚に戻さなければいけない巻物が出て来た。私の身長では背伸びをしてぎりぎり届くかどうかという高さだ。爪先立ちになって、伸ばした腕がぷるぷると震える。一番上まであとちょっと……。限界まで伸ばした手から巻物が消えた。後ろから伸びてきた手に奪われたそれは、いとも簡単に一番上の棚へと収まる。

「ここでよかった?」
「はい…、ありがとうございます」

後ろから先輩の低い声がする。息づかいさえも聞こえてくるような距離の近さにどきどきして顔が火照っていくのがわかる。赤くなった顔を見られたくなくて振り返ることができず、目の前の棚に置いてある巻物の柄を見ていた。

「必死に背伸びしている姿が可愛すぎて抱きしめちゃおうかと思った」
「え!?あの」
「ククク、いくつの時も本当に可愛いねお前は」

先輩が「かわいい」と言ってくれることは、これまでにも何度かあった。きっとからかわれているだけなのに、その度私はどきどきしてしまったのだけれど、今日はなんだか……いつも以上にからかわれている気がする。だって先輩ずっとにこにこしてるもの。
「上はオレがやるから、ナズナは下を頼むよ」
ぽんぽんと軽く頭を撫でられて、後ろにあった先輩の気配は遠ざかっていった。

先輩に言われた通り、私は下の方へしまう巻物を手に取り片づけていくことにした。黙々と作業をしていると、手に取った巻物の中に、またも上段へしまう巻物が混ざっていた。先輩に言って、しまってもらおうか。ちらりとカカシ先輩の方を見ると、先輩は別の棚に巻物を並べているところだった。……手伝わなくてもいい私の仕事を、貴重な時間を割いて手伝ってくださっているのに、上の段だからといってわざわざ先輩にお願いするのは、やっぱり申し訳ない気がする。せめて、踏台があれば自分でできるのに……。

きょろきょろと部屋を見渡すと、今まで積まれた巻物に隠れて気づかなかったけど、部屋の隅に五段ほどの脚立を見つけた。あれを使えば私でも一番上まで手が届く。すぐさま脚立を棚の前へと運び足をかけた。一番上の棚へ巻物を置いて降りようとした時だった。突然、脚立が大きくぐらついて、足下が空を切った。体が後ろへ投げ出され、空中でバランスをとることも忘れて、くるべき衝撃に備えて身を縮めた。

「ナズナ!!」

やってきたのは痛みではなく、包み込むような温もりだった。恐る恐る目を開けると、胸の下にしっかりとカカシ先輩の腕が回されていた。今、自分がカカシ先輩に後ろから抱きしめられるように支えられているという事に気付き、驚きと緊張で体が芯から熱くなった。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫です!ありがとうございます!」

密着している恥ずかしさにいたたまれず視線を落とすと、さっきまで乗っていた脚立の足場が壊れているのが目に入る。

「まさか私の体重が重すぎて壊れたんでしょうか……」
「……脚立のボルトが緩んでただけだよ」
「よかった……」
「よかったじゃないでしょうよ……上はオレがやるって言ったよね?どうして呼ばないの?」

先輩の語気がいつもより荒いような気がする。もしかして、怒らせてしまったんだろうか?

「……あの、先輩の手を煩わせたくなくて」
「そんな事気にしてたの?オレはナズナに怪我される方がずっと困るよ」
「すみません……!」

確かに私が怪我をすれば、側にいた先輩は監督不行届きで責任をとることになっていたかもしれない。親切心で手伝ってくれているだけとはいえ、カカシ先輩は私の直属の上司でもあるのだ。私がドジを踏めば、先輩に迷惑をかけてしまうのは当然だった。
身を固くしていると、私を抱きかかえる先輩の腕の力がさらに強くなった。

「ナズナに怪我がなくて、本当に良かった……」

そう言った先輩の声がとても優しくて、私は驚いた。

「せんぱ…」
「こーら。先輩じゃないって教えたでしょ?」

体を反転させられて、私は少しよろめきながら、先輩の顔を見上げた。

「あ……カカシさん」
「……やばい。今のはきちゃった」
「え、きゃっ」

急に棚におしつけられて、反射的に目を閉じる。

「上目遣いは反則だよ」

恐る恐る瞼を開くと、目の前にカカシ先輩の顔が迫っていた。
そっとマスクが外されて、高い鼻と形の良い唇が目にうつる。
私は言葉を忘れてしまったように、黙って先輩の顔を見つめていた。

熱を帯びた右目が、緩く笑みを浮かべたかと思うと、ゆっくりと近づいてくる。

「ナズナから離れろ」

唇が触れるまであと数センチというところで、殺気を含んだ声が沈黙を破った。カカシ先輩の後ろから聞こえたその声が、誰のものなのかはすぐにわかった。私の頭の中は一瞬にして疑問符でいっぱいになった。

なぜならその声は、カカシ先輩の声だったからだ。

目の前にいるカカシ先輩が「あーあ、もう見つかっちゃったか」と笑いを含んだ囁きを漏らす。
私は恐る恐る、先輩の後ろ側に視線を走らせた。飛び込んできた光景に、自分の目を疑いたくなった。

「か、カカシ先輩!?」

そこには、見慣れた暗部装束に身を包んだカカシ先輩がたっていた。私の目の前にいる、正規部隊の服をきたカカシ先輩に向かって、殺気を剥き出しにしてクナイを突き付けている。入り口には、いつでも印を結べる格好で構えたテンゾウが道を塞ぐように立っている。

「面倒なのが来たね」
「何者だ?ナズナからすぐに離れろ」

二人のカカシ先輩の会話からして、どちらかが本体で、どちらかが影分身という訳では無いというのは明白だった。
事態を理解した私は、頭に冷水をかけられたような衝撃を受けた。

「ナズナ、こっちへ来るんだ」

テンゾウに険しい声で呼ばれた。

「ボクは今日ずっとカカシ先輩と任務で一緒にいた。キミが一緒にいた先輩こそが偽物だよ」
「偽物……」

テンゾウの言った言葉を繰り返しながら、私はどうしても信じられない気持ちでいた。
確かに今日のカカシ先輩は、なんだかいつもと違うと思うところがあった。

でも、感じるチャクラはまぎれもなくカカシ先輩のものだった。
とても偽物だとは思えない。

縋るように、目の前の先輩を見上げると、彼は至って落ち着き払った様子で微笑みさえ浮かべている。

「驚かせちゃってごめんね、ナズナ」
「せ、先輩……」

私たちの会話を聞いて、暗部の服を着ている方のカカシ先輩の殺気が膨れ上がるのがわかった。
プレッシャーで肌がピリピリと痛む。

「ナズナに何をしようとしていた」
「あまりにも可愛いから、ちょっとね。……その殺気引っ込めないと、ナズナが怖がってるでしょうよ」

あくまで穏やかな態度の彼と対照的に、カカシ先輩の纏う空気が冷たく重くなる。

「カカシ先輩待っ…」

私の声など聞こえていないようで、カカシ先輩は次の瞬間、私の目の前の『カカシさん』に飛びかかっていた。

カカシ先輩の振りかざしたクナイが、カカシさんの首に突き刺さるかと思った途端、カカシさんはそれを軽くいなして、先輩の懐に入りこむ。その動きの速さに、見ているだけの私もぞっと背筋が凍った。

……ただ者では無い。

カカシ先輩が舌打ちしながら、後ろへ大きく跳躍して距離をとった。カカシさんはすぐに距離を詰めたかと思うと、唐突に先輩の前から姿を消した。
「カカシ先輩……!後ろです!」
テンゾウの声がとぶより一瞬早く、もう、カカシ先輩の喉元には、鋭いクナイの切っ先が突きつけられていた。

あまりにも一瞬の出来事で、呼吸も忘れてしまっていた。まさか、あの先輩がこうも簡単に後ろをとられてしまうなんて。この人は一体、何者なんだろう。さっきまで私はこの人と笑い合っていたはずなのに、今は底知れない不気味さを感じて、茫然としてしまう。

「そう熱くなるなよ。感情に任せて冷静さを欠くと、簡単に動きを読まれるぞ」
「……お前は一体、何者なんだ」
「オレが誰かって?お前が一番わかってるでしょうよ」
「……」

カカシさんはクナイを降ろして、左眼を覆っている額あてをゆっくりと上げる。
そこには紛れもなく、赤い写輪眼があった。三つ巴の紋様がゆらりと揺らぐ。
その眼を見たカカシ先輩はますます動揺の色を濃くした。

「変化の術ごときで、簡単に模倣できる眼じゃないって事は、お前が一番わかってるはずだ」

カカシさんがすっと目を細めて笑った。カカシ先輩はまだ信じられないという表情で、「まさか……」と呟くように言う。
私とテンゾウは、おろおろと二人の様子を伺うことしか出来なかった。

「そのまさかだよ」
「……やはり、お前はオレ自身なのか?」
「ま!そういう事だね」

「「ええええー!?」」

テンゾウと声をハモらせて驚いてしまう。カカシさんはくすくすと楽しそうに笑い、カカシ先輩は頭を抱えて溜息をついた。

「一体どういうことなんですか!?」
「ま、落ち着いて聞いてほしいんだけどね。オレはこの世界からすると3年後の、未来から来たはたけカカシだ」
「未来……!?」

私とテンゾウがおろおろしている中、カカシ先輩が疲れた様子で「ミナト先生か……」と小さく零した。
カカシさんは笑って頷いた。

波風ミナト――今は亡き四代目火影様と言えば、時空間忍術の使い手だ。未来から来た、というカカシさんの言葉を聞いた瞬間に、私の頭の中にも時空間忍術という言葉が浮かんでいた。四代目が開発した時空間忍術の中には、未来や過去を行き来できる術が存在していたのかもしれない。ただ、公になっていないとなれば、未完成で終わったか、その危うさゆえに禁術になったかのどちらかだろう。カカシさんの話によれば後者だったようで、四代目の開発した術は禁術として、巻物の中に封印され保管されていたらしい。その巻物は、四代目の眼の色と同じ、青い巻物だという。

「私、その巻物見ました。急に青白く光って煙が上がったと思ったら……」
「未来のオレが出て来たってわけか」

カカシ先輩が溜息をつく。
カカシさんはにこにこ笑いながら「そう言うことだね」と言った。

「それにしても、ミナト先生の言ってた巻物が本当にあったとはね……。未来のオレは不注意でそんなもん開いちゃったわけ?」
「オレじゃなくて教え子がね」
「教え子?」
「ま、今のお前はまだ知らなくていいでしょ」
「……」

カカシさんが余裕の態度で笑っているのに対して、カカシ先輩の方は目に見えて苛々している。いつも冷静な先輩が苛立ちを露わにしているなんて……こんな光景滅多にみられないから新鮮だ。
それに、今のカカシ先輩と三年後のカカシ先輩が同時に見られるなんて奇跡みたいだ。カカシさんを見た時はなんとなく違和感を感じていただけで、いつもと恰好が違う以外の事には気づけなかったけれど、こうして二人並んだ姿をみると、カカシさんの方が今の先輩よりも、纏う雰囲気が柔らかいように思う。
今のカカシ先輩より、ちょっとだけ大人の余裕を感じるカカシさんを、ついじーっと見つめてしまう。

「どうしたのナズナ?オレのことさっきから物欲しそうに見ちゃって。……さっきの続きして欲しい?」

物欲しそうって……!そういえばさっき、カカシさんにキスされそうになったんだった!思い出して、顔が一気に赤くなる。

「ち、違います!ただ、未来のカカシ先輩もかっこいいんだなあって思っただけで」
「ありがとう。そういうナズナも昔から可愛いね」
「からかわないでください!」
「はー……そうやってすぐ赤くなるところとか、すごく可愛いよ」
「わっ!」

腕を引かれて抱きしめられそうになる。
カカシさんの腕に飛び込む寸前、反対側の腕を引っ張られた。

「ナズナに触るな」
「邪魔しないでもらえる?」
「オッサンのくせに随分と盛ってるね?」
「自分の気持ちもうやむやにしている若造に言われたくないね」

左手をカカシさんに、右手をカカシ先輩にとられてしまい、私はおろおろしながら二人を交互に見た。

「今夜泊めてくれるって言ったよね?ナズナ」
「は?何寝ぼけた事言ってんだ。とっととナズナから離れろ」
「離れるのはお前でしょ。……ナズナ、夕飯は何食べようか?」
「ナズナ、こんな奴部屋に泊めるなんてオレが許さないよ」

「あ、あの…先輩、カカシさんも、落ち着いてください!」

険悪な雰囲気の二人に必死に訴えるけれど、どちらも私の声なんて全然聞こえていないみたいだ。

「ちょ、痛い!……痛いです!」
「こら、ナズナが痛がってるだろ。さっさと手を離しなよ」
「オッサンは黙ってなよ」

ますます二人の声は大きくなり、私の腕をひっぱる力も強くなる。

「先輩たちいい加減にしてください!ナズナがちぎれちゃいます!」

テンゾウの救いの声が聞こえて、涙が出そうになった。

「そんなにナズナの部屋に泊まりたいなら未来の先輩お一人で、どうぞ好きにしてください。ナズナはボクんちに泊まらせますから」
「テンゾウ……!」

二人の腕の力が弱まった隙に、仁王立ちしているテンゾウの後ろへと隠れる。
キツネに追われて安全な森へ逃げ込んだウサギの気分だ。

しかし、カカシ先輩とカカシさんの放つ殺気はますます膨れ上がったのだった。

「テンゾウ、勝手なこと言わないでくれる?」
「なんでナズナがお前んち泊まらなきゃいけないわけ?」
「二人きりにさせるわけないでしょ?」
「だったらオレもテンゾウの家に泊まるよ」

「ちょ、ちょっと待ってください何勝手な事言って…」

「そうと決まったら巻物の整理なんてとっとと終わらせちゃうよ」
「そうだね。こっちはオレがやるからそっちはアンタがやって」

てきぱきと作業をしはじめたカカシ先輩とカカシさんを前に、私とテンゾウはただ立ち尽くす事しかできなかった。

「カカシ先輩が二人って事は……ボクの心労も……二倍……」

テンゾウが頭を抱えながら言う。

そんなわけで今夜。
私とカカシ先輩とカカシさんの三人は、テンゾウの部屋にお泊りすることになったのでした。


[back]
×