(前編)
「ねぇ、今年も一緒に行かない?」
夏真っ只中の昼下がり。クーラーを効かせたテンゾウの部屋で、コンビニで買ったヨーグルトパイン味の棒アイスを食べている。
「ああ、もうそんな季節なんだね」
目的語を抜かした私の誘いに、テンゾウは当たり前のように返した。
「そういえば下の掲示板にも貼られてたね。ボクは特に任務入ってないし、大丈夫だよ」
「私も今のところ任務入ってないんだ」
「なら今年も一緒に見ようか」
テンゾウがスプーンを舐めながら言う。彼がさっきからちびちびと味わいながら食べているのは、某高級アイスの黒ごま胡桃味だ。梅雨の時期から蓄えに蓄えて、冷凍庫にまだまだぎっしり在庫しているというのに、私には一個もわけてくれない。テンゾウのけち。
「今年は一万発上がるらしいよ!」
「へぇー、楽しみだね」
「うん!待ち遠しいなぁ……」
「ナズナは花火大好きだもんね」
「花火が嫌いな人なんて居るの?」
夏のこの時期にやる花火大会は、テンゾウと行くのが昔からの定番になっている。毎年不思議と、花火の日には、私もテンゾウも任務が入らなかった。初めて一緒に行ったのは、もう何年前になるんだろう。仲の良い女友達は彼氏がいるので誘いづらく、かといって、一人で花火を見るのは寂しいので、気軽に誘えるテンゾウの存在は有難かった。
今年の花火大会の日も、なぜか二人して任務が入っていないようだ。今年も見たいと思っていたので、当然のようにテンゾウと一緒に行くことになって良かった。ほっとしながら、一瞬、カカシ先輩のことが脳裏をよぎった。
本当は、身の程知らずにも、今年、カカシ先輩と一緒に花火を見に行けたらいいな、と密かに思っていた。けれど結局、先輩を誘う事はできなかった。つい先日、勇気をだしてカカシ先輩を誘おうとしたのだけれど……色々あって失敗に終わったのだ。
あの晩のことを思い出すと、恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。ボーっとしていると、唐突にテンゾウが大きな声をあげた。
「ナズナ!アイス垂れてる!」
「え、わあ!」
ハッとして手元を見ると、棒を伝ってアイスが指の方まで垂れていた。慌ててティッシュの箱を探そうとしたら、斜め後ろから伸びてきた手が、抜き取ったティッシュを渡してくれた。お礼を言って受け取り、アイスでべとべとになった指を拭きながら……あれ、と首を傾げる。この部屋には私とテンゾウしかいないのに、今の手、テンゾウとは真逆の方から伸びてきたような……。
「ほら、はやく食べないとまた溶けるよ、ナズナ」
振り向くとそこにいたのはカカシ先輩で、私は驚きすぎて言葉を無くした。
「はあ…涼しいねこの部屋。テンゾウ麦茶くれる?」
「あなたって人はいつもいつも窓から……玄関から来てくださいって何度言えばわかるんですか」
どうやらまた窓から入ってきたらしいカカシ先輩に、テンゾウがあきれ顔をする。
「いいから麦茶」
「はいはい、わかりましたよ」
テンゾウは立ち上がり、台所に行ってしまった。
縋るようにその背中を目で追うけれど、何も言えず。
部屋には私とカカシ先輩の二人だけになってしまった。
どうしよう……あんな事があったばかりなのに、どんな顔して先輩と向き合えば……。
「ナズナ?」
「は、はい!!」
返事をする声が裏返り、ますます緊張してしまう。
先日のことを思い出してしまって、とてもカカシ先輩の顔を見る事なんてできない。
失礼だとは思いながらも、俯いてしまった。
「……どうしたの?」
不思議そうな声がふってくる。
……やっぱり、カカシ先輩、あの晩のことを何も覚えていないんだ。
相当酔っ払ってらしたから、もしかしたら、とは思っていたけれど。
私は息を吸い込んで、意を決してカカシ先輩の顔を見た。
先輩は心配そうな顔をしていた。
本当に何も覚えていないんだな、と思うと、ちくり、と胸の奥が痛んだ。
「……すみません。なんでもないんです」
「……そう?ならいいんだけど」
まだ探るような目をしている先輩に、なんとか笑顔を張りつけて答える。
……やっぱり誰でも良かったのかな。
「ナズナ?またアイス溶けてきちゃってるよ」
「あ、はい……!」
残り少なかったので、一気にアイスをぱくりと食べた。
先輩にじっと見られているような気がして、私はまた目を伏せた。
「……テンゾウに用があって来たんですか?」
「いや、今日はナズナを探してたんだけど。……またテンゾウの部屋にいたんだね」
カカシ先輩が右手で頭を掻きながら言う。
「私を探されてたんですか?」
少しだけ驚いて、目を瞬いた。任務絡みだろうか。
こくりと頷く先輩は、「部屋にもナズナが居なかったから、テンゾウに聞こうかと思って寄ったところ」と言った。
この暑い中、探し廻らせてしまったとしたら、申し訳ないなと思った。
カカシ先輩に謝って、テンゾウの部屋にいた理由を話した。理由と言っても大した事では無く、夏の間はテンゾウと結託して、エアコン代節約のために、どちらかの部屋に集まっているというだけなのだ。
「へぇ……節約で」
カカシ先輩は少し考えるような素振りを見せたけれど、納得したようだった。節約に頑張っていることを先輩に知られてしまったのは、何だかちょっと恥ずかしい。
そうこうしている間に、テンゾウが麦茶の入ったグラスを持って戻ってくる。カカシ先輩はそれを受け取ると、顔の半分を覆っていた口布を下げて、麦茶をごくごくと飲んでいく。外はうんざりするような暑さだから、相当喉が渇いていたはずだ。布ごしでもわかるくらい大きく動く喉仏をぼんやりと見つめていた。グラスから口を離した先輩の唇に、無意識に視線が移る。この間の夜の事を思い出してしまって、私はまた俯いた。胸がどきどきと音を立てる。
空になったグラスと中の氷が当たって涼しげな音が響く。
「落ち着きましたか?」
「うん、ありがとう。ところでナズナ、花火大会の日空いてる?」
「え……!」
花火大会と聞いて、一段と胸の鼓動が高鳴った。ついさっきテンゾウと一緒に行こうと約束したばかりで、そのあとカカシ先輩の事を考えたばかりだったから、なんとなく動揺してしまって、「どうしてですか」とカカシ先輩に問い返す声が小さくなった。
「急だけどその日、行って貰いたい任務があってね」
「あ……任務ですか」
ほんの一瞬、もしかして花火大会に誘って貰えるのでは、なんて期待をしてしまった自分が恥ずかしい。
「もし花火に行くつもりだったら申し訳無いな、と思ったんだけど。その様子だと、やっぱり行く予定あったみたいだね」
カカシ先輩が気まずそうに言った。がっかりしたのが顔に出てしまっていたらしい。先輩が気遣わしげな視線をむけてくるので、私は焦った。
違うんです、がっかりしたのは花火に行けなくなった事じゃなくて……とは言えず、かといって、勝手に先輩に誘って貰えるのではと期待して、凹んでいる事に気づかれたくは無い。
言葉を探していると、それまで黙っていたテンゾウが口を挟んだ。
「カカシ先輩、それボクが代わりに行きますよ」
「え、いいよテンゾウ……」
驚きながら慌てて止めた。
「花火楽しみにしてたんだろ。ナズナは誰かと行ってきなよ」
そんなことを言われても、テンゾウが任務に行ってしまうなら誘う相手もいなくなる。
カカシ先輩が小さく溜息をついて、「……あぁ。テンゾウと行くはずだったんだ?」と言った。
「あいにく、今回の任務では結界忍術が得意なナズナが指名されていてね」
そう続けたカカシ先輩の声が、なんとなく冷たく聞こえて、どきりとした。
「解りました。……花火のことは気にしないでください。というか、気を遣わせてすみません」
大体、花火大会へ行きたいので任務へ行けません、なんて、忍びの世界で通じるはずがないのに。
カカシ先輩に気を遣わせてしまったことが恥ずかしいし、呆れられているのではと思うと、情けなくて声が固くなる。
「……今回はオレと二人だから宜しくね、ナズナ」
さっき一瞬感じた冷たさは気のせいだったのかと思うような、普通の調子でカカシ先輩が言った。
カカシ先輩と二人で任務って、今まで無かったかもしれない。お祭りの時も二人きりのようなものだったけれど……。
ふいにお祭りの夜の楽しい思い出が頭をよぎったけれど……今はそんなことを考えている場合では無いので、カカシ先輩が説明する任務の内容に、意識を集中した。
最後に集合場所と時間を伝えると、カカシ先輩は来た時と同じように窓から帰って行った。
「ナズナ、花火楽しみにしてたのに残念だったね」
「うん……一緒に行けなくなってごめん」
私が謝るとテンゾウは、わざとおどけて、「ナズナの分までしっかり見てくるよ」などと言う。
「でも、泊りの任務にはならないみたいだし、早く終われば花火に間に合うかも」
「そっか。間に合うと良いね」
それきり会話は打ち切りになって、またアイスの残りを食べ始めたテンゾウを見るとも無しに見ながら、ぼんやりと思いを巡らせた。
カカシ先輩と任務。しかも二人で。いつもなら、あのカカシ先輩と一緒の任務だと喜ぶところだけれど、二人きりというのは緊張してしまう。それに、概要を聞いた限り、なかなか重たい任務になりそうだ。テンゾウにはああ言ったけど、花火には間に合わない可能性の方が高いと思う。
どっちにしろ……あの晩、カカシ先輩を花火に誘えていたとしても、行けなくなっていたんだな、とふと思った。
そして、カカシ先輩はすっかり忘れているらしい、先日の夜の事を思い出した。
暗部の何人かで、そこそこ大人数の飲み会が開かれたのは、三日前の夜だった。普段なかなか、ゆっくりとお話しする機会の無い先輩方が沢山参加されるというので、私もテンゾウも楽しみにしていた。
私はぎりぎり、お酒が飲めない年齢なので、ソフトドリンクを飲んでやりすごしていたのだけれど。
諸先輩方……カカシ先輩も含めて、皆さん沢山飲まれていたので、酔っ払っている人は、大分酔っ払っていたように思う。
テンゾウもひどく酔っ払って、かなり面倒くさい感じになっていた。ずっと目がにこにこしていた序盤は、まだ良かったのだけれど。後半はすっかり目が据わって、ぐちぐち言ったり泣き出したり、何度も同じ話をしたりするので、さすがに疲れてしまった。こういうのを絡み酒と言うんだろうか……。テンゾウの意識が他に逸れた一瞬の隙をついて、私はそそくさと隣を離れた。
ウーロン茶の入ったグラスを片手に、誰の隣に行こうか見回していると、皆と少し離れたテーブルで、一人静かに飲んでいるカカシ先輩の背中が目に入った。
声をかけていいのかな、とドキドキしながら、ちらりと周りを見回す。皆さんそれぞれ、賑やかな輪をつくって、会話に夢中のようだった。
ひとつ深呼吸をしてから、カカシ先輩に声をかけてみようと決心し、そろそろと近づく。先輩の真後ろにたったところで、ふと、壁に貼ってあるポスターが目に入った。
(あ……花火大会、もうすぐなんだ)
先日、木ノ葉神社の大祭で任務にあたった時、……今度は、カカシ先輩と花火を見に行けたらいいな、と思ったことを思い出した。
「……ナズナ?」
急に振り向いた先輩と目が合って、どきりとする。
「カカシ先輩。……顔真っ赤ですね」
ちょっとびっくりしながら、素直な言葉が口から飛び出てしまう。カカシ先輩、お酒を飲むと顔に出ちゃうタイプなんだなぁ。意外なような、そうでもないような。顔を赤くして、ちょっと潤んだ目で「そう?」と首を傾げる先輩が、なんだかかわいくて、微笑んでしまう。
「立ってないでここ座ったらー?」
「はい!ありがとうございます」
どことなく間延びした先輩の声に、にやけてしまいながら、勧められた座布団の上に腰を下ろす。
「あれ、まだ飲めないんだっけ?……あいつと同い年かと思ってた」
「テンゾウですか?一つだけ違うんです」
答えると、カカシ先輩は「そうなんだね」と言いながら、すっと目を細める。
「ナズナはお酒に弱そうだよなあ」
「そうですか……?」
「きっとお前は酔っ払っても可愛いんだろーね」
「えっ……!?」
カカシ先輩の手が突然のびてきて、わしゃわしゃと頭を撫でられた。びっくりして、どきどきしながら先輩の顔をみると、にこにこと上機嫌な様子である。
(あれ、カカシ先輩もしかして、大分酔っ払っているのでは……)
気づいた時にはもう、カカシ先輩は私の肩にもたれかかっていた。さらさらと銀髪が肩にあたる。緊張のあまり、私は固まってしまった。
「……」
「……か、カカシ先輩?」
「……んー」
返事ともつかないような声がかえってきて、先輩は黙ってしまった。どどどどどうしよう、この状況……。ドキドキと激しく高鳴っている私の心臓の音が、カカシ先輩に聞こえてしまっていないか不安になる。といって、先輩を振り払うわけにもいかず、私は空いている方の左手でそっとグラスをつかみ、お茶を口に含んだ。
しばらくそのままでいた先輩が、思い出したように体を離して、今度はじっと私を見ている。
「ど、どうしたんですか?」
「んー?……可愛いなぁと思ってね」
「先輩さっきからおかしいです……」
「おかしくないよー?」
へら、と笑うカカシ先輩は、どうみても酔っ払っている。それなのに、先輩はまたテーブルから小さなグラスをつかむと、こくりと一口お酒を飲んだ。
「それ……何のお酒ですか?」
「ん?ナズナも飲んでみる?」
「あ、いや、大丈夫です!」
慌てて断る。美味しいのに、といいながら、カカシ先輩はまたぐび、と透明なお酒を流し込んだ。何のお酒なのかはわからないけれど、きっと強いお酒なんだと思う。カカシ先輩がこんなになるなんて……。元々色白だから余計に赤く見えるのかも知れないけれど。
「ね、触っていい?」
「へっ……!?」
「やわらかそ……」
何を言ってるんですか、と思っているうちに、先輩の指が伸びてきて、私の頬をつついた。
「わっ……」
「……」
先輩はにこにこ笑いながら、無言で私のほっぺをつついている。スイッチじゃ無いんだから、そんなに押しても何もおきませんと言いたくなるけれど、どうしたら良いか解らず、されるがままになっていた。
抵抗しない私に味を占めたのか、先輩は今度は私のほっぺをつまんで弱い力でひっぱってきた。
「ひゃ、ひゃめてください」
「ははは」
何なんだろうこれ……。完全に遊ばれているのだけれど、よっぱらっているカカシ先輩が物珍しくて、恥ずかしさと面白さが半分半分だ。おもちゃを見つけた子供みたいに、カカシ先輩はなんだかやたら楽しそうな顔で私のほっぺをいじっている。
「先輩……酔っ払いすぎですよ」
「うん……」
あ、認めた……と思っていると、カカシ先輩の頭ががくりとおれて、俯いた。
「カカシ先輩?大丈夫ですか?」
「……」
心配になっているとまた、先輩が私にもたれかかってきて、
あれ、と思っているうちに、背中に腕がまわり、私はカカシ先輩に抱き締められていた。
「……!!」
「ナズナ……」
カカシ先輩の熱い息が首筋にかかる。驚きすぎて体の力が抜けてしまった。
「ん……いい匂い」
(……え、え、嗅がれてるの?恥ずかしすぎる!助けてテンゾウ!)
先輩がくんくんと鼻をならす音を聞きながら、私は必死に他のテーブルに視線をむける。みんなそれぞれの会話に夢中で、全然こっちに気づいてくれない。テンゾウの居たあたりに視線をやると、机につっぷしているのが見えた。どうやら潰れたらしい。こう言うときだけ、役に立たないなんて!
その隣で、モクとシンが喋っていたので、こっちむいて!と念じると、届いたのか二人の視線がこちらに向けられた。一瞬かたまったあと、にやにやして、こそこそ何かを話している。ちょっと!面白がってないで助けてよー!
「だ、だめです先輩」
「なんで……?」
「なんでって……駄目なもんは駄目です」
「やだ」
先輩の低い声が耳のすぐ側で発せられる度、吐息がくすぐったくて、背中をぞくぞくと震えが走った。耳が…耳が…もうだめ、限界!
「トイレ行ってきます!」
カカシ先輩をおしのけて、そう宣言する。先輩はとろんとした目を不機嫌そうに細めて、「じゃあオレも行く」と言った。
「何言ってるんですか!」
「だってオレも行きたいもん」
「……」
もんって……かわいすぎるよ。
黙って立ち上がると、カカシ先輩もゆっくり立ち上がる。あわてて背を向けて、トイレに向かって歩き出そうとしたら、今度は後ろから抱きつかれた。嘘でしょ。
「先輩…ほんとに…トイレ行きたいので」
「このまま行けば良いでしょ」
「このままって……」
「……」
先輩が黙り続けるので、私は仕方なく、そのままにして歩き始めた。カカシ先輩にしがみつかれたままなので足取りは重い。だらだら移動する私たちに気づいた暗部の先輩方が、げらげら笑いながら視線を浴びせてくる。ものすごく恥ずかしい。私はもう何も言えず、俯いて個室へ向かった。
「先輩トイレ着きましたよ。離れてください」
「やだ」
「……」
「オレも一緒に入る」
「ええ!?無理に決まってるじゃないですか!!先輩はあっちです!」
ドアの前でなんとか先輩をふりきって、逃げるようにトイレに入った。びっくりした……。まさかあんなこと言われるなんて。
トイレから出ると先輩はまだ壁にもたれていた。
「おかえり」
にっこり優しく微笑まれて、どう返したら良いのかわからなくなる。カカシ先輩も絡み酒なんて、聞いてないよ……。だからまわりに誰も居なかったのか。
でも、先輩に絡まれるのがそんなに嫌では無いなんて……私はおかしいだろうか。
そのあと席に戻ってからも、カカシ先輩は私の手をとって、ずっといじいじさわり続けていた。どういうわけか、他の人たちは誰も近寄ってこない。あの、べつに気を遣われるような関係ではないんですむしろ誰か助けてください、と思ったけれど、私が助けをもとめて視線をむけると、みんなして見ないふりなのである。暗部の先輩がた、冷たすぎではないだろうか。もしくは、面白がられているのかも。
だんだん、酔っ払ったカカシ先輩の相手に慣れ始めた頃、また壁のポスターが目に入った。
今年の花火は一万発も上がるんだ……。きっと、すごく綺麗に違いない。
……もしかして今って、カカシ先輩を花火に誘う、またとないチャンスなのでは。
「あの、カカシせんぱ「ね、また抱き締めても良い……?」
「……」
カカシ先輩は、私が私だとわかってそう言っているんだろうか?
ニコニコ笑っている先輩の顔は、相変わらずものすごく赤い。
先輩がひどく酔っ払っているのは間違いがなかった。
触らせてくれるなら誰でもいいんじゃ……と思って、私は押し黙った。
返事をしないことを許可ととったんだろうか。
またもや、カカシ先輩に抱き締められてしまった。
とくとくと、先輩の心臓の音が聞こえる。少し速いけれど、それでも、今の私の鼓動の速さに比べたら……。
「……ひゃっ!?……か、カカシ先輩やめ」
急に耳朶に湿った感触がして、それが先輩の唇だと気づいて……私の頭の中は大パニックになった。
え、え、耳を……噛まれてる!?
噛むと言っても、柔らかな唇によって、だった。
もう、私の中の驚きメーターは、さっきから振り切れちゃっている。
「……ナズナ」
「ひゃん!」
耳を噛まれたというだけでも呼吸が止まりそうなくらい驚きなのに、ぺろりと耳の端を舐められて思わず声が出た。
「声可愛い……」
「せんぱいやめ……んっ……」
耳朶を甘噛みされて執拗に舐められ、信じられない気持ちと恥ずかしさで頭はパンク寸前だった。
カカシ先輩を引き離そうとするけど、舐められたところから力が抜けていき、指を絡めとられて抵抗もままならない。
向こうのテーブルの人達に見られてしまっているのではと先輩方に目をやると、かなり盛り上がっているらしく、こちらには目もくれない。テンゾウは変わらずテーブルに伏せているし、モクもシンも、もはやこっちを気にしていないようだった。
もし誰かにこんなところを見られでもしたらと思うと、恥ずかしすぎて気が気じゃない。
「どこ見てるの?」
「あっ…」
散漫する意識を引き戻すかのように首筋に鈍い痛みが走った。
体が後ろに大きく傾いて天井と視界の端に揺れる銀髪が見える。押し倒されていると気づいて、これは本当にまずいと体を捩ってみても、カカシ先輩は首筋に顔を埋めたままびくともしない。
「カカシ先輩だめです、みんないるのに……」
いくらカカシ先輩とだからって、こんなところで、酔った勢いで、なんて絶対にいやだ。
私が知らないだけで、カカシ先輩は酔っぱらうといつもこうなんだろうか。
見境なく誰にでもこういうことをしているのかと思うと胸が苦しくなった。
「せんぱい……っ」
ずしりと体重がのしかかる。先輩の顔が近づいてきて、これはもう、だめだ……と思った私は。
(カカシ先輩、ごめんなさい!)
心の中で謝って。
最後の力を振り絞り、思いっきり先輩におでこをぶつけた。
がつん、という衝撃で、ぎゅっと閉じた瞼の裏に火花が散る。
「……」
「……」
ずしり、と先輩の体の重みを感じた。痛みがおでこから引いていくのをまって、そっと目を開けた。カカシ先輩は私に覆いかぶさったまま、意識を失っていた。
どっと体の緊張が解けて力が抜ける。
「カカシ先輩、ごめんなさい……」
謝る声はたぶん、もう先輩には届いていないと思う。
なんとかカカシ先輩の体を押し退けて抜け出して、一目散にトイレへと走った。
その途中トイレから戻ってきたらしいキキに「顔赤いけど大丈夫?」と声をかけられたけど「酔っただけだから!」と返すので精一杯だった。
あの日から今日までの間、耳元で感じたカカシ先輩の息遣いや熱い唇の感触を思い出しては、次カカシ先輩に会ったらどんな顔すればいいんだろうかとドキドキしていた。身を守るためとはいえ、頭突きをしてしまった罪悪感もある。
でも、今日の様子では、カカシ先輩はどうやら全く覚えていないらしい。
カカシ先輩が覚えていないのなら、私も早く忘れてしまおう。
あれは酔っぱらっていただけなんだから。別に私じゃなくてもよかったんだから。事故みたいなものだったんだ。
部屋に戻ったら忍具の手入れをしよう。
気持ちを任務の事へと切り替えて、あの日のことを頭の片隅へと追いやった。
何も知らないテンゾウが、ぱらぱらと雑誌をめくる姿を見ていると、少しだけ、心が和んだ。
カカシ先輩と任務の日がやってきた。
今回の任務は、火の国の北西にある封印の祠の結界が弱まっている為、その結界を張りなおすことが主要任務だった。
結界を張りなおすだけならまだいいのだけれど、その封印の祠を狙っている輩がこの結界が弱まっているチャンスを狙ってくるかもしれないとの情報もある。
術者を中心に発動させられる結界ならそれほど時間もかからないが、今回のように術者と対象が別離している場合は結界の印も膨大で時間がかかる。
私が結界の印を結んでいる間は完全に無防備になる。その間敵襲を受けた時に、私を護衛してくれるのがカカシ先輩の役目だ。カカシ先輩の強さと頼もしさは十二分に知っているから、安心して結界を張ることに集中できる。
山の中を走り続けること数時間。
山の斜面を下った谷間に目的の祠らしきものを見つけた。近づくと確かに結界が弱まっているのを感じる。
「この祠で間違いなさそうです」
「そうか……」
先輩が辺りを念入りに見回している。それもそのはず。こんな谷間に祠があっては、上から襲撃し放題である。山の中なので日も入りにくく薄暗いので視界も良くはない。護衛するカカシ先輩からしたら堪ったものじゃないだろう。
「大丈夫。何があってもナズナには傷ひとつつけさせやしないよ」
カカシ先輩が安心させるようににこりと微笑んだ。その笑顔に僅かに抱いた不安は一瞬で吹き飛んでしまう。
「始めようか」
「はい!」
祠の前に立って小さく息を吐く。
結界を張りなおすには、まずこの弱っている結界を解かなければならない。それから新たに結界を張るまでは祠の結界は解けたままになる。そこを狙ってくる輩が現れるかもしれない。でも、大丈夫。私にはカカシ先輩がついてる。
後ろを振り返ると、カカシ先輩がそれに気づいて大きく頷いた。私も頷き返して前を向く。
「解!」
祠に手を翳して結界を解いた。
その後素早く新たに張る結界の印を結ぶ。
一つでも印を間違えれば最初からやり直しになってしまうし、だからといってもたもたしていては敵に狙われてしまうので、素早くかつ正確に。
殺気を感じたのと、金属がぶつかる音がしたのはほぼ同時だった。空中で爆発音と突風が吹き、敵襲を受けたのだと理解した。敵の数は?状況は?気になることは多々あるけれど印はもう半分以上は結びきっている。集中を乱してはじめからやり直すより、このまま最後までやりきってしまった方が得策だろう。
敵はカカシ先輩に任せて、私は私のやるべきことをやろう。印を結ぶことにより一層意識を集中させるべく目を閉じた。
最後の印を結び終えて目を開けると、辺りにはかなりの数の忍が倒れていた。この数全部カカシ先輩が一人で……。
「ナズナお疲れ様」
「カカシ先輩もお疲れさまです」
「怪我してない?」
「はい。お陰様で集中できました。ありがとうございます」
「そう、よかった」
カカシ先輩の笑顔に胸がきゅんとなる。
「あれだけの量の印覚えているなんて流石だね」
褒めてもらえた事が素直に嬉しくて、顔が綻ぶ。カカシ先輩の手がふいに頭に向かって伸びてきた。撫でられるのだとわかった時、咄嗟に数歩後ずさってしまった。カカシ先輩が行き場のなくなった手をじっと見つめたまま固まっている。
しまった!これじゃああからさまに避けたみたいですごく感じ悪い。
「ち、違うんです、今のは……」
無意識に先輩を避けてしまった事に、自分でも驚いていた。カカシ先輩が嫌とかでは、絶対にないはずだけれど……先日の居酒屋での出来事のせいで、咄嗟に、体が反応してしまったのだと思う。もちろん、あの夜の事を覚えていない先輩には言えない。
任務中は、気持ちを切り替えていられたけど、任務が完了して気が緩んでしまったのか、カカシ先輩に触れられた時のことを急に思い出してしまって、顔が見られない。上手い言い訳も浮かばなくて、俯く私に先輩は背を向けてしまった。
「……帰ろう」
「……はい」
カカシ先輩の声に冷たさを感じる。不快な気持ちにさせてしまった。そうさせたのは自分なのに、カカシ先輩の離れていく背中を引き止める事が出来なかった。
→後編
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