(後編) 


帰りの道中、カカシ先輩の数メートル後ろを走りながら目の前の背中を見つめた。けれど、先輩が後ろを振り返ることはなかった。私の態度に怒っているんだろうか。せっかく褒めてくれたのに、あんなふうに避けてしまったことを……カカシ先輩がどう思っているのか怖くて、話しかけることが出来なかった。

行きと同じように数時間かけて走って、里が近づいてきた頃には日がすっかり落ちていた。
……もう終わっちゃっただろうなあ、と思っていると、遠くでドーンと音がして、大気の震えが伝わってきた。

「花火……!」
「まだ間に合いそうだね。急ごうか」
「はい!」

森を抜けると、空に打ち上がった大輪がはらはらと散っていた。間髪入れずに次が打ち上げられ、パッと花が咲いて、やや遅れて心臓を突くような音が響く。
花は遠いけれど、今年の初花火を見られたことが嬉しくて、思わず感嘆の声を漏らしてしまう。カカシ先輩が振り向いて、小さく笑った。いつも通りの優しい笑顔に、緊張していたはずの心が和らいだ。

里の大門をくぐると、門番の二人まで空を見上げていた。つられて私も、ちらちら花火を見上げてしまいながら、まずは火影様に報告をしなきゃ、と思っていると、カカシ先輩が「ナズナは行っておいで。オレが報告しておくから」と言った。

「そんな……!私も一緒に行きます」
「約束してたんでしょ、テンゾウと」
「テンゾウは森林部隊と見に行く事になったみたいなんで、大丈夫です!」
「森林部隊って……あいつらか」

テンゾウの部下にあたる(といっても、年が変わらないのでテンゾウが上司として敬われているのかは微妙な時もある)キキ・モク・シンの顔を思い浮かべたのか、先輩が小さく吹き出した。

「カカシ先輩のほうこそ、誰かと約束したりしてないですか……?やっぱり、私が一人で報告に行きます」

私がそう言うと、カカシ先輩は短い溜息をついた。よ、余計な気遣いだったかな……。

「……ま、火影様も花火を見てらっしゃるんだろうし、影分身にでも行かせれば良いか」

任務に関しては真面目な先輩らしからぬ提案に、きょとんとしていると、カカシ先輩が印を結んで二人に分身した。「じゃ、よろしく」とカカシ先輩の本体が、もう一人のカカシ先輩の肩を叩く。「ハイハイ」と返事した分身のカカシ先輩が、花火を背にアカデミーの方へ行くのを見送った。

「……は!せせせせんぱい、すみません」
「最初からこーすれば良かったね」

気の利かない自分に呆れて、あわあわしていると、先輩は眉を下げて笑いながら「ほら、終わっちゃうよ。ナズナ」と空を指さした。建物の隙間から見える花火は、赤に青にと美しく色をかえている。風が火薬の匂いをここまで運んできていた。

「テンゾウたち、どこで見てるんだろうね」
カカシ先輩がぼそりと呟く。
「どこで見るのかまでは聞いてませんでした……」
もしかしたら先輩も一緒に見てくれるのかなと、どきどきしながら返事をする。でも、先輩が誰かと約束していないという保証は無い。
「……とりあえず、ここからじゃあんまり見えないし、移動しようか」
「は、はい!」

あれ、これってやっぱり、カカシ先輩と一緒に花火をみる流れ……!?嬉しくて、顔が仄かに赤くなるのを感じた。胸が苦しくなるほど、どきどきしながら、カカシ先輩の後ろをついて歩く。そうしている間にも、絶え間なく花火の音が響いていた。
道行く人の数が増えていき、はぐれてしまいそうだな、と思っていると、カカシ先輩がふとこちらを振り向いた。

「ナズナ。……手、繋いでもいい?」

真っ赤な花火の光に照らされて、先輩の顔まで赤く見える。
どぎまぎしながら、「はい」と返事をして、カカシ先輩に手を伸ばした。
先輩の大きな左手に、私の右手はきゅっと包み込まれてしまう。
はぐれてしまわないため、ただそれだけだ。
けれど、私の心臓は壊れそうなほど高鳴っていた。


先輩とオムライスを食べに行った日、お祭りの夜、そして今。
カカシ先輩にとって、後輩と手を繋ぐことは、そんなに特別なことじゃないのかもしれない。
けれど私にとっては、毎回特別で、緊張してしまう。

数か月前までは、手の届かない憧れの存在だった。一緒に任務につけるだけでも信じられない気持ちだったのに、先輩と共に過ごしていくうちに、先輩に対して憧れや尊敬とは違う感情が芽生えて、それはどんどん大きくなっていた。

そして今、その正体がなんなのか、はっきりとわかった。



私は、カカシ先輩のことが好きなんだ。



胸に響くこの音が、花火の音なのか、心臓の鼓動なのかもわからないくらい大きく音を立てている。
先輩が前を歩いていてよかった。今顔を見られたら花火を理由にするだけでは誤魔化しきれそうにない。

先輩が通りの角を曲がったので、私もそれについていく。河川敷に向かうにはあのまま進んだ方が近いのに。先輩の足は迷いがないけれど、一体どこへ向かおうとしているのだろう。

「……カカシ先輩、どこへいくんですか?」
「ん、花火が見やすいとこ」
「先輩、穴場をご存じなんですね!」
「穴場って言うか……オレんちのベランダなんだけど」
「えっ!」

カカシ先輩の家!?予想外の答えに驚いて思わず足が止まる。

「……嫌だ?」
「……嫌じゃありません」

私の答えを聞くと、先輩は目を細めて優しく笑った。心なしか、握られた手の力が強くなった気がする。どうしよう、胸が苦しい……。また歩き出した先輩と共に、人の波を抜けていく。花火の音がまわりの建物に反響して、鼓動の音をかき消してくれた。


はじめてお邪魔するカカシ先輩の部屋は綺麗に片付いていて、当たり前だけどカカシ先輩の匂いがしてドキドキしてしまう。男の人の部屋はテンゾウの部屋しか入ったことがないけれど、見渡した限りでは先輩の部屋の方が物が少なくてすっきりしている。
「ナズナ」
「ひゃい!」
緊張のあまり噛んでしまうと、先輩が優しく微笑んだ。
「獲って食いやしないから安心しなよ」
「……はい」
先輩を意識してしまっていることがばればれで恥ずかしい。

カカシ先輩は他人を容易く家に入れるようには思えないけれど、こうして家に入れてもらえるということは、少しは気を許してくださっていると、思ってもいいんだろうか。

ベランダのある部屋には、珍しそうな忍術書や巻物、忍具が並べられていた。
ちらちら見てしまっていると、「興味があるなら、今度ゆっくり見に来なよ」と先輩に笑われた。

「いいんですか!?」
「うん。料理を教えてあげる時にでも」

一緒にポトフを作ったあの時、先輩は本心から言ってくれてたんだ……。その場限りの口約束じゃなかったことに、心が和んだ。
先輩の後に続いてベランダに出ると、そこからは本当に良く花火が見えた。間をおかずに次から次へと打ち上がるその頻度と大きさに、もうクライマックスなんだなぁと感じた。

「会場に行く必要ないですね……本当に綺麗……」
「うん。間に合って良かったね」

暫く並んで、花火を眺める。光のおたまじゃくしが空を泳いで、高い所で弾けては、赤、青、緑、白が賑やかに夜空を染める。キツネやウサギの形をした花火も上がり、「先輩のお面みたいですね」と指さしながらはしゃぐと「あのウサギはナズナみたいで可愛いね」と微笑まれた。暗部面のことを言われただけなのにドキドキしてしまい、火照った顔を隠そうと私は花火に目を戻す。

カカシ先輩の部屋に行くまでの間に、浴衣姿の人をたくさん見た。私もできることなら浴衣を着て花火を見たかった。今の私は着飾るどころか、任務が終わった後で泥や土埃をかぶっている。けれどカカシ先輩と……好きな人と見る花火は特別で、どんな格好をしていたって嬉しかった。これまで何度も花火は見てきたけれど、今日の花火は今までで、一番きれいな気がした。

ちらりと横を見ると先輩とばちりと目が合ってしまい、恥ずかしくなって顔を逸らす。花火はまだ打ち上がっているのにどうしてこっちを見ているんだろう。

「……せ、先輩?花火見ないんですか?」
「もう十分見たよ。それに、ナズナの顔見てた方が楽しいし」

……私を見て何が楽しいんだろう。花火そっちのけで見てしまうくらい、奇怪な顔をしていたんだろうか。そんな覚えはないけれど、気を付けよう。顔を引き締めてまた夜空を見上げると、それまでよりも更に迫力のある大きな音を立てて、大輪の花火が咲いた。こちらに迫ってくるのではと感じるほど、視界いっぱいに広がって、散り散りになる光の中、ひときわ強い、赤い光の玉がひとつ、ゆっくりと落ちていった。静けさが戻り、あとには煙がゆるやかに流れていく。

花火の消えていったあとの余韻に、切なくなる。

「もう、終わりでしょうか」
「……どうだろうね」

楽しかった時間がもう終わってしまうのかと思うと、途端に寂しくなった。
けれど、もう少し先輩と一緒にいたいなどと言える勇気は出なくて、自分の服の裾をきゅっと握る。

「ナズナ」

名前を呼ばれて先輩の顔を見た。真っ直ぐな目に射貫くように見つめられて、私はどぎまぎと視線をそらしてしまう。先輩の足元を見ながら、こんな態度じゃまた先輩に変だと思われる、と思うのに、意識してしまって、まともに顔が見られない。これまで、どんな風に先輩とお話ししていたんだっけ。先輩の事を好きだと自覚してしまった途端、急にわからなくなるなんて。

「……あのさ」

何言われるんだろう、とドキドキしながら先輩の言葉を待つ。

「この前の飲み会で……なんかあった?」
「え?」
「あれ以来、ナズナの様子が変な気がしてさ」

私はあの晩の出来事を思い出して、一気に顔が赤くなってしまった。

「あの、それは、ええと……」
「……やっぱりアレって……夢じゃなかったのか」
「ゆ、夢?」

思わず顔を上げると、カカシ先輩の顔は、目に見えて真っ赤に染まっていた。どういう事?

「ナズナ、あんなコトしてごめん……」

カカシ先輩が沈んだ声で言う。
先輩、あの日の事覚えてたの……!?
衝撃を受けながらも、先輩が落ち込んだ様子なので私は慌てて、
「えっと、あの……先輩だいぶ酔っ払ってらしたから……気になさらないでください。そりゃあちょっと驚きましたけど、でも……」
と、かなりしどろもどろに先輩をフォローした。

私があたふたしたのが逆効果だったのか、カカシ先輩はますます項垂れている。
……耳まで真っ赤だ。
先輩がこんなに恥ずかしがるなんて。

「でも……カカシ先輩、お酒飲む時は気をつけてくださいね。私は事故だってわかってます、けど……あんな事されたら、勘違いする人もいると思います」

必死に先輩を慰めながら、自分で自分の言葉がざくざく胸に突き刺さる。カカシ先輩があんなふうに、誰かを抱き締めたり、触ったりするという事を、考えるだけでも苦しかった。

「……誰にでもあんな事するわけじゃないよ」
「え……」
「オレはナズナだから……」

真剣な表情で、先輩に見つめられる。ドキドキと心臓が早鐘を打ち、目を逸らす事が出来なかった。

先輩が何か口を開きかけた途端、遮るように大きな音が響いた。
二人してびくりと肩が震える。
終わったと思っていた花火が、また上がったらしい。

無言で花火に目を向ける。青い大輪が伸びやかに空に広がり、やがて赤く色を変えた。

「まだ終わってなかったね」

溜息交じりに先輩が言う。私もそれに頷きながら、止めていた息をゆっくり吐いた。

……さっきの話の続きを聞いても良い物か悩んで、結局押し黙ってしまう。

本当は聞きたいことがたくさんある。
ナズナだから、という言葉の続きも、あの日のことをどこまで覚えているんですか、という事も……私のことどう思ってるんですか、という事も。

けれど問いかける勇気はなくて、ちらりと隣を盗み見ると、カカシ先輩は頭の後ろを掻きながら、再びはじまった花火を見上げていた。
そしてまた、不意に振り向いた先輩と、ばちりと目が合ってしまった。

左眼の写輪眼に花火の灯かりがゆらめいている。
その燃えるような瞳から目が離せない。

「ナズナ……」

先輩の顔がゆっくり近づく。
花火の音が遥か遠くで聞こえる。
肩を掴まれて、もう片方の手に頬を撫でられた。
あの日の夜とは違う、遠慮がちな指先に、呼吸がとまりそうなほど緊張しながら、先輩の瞳を見つめる。
先輩の目がそっと閉じられて、私もつられて目を閉じた。
吐息を近くに感じて、


「あれ?カカシ先輩たち間に合ったんですね!」
「ばか!邪魔しちゃだめでしょ!」

ベランダの下の道路から聞き覚えのする声がしてハッとする。
今、私達……何をしようとしていた?

見下ろすと、テンゾウと森林部隊の面々がこちらを見上げていた。
唯一の女子であるキキが、『ごめんナズナ』と口パクをしているのが見える。
邪魔してごめんって事なのだとしたら……キキには今の……見られていたんだろうか。
恥ずかしくて、顔に熱が一気に集まるのを感じた。

「……今度こそ花火も終わったみたいだし、家まで送るよ」

そういった先輩の声が少しだけ沈んでいるように聞こえて、けれど私は黙って頷いた。
声も出せないくらいに、まだドキドキしていたからだ。

靴を履いて、玄関のドアノブに手をかけると、上から大きな手に包み込まれた。後ろに立っているのはもちろんカカシ先輩で、先輩とドアに挟まれて身動きが取れない。

「……ナズナ。今度の休みはいつなの」
「今度の休み、ですか?」

先輩が話すたびに耳元に吐息がかかって擽ったい。
またあの日のことを思い出してしまいそうになりながら、次の休みはいつだったか思考を巡らす。

私の答えを聞くとカカシ先輩は、「その日、今から予約させてくれる?」と言った。
先輩が何を意図しているのかはわからないけれど、任務では無さそうだ。

「はい」と頷いた私に、カカシ先輩は「約束だよ」と言った。

その声が、耳元でびっくりするほど甘く優しく響いて、私はくらくらしてしまった。
胸が苦しいほどに脈打っている。

その直後、ちゅっ、と響くリップ音と、耳朶を包む柔らかい感触に固まってしまう。

「テンゾウ達待ってるから行こう」

私の手ごとドアノブをまわして、カカシ先輩に促されて外に出た。
真っ白になった頭では、何も考えられない。
火傷しそうに熱い耳の奥で、花火の音が、いつまでも鳴り響いている。

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