待機所に行くとカカシが一人で本を読んでいた。入ってきた私に気づいて「おつかれ」とこちらを一瞬みると、また本に目を戻す。集中して本を読んでいる姿は真剣そのものだ。知らない人が見たら忍術の理論書でも読んでいるのかと思われそうだが、手にしている本の表紙にはでかでかと『イチャイチャパラダイス』という怪しげな書名が書かれていて、台無しである。真顔に見えて、覆面の下ではにやにやしていたりするのかもしれない。相変わらずだなぁ、と思いながら、コーヒーでも飲もうと待機所の隅にある給湯室に足を向けた。 「コーヒーいれるけど、カカシも飲む?」 「んー…じゃあ貰おうかな」 「おっけー」 私は朝から任務に出ていて、先ほど戻ったばかりである。カカシはこれから任務だろうか?待機所には私たちの他には誰もいなくて、静かなものだった。報告書を書き上げたら、私も今日はあがろう。コポコポとコーヒーを注ぎながら、夕飯は何にしようかと考える。何となく魚が食べたい気分だから、帰りに魚屋さんに寄ろうかな。 カカシが待機所に置いているマグカップには、大きくへのへのもへじが描いてあり、一目で彼の物だとわかる。カカシのセンスって妙に茶目っ気あるよなぁ、と思うけど、もしかしたら真剣に選んだ結果なのかもしれない。同僚としての関係はそう短く無いけれど、未だに、何を考えているのかよくわからないところがある。やはり覆面のせいだろうか。 「はい」 「ありがと」 マグカップを渡すと、カカシはさすがに本を膝に置いて受け取り、右目を細めて笑った。私もカカシの隣に腰掛ける。ちら、と様子を伺うと、コーヒーに向かって、ふうふうと息を吹きかけている。 「もしかして猫舌?」 笑いを堪えながら聞くと、カカシはちょっと照れた様子で「そうなんだよね。オレは犬派なんだけど…」と言う。犬派か猫派かは猫舌に関係ないと思うけど。私はくすくす笑ってしまった。 「そのマスクじゃ、ふーふーしても意味ないんじゃない?」 「いや。意外と通気性いいのよコレ…」 「へー…」 そのままじっとカカシを見ていると、カカシは困った顔をして「…何?」と私に聞いた。 「いや、カカシの素顔ってどうなってるのかなー…と思って」 「どうもなにも、普通だよ」 「ふーん…気になるなぁ」 猶もまじまじ見ていると、カカシはひょいっと向こうを向いてしまった。ずず、とコーヒーを啜る音がして、「あちっ…」と小さな声を上げ、いつもの猫背が更に丸くなる。すっと覆面を戻しながら、またこっちを向いて、テーブルにカップを置いた。 「…なんで隠すのよ?」 「気になると言われたら、隠したくなるってもんでしょ」 「何それ…」 むくれていると、小さく「ククク…」と笑われた。カカシはいつもこんな調子で謎が多い。けれど、彼と話している時間は、不思議と居心地が良かったりする。自分の分のコーヒーを口に含みながら、私はふうと息を吐いた。 「あ、そういえば…」 ポーチの中をごそごそ漁って、とある物を取り出した。 「これカカシにお土産」 「こ、これは…!!」 カカシは目を見開いて驚き、震えながらそれを受け取った。喜ぶかな、とは思ったけど、ぶるぶるふるえるほどだとは…。 「な…なぜこれを…!?」 なおも感動した様子のカカシは、私が手渡した『禁断のイチャイチャシリーズ設定資料集』を食い入るように見つめている。 「今日帰りによった町に、結構大きな本屋があってさぁー。なんか人だかりが出来てて、何だろうと思ったらそれが売ってて」 カカシがいつも読んでるヤツだな、とタイトルを見て思ったのだ。 彼のことだから持ってるかもとは思いつつ、尋常じゃ無い人だかりだったので、ちょっと並んで買ってみたのである。 「ありがとう…これ、今朝発売だったんだよ…。任務が入ってて朝から並べなくて、さっき見に行ったら、里の本屋じゃ全部売り切れてて、がっくりきてたんだけど……まさか晴がこれを手に入れてくれるとは…!!」 カカシは目を輝かせている。こんなに喜んでくれるとは。イチャイチャシリーズの事は正直良くわからないけれど、カカシが嬉しいなら良かった。 「何かお礼をさせてくれ……」 「んー?いいよ別に。カカシにはよく任務で助けられてるしさ」 さて報告書を書くか、と机に広げる。隣のカカシは表紙を眺めて、しきりに感動している気配がして苦笑する。さっき犬派だとか言ってたから、こんなことを思うのかも知れないけれど、もしもカカシがワンコだったなら、今は尻尾をぶんぶん振っていることだろう。 「今晩、飯奢るよ」 「いいの?でもそれ、じっくり読みたいんじゃない?」 「晴が報告書書き終わるまでは読んでる」 言ってる側からカカシはもう本を開いている。私は報告書に日付を書き入れながら、そう言えばカカシと二人で食事に行くなんてはじめてかもしれないな、と思った。もしかして今夜カカシの素顔が明らかになるのでは……! 外に出るとぽつりぽつりと雨が降り出していた。 「今日雨ふるって言ってたっけ…」 「私折りたたみ傘ならあるよ」 ストライプの傘を広げて、腕を伸ばす。カカシは背が高いから、かなり腕を高く上げないと入れてあげられない。 「オレが持つよ」 カカシは小さく笑いながら、私の手から傘を取り上げた。高い位置で差してくれたけれど、二人ではいるには小さすぎる傘だから、お互いに肩が濡れてしまうだろう。けれど、全然雨粒が体にあたらない。私の方に偏って差してくれているのだと気づいて、少しでもカカシが濡れないようにと中心に体を寄せた。 少しずつ雨の音が大きくなる。この傘の下だけ、世界がきりとられたみたいに静かだ。カカシとこんなに距離が近い事ははじめてだな、とふいに思って、なんとなく落ち着かないような、でも、カカシだから平気なような、不思議な気持ちになる。そういえば先日もこんな風に、ある人と相合傘をした。……あの人の優しそうな笑顔を思い返して、どきりと心臓が音を立てる。 ◇◇◇ 梅雨入りしたと今朝の新聞に書いてあったのに、あろうことか傘を忘れた。呉服屋を出ると、ざあざあと雨が降っていた。まいったな、と軒先に立ち、頭を抑えながら通りを走る人々を見つめる。いつもなら濡れたって構わないんだけど、さっき買ったばかりの浴衣が濡れるのは、色落ちしてしまいそうで嫌だ。お店の人に傘を借りようかと思っていると、通りを歩いてきた人と目があって、ふいに声を掛けられた。 「傘忘れたの?」 大きな黒い傘を差した、癖のある茶髪の男の人だ。見た事の無い顔である。一瞬ナンパ?と思ったけれど、そういう感じでもない。まるで知り合いに話しかけるような自然さで声をかけられたので、きょとんとしつつ、「はい。見ての通りです…」と素直に答えてしまった。 私の反応に、男の人は一瞬不可解そうな表情をした。ん…?と思っているうちに、「ああそうだった」と得心した様子で、首に巻いた白茶色の布に片手で触れる。シルバーグレーの瞳孔が、なんとなく悪戯っぽく光り、にこりと笑みをかたどった。その笑顔に見覚えがあるような気がして、じっと見つめるけれど、やっぱり初めて会う人のような気もする。両目を縁取る紫色のペイントは特徴的だし、かなり整った顔立ちをしていて、口元には小さな黒子がある。誰かが変化しているのでは、とチャクラを探ってみるけれど、術を使っている様子はない。何となく知っている気配のような感じもしたけれど、私は感知タイプの忍ではないので正確なところはわからなかった。 「家まで送りましょうか?」 紳士的な口調でそう言うと、彼は優しそうな笑顔を浮かべた。邪気の無い笑顔に頷きそうになるけれど、いきなり知らない人に言うセリフではない。やっぱりナンパかな?と思って、「いえ…お店の人に傘を借りるので大丈夫ですよ」と引き攣った笑顔で断ると、「まぁまぁ、遠慮なさらずに。僕はこれからアカデミーに用があってね。あなたの家がアカデミーよりも手前なら、送りますよ。無理にとはいいませんが」と言う。「呉服屋から出てきたんだから、素敵なお着物でも買われたんでしょう?濡れてしまったら台無しだ」彼の目が、私の抱えている紙袋に注がれた。 お店は春物売り尽くしセールで、かなり混んでいたから、傘を借りるためだけに店員さんに声をかけるのは、やっぱり忍びない気もしてきた。ここから私の家は丁度アカデミーに行く道の途中にあるので、この人のお言葉に甘えてしまおうかな、とちらりと思う。大体善意で言ってくれているのだろうから、ナンパだとか思っちゃって、自意識過剰にすぎるかもしれない。 結局私はその人の、黒くて大きな傘に厄介になることにした。二人並んで道を行く。雨が傘を叩く音は結構大きいけれど、彼の声は明瞭に響き、耳に自然に入ってきた。 「今日は、任務はお休みですか」 「はい。……私、忍に見えましたか?」 今日は忍服を着ていないのにな、と思っていると、彼は「僕も昔は忍者のはしくれだったのでね。歩き方でわかりますよ」と言った。 「というとあなたは、今は別の仕事をされてるんですね…」 「ああ失礼、名前も名乗っていませんでしたね。…僕は写真家のスケアです。今はスクープを求めて、西へ東へ飛び回る暮らしですが、元はこの里で忍を」 「写真家さん、ですか…」 写真に関しては正直詳しくない。肩から提げているカバンにはカメラが入っているんだろうか。 私も名前を名乗った。初対面の人に名前を名乗って、家まで送らせるなんて、忍としてあまりにも危機感がないかもしれないが、スケアさんからはなんというか、嫌な雰囲気がしないのだ。悪い人じゃなさそう、というか。 「聞いて良いのかわかりませんが、スケアさんは何処の部隊にいたんですか?」 「……火影直轄の情報収集班に少しだけ」 って事は、暗部か。忍者のはしくれと自称していたけれど、実力が無ければ暗部に任命される事は無い。暗部と言えば、カカシはもしかしたら知っているかもな、と同僚の顔を思い出す。 「木ノ葉にはスクープを求めて?」 「ええまあ…撮影には失敗しちゃいましたけれど」 そう言ってスケアさんは、何かを思い出したかのようにくすくすと笑った。失敗したといいながらも、穏やかな表情だ。 初めて会う人なのに、初めて会う気がしないのは何故だろう。ぼんやりしていると、急にスケアさんが、傘をもっている右手で私の肩をつついた。 「水溜まり、突っ込むよ」 「あ……」 真っ直ぐ歩いていたら足元がびしょびしょになっていただろう。今日は雨が降るなんて思ってなかったから、当然長靴なんて履いていない。 「ありがとうございます」 お礼を言うと、「もう少しこっちに寄って」と微笑まれて、何だかどきりとしてしまった。見れば見るほど、綺麗な顔立ちをしているな、と思う。穏やかで落ち着いた雰囲気も、ちょっとまわりにはいないタイプだ。……と、思ってから、本当にそうだったっけ、と心のどこかで疑問に思った。 ◇◇◇ 「晴、水溜まり」 カカシに声をかけられて、はっと我に返る。昨日も雨が降ったから、その時に出来たのだろう。大きな水たまりが窪んだ地面に溜まっていた。 「お前って少し、危なっかしいところがあるよね」 カカシに呆れられてしまい、恥ずかしくて何も言い返せない。 「オレの手掴んで」 カカシが傘を持った左手を差し出してきた。危なっかしいからってだけの理由なんだろうけれど、少しだけ動揺して…でも悟られないよう、言われるままに手を掴んだ。 「この間さ…急な雨で、傘持ってなくて。元暗部っていう写真家の人に、傘に入れて貰ったんだよね」 「へぇ……」 「スケアさんって人。カカシ知ってる?」 「……名前くらいはね」 「やっぱり本当だったんだ」 嘘をつくような人には見えなかったけれど、本当の事を話してくれていたんだとわかって、なんだか嬉しかった。 「まさか家まで送らせたの?」 「うん。送ってくれたよ」 「初対面だったんでしょ?」 「そうだけど。でも、悪い人じゃなさそうだったし」 「……ちょっと無防備なんじゃ無い?」 カカシの横顔を見上げたけれど、彼の左側にいるために、額あてとマスクに阻まれて表情が確認できなかった。 「でも、本当に送ってくれただけだったよ」 「そう……」 「家の前でお礼言って、すぐに別れたし」 あれ、何で私はカカシに、言い訳みたいな事を必死に言っているんだろう。カカシは同僚として、心配してくれているだけなんだろうけれど。でも、『危なっかしい』ってそういう意味も含まれてるのか、と思ったら、何だかすごく嫌だった。カカシにそんな風に思われるのは。 「私、人を見る目はちゃんとあるんだから…」 「へぇ……?」 「誰でもついて行くわけじゃないよ!」 「……うん」 「優しくて良い人そうだったし!」 「彼は、そんなに良い人ではないよ」 「え……?」 「人をからかうような奴だから、ね…」 さっき名前くらいは聞いたことがあるような口ぶりだったけれど、実際は、スケアさんの事をよく知っているんだろうか? 「スケアさんに会った事あるの?」 「……まぁ」 カカシは頭をかいて、ちょっと困った仕草をしている。 「彼ってどんな人?」 「……彼が気になるの?」 気になるの?と聞かれて、私は息を呑んで黙った。……気になるか、と言われたら、私はスケアさんの事が気になっている。あの雨の日、家に帰り着くまでのほんの僅かな間しか、話していないのに。彼のことをほとんど知らないのに。 「カカシはさ、一目惚れってしたことある?」 「え……!?」 びっくりして立ち止まり、こちらを向いたカカシは、右目に驚きを浮かべている。 そんなに驚かれると、ものすごく恥ずかしい。 「……一目惚れってわけじゃないんだけど、なんか…知りたいんだ。彼の事が」 恥ずかしいけれど、正直に話してみることにした。スケアさんはもう木ノ葉の里を出て、どこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。連絡先を聞いたわけでも無い。もしもう一度彼と話す事ができるとしたら…頼みの綱は、カカシだけだった。 「それは…すごく複雑なんだけど」 「え…?」 見上げたカカシの表情は、見た事も無いくらい困惑している。なぜそんなに困っているのだろう。もしかしてスケアさんは既婚者だったり……? 「ちなみに彼の、どんなところが好きなの?」 「好きっていうか……」 顔がかっと熱くなって、何も言えなくなる。カカシはぼりぼりと頬を掻きながら 「ああごめん。聞き方が悪かった…。どういうところが気になるの?……もしかして、顔が好み、だったり?」 なぜかカカシまで赤面している。私の恥ずかしさが伝染したんだろうか。 「顔も、かなりかっこよかった…」 「そ、そう……」 「でも何か、初めて会った気がしなくて。短い間だったんだけど、一緒にいるとすごく落ち着くというか」 「……」 話しながらやっぱり私、一目惚れしちゃってるじゃないか、と自分で自分につっこみたくなり、どんどん照れていく私に比例して、なぜかカカシもすごく照れた表情をしている。この年で少女みたいに一目惚れなぞをしている私って、やはり痛すぎるのかも。話を聞いてるだけで赤面させるレベルなんだろうか。 「あの、でも、紹介してほしいとかそういうわけじゃないんだけど…!」 大慌てでいう私を、カカシは言葉を探すような顔で見つめている。 「ごめんごめん!忘れて…!」 ほとんど泣きそうになりながらそういうと、カカシは、 「オレの事は…?」と小さな声で言った。 「え?」 「オレの事はどう思ってるの?」 言われた意味を脳が理解するまでに数秒かかった。 「なんで急にそうなるの?」 「そうなりますよね……」 はぁ、と溜息をつくカカシを見つめる。 カカシの事をどう思っているのか、そんなこと、考えたことも無かった。 カカシは同僚で、まだ友人と呼べるほど親しいわけではないけれど、忍としてとても信頼しているし、一緒に待機所にいたりすると不思議と居心地が良くって、けれど謎が多くって……。あれ? 困り顔で何かを考えているカカシをもう一度見つめる。覆面をしているけれど、なんとなくわかる整った輪郭。任務の時は厳しい表情もするけれど、普段は穏やかで、落ち着いた雰囲気で。 「……あれ?」 「……」 カカシが、ばれちゃった?って顔をしているのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃ無い気がする。 「あのカカカカカカシ私もう帰るね」 「えっ!?」 「よよよよ用事思い出しちゃったごめん!」 「ちょ、晴落ち着いて!」 「傘つかっていいよ!それじゃ!」 ざあざあ降りになっている雨の中へ飛び出すと、カカシが慌てふためいている内に瞬身を使った。自宅に帰り着きドアの内側へ入り込んで鍵を掛ける。ずぶ濡れになった体は恥ずかしくて熱をもっていた。 (うわーーーーーー!!) 叫び出したくなりながら、膝を抱えてしゃがみ込む。 もしかして、もしかしなくても。カカシのあの様子からして、スケアさんの正体は…! 『人をからかうような奴だから、ね…』と言ったカカシはあの時どんな顔をしていただろうか。 カカシの悪戯に私はすっかり騙されたのだった。騙された上に……かりそめの姿に一目惚れするなんて。 恥ずかしすぎる。上忍なのに見抜けないなんて間抜けすぎる。カカシが危なっかしいと思うのも当たり前だ。 ああ、明日からどんな顔してカカシと話せば良いんだ。もう無理。しばらくまともに話せない。 泣きたくなっているうちに、頭が冷えてきて、雨に濡れたからだが冷たくなってきてくしゃみをした。 シャワーでも浴びよう、とのっそり立ち上がると、背後のドアを叩く音がしてびくりと体が震える。 「晴。開けて」 カカシの声に体が固まり、息を潜める。 「ごめん…悪戯がすぎたよ」 「……」 「開けて晴。頼むよ…」 そんな風に懇願されたら、断れない。 けれど、このドアを開けたらカカシは、私に何を言うんだろう。 ものすごくドキドキしながら、不安と少しの期待でない交ぜになって、私はドアに手を掛けた。 end. |