籠の中の鳥

執務室の大きな窓から外を眺めるのは好きだ。晴れた日には里を囲む山々の稜線がくっきりと見え、樹木や岩石と調和した建造物と、そこを出入りする里の人々を見渡す事が出来る。沢山の人々がそれぞれの意志を持って、あちらからこちらへ歩いて行くのを見ていると時間を忘れそうになる。忙しそうに、目的を持って、自由に里を歩き回っている人々が少しだけ羨ましい。

「何か面白いものでも見えるの?」

六代目火影――七歳上の私の上司が口を開いた。振り向くと、彼は机の上の稟議書に、墨で署名をしている所だった。質問を投げかけておきながら、こちらをちらりとも見ない。

「別に……何も見えないですけど」

拗ねた口調になってしまいながら、火影様の側に立つ。
「カカシ様――なんか仕事無いですかね」
聞いてみても無駄だと思いながら、一応言ってみた。
「だからカカシ様はやめてって」
筆を硯に置いて、六代目火影・はたけカカシは、やっと私の顔を見た。重たげな瞼の下の、漆黒の両目に見上げられて、ちょっとだけ身が竦む。火影になってからの彼は、大分雰囲気が穏やかになったとまわりの人は言うけれど、私は、逆だと思っている。この左目が赤かった頃のほうが、私にとってカカシさんは、親しみやすい人だった。
「ハルに任せられる書類仕事は今のところもう無いなあ。――仕事がはやくて本当に助かってるよ」
そう言ってカカシさんはにっこりと笑った。その笑顔は、確かに穏やかな雰囲気を纏っているけれど――言葉の内容は結構酷いと思う。要するに、私には今、何にもやることがないのだ。

「毎日、午前中には終わってしまうくらいの量しか無いですもんね、私の仕事…」
「ハルが居てくれて毎日助かるよ。有り難う」
「いえ。……少しでもカカシさんやシカマルくんの助けになれているなら、嬉しいです。嬉しいんですが…」
「はー、何だか喉が渇いたな。お茶でも淹れてくれる?」
「……はい」

いつもこうだった。私が業務量についての話をしようとする度、カカシさんは思い出したように雑用を頼む。遮られるのは不満だけれど、それでも、お茶を淹れるという仕事が生まれただけで嬉しいと思ってしまうあたり、私はもう限界を感じていた。この、あまりにも暇すぎる火影室事務官という仕事に。

「はい、どうぞ」
カカシさんの机に湯呑みを置く。
「どうも。――そうだ、この間貰ったお菓子どこに置いたっけ?」
「ああ、焼き菓子屋さんのご婦人にですか?」

木ノ葉隠れの里は忍のみならず、あらゆる職種の人々が生活し栄えている。里の外部から移り住むものも多く、里内に店を構える際には、役所での事務的手続きを終えた後、火影に謁見するのが習わしとなっていた。大戦を終えて平和な時代が訪れてからは、木ノ葉の里で商売を始める人の数も一段と増えたので、毎日のようにこの部屋には謁見を希望する人が訪れている。そういう方々が来るときはお茶出しの業務が生まれるので、暇を持て余している私としては大歓迎なのだった。
けれど、カカシさんにとってはどうだろう。火影様の業務は本当に多岐にわたる。カカシさんで無ければ決断できない事が山のようにあるから、一日中机に座っていても仕事が綺麗に片付くという事は無い。せめて書類仕事ぐらいは、私がカカシさんのかわりに判断して、代筆でもできればいいのだけれど――ただの事務職である私にそんな権限はあるわけもなかった。

「あった。――これですよね。わあ……美味しそうですよ」

仕舞っていた菓子折の箱を開けて中を見せると、
「がれっと?って言ってたっけ。緑茶に合うかな」
とカカシさんは顎に手をあてた。

クッキーと何が違うのかな、と思いつつ、きつね色に焼けた分厚い『がれっと』を取り出し、カカシさんに手渡した。きちんと個包装されている。

「一枚で足りますか?」
「うん」

カカシさんは甘い物が好きではないので予想通りの答えだった。それでも必ず、客人に貰った物を一つは食べるようにしているみたいで、彼のそういう律儀なところを素敵だと思っていた。

「あとは全部ハルが食べちゃって」
「こんなに沢山は食べられませんよ」

自分の分と、シカマルくんに後であげる分の、二つだけを取り出して、あとは蓋をしてしまった。帰りがけに任務受付所――元職場だ――に寄って、皆に分けてしまおう。

こじんまりした自分の机に戻ろうとすると、カカシさんが「こっちに来なよ」と手招きをした。断る理由もないので、自分の机にさっき置いたお茶をまず運んで、それから、カカシさんの隣に自分の椅子を運んだ。

並んで座り、熱いお茶を共に啜る。

「少しは休憩しないとね」
「はい。――いや、私は休憩してばっかりなんですけど」
じと、とカカシさんを睨むと、彼は目を合わせずにまた緑茶を啜った。
「やっぱり私……午後は任務受付所の方を手伝う、という訳にはいかないんでしょうか」
「火影室事務官と任務受付所の事務を兼任したいって?ハルは働き者だね」
「……」

言葉では私の意見を聞いているようで、カカシさんの目は、『そんなの認めるわけ無いでしょ』とばかりに厳しい。二足のわらじでは、どちらかの仕事が疎かになってしまうと思っているのだろうか。けれど、今の私が任されている仕事は、火影室事務官、なんて大層な名前を冠するほどの仕事量ではないのである。大体午前中には、カカシさんの書いた書類を三つ折りにして封筒に入れてのり付けして発送する、というような簡単な雑用の数々は終わってしまうし、清掃をしてみてもこの部屋はそんなに広くないので30分とたたずに窓も床も綺麗になってしまう。カカシさんの分も、お昼ご飯にお弁当を買ってきて食べてしまった後は、――本当に何もする事が無いのだ。

大体何で私が抜擢されたのだろう。抜擢、というかもしかしたら左遷なのかも知れない。私は長い間、アカデミーの事務として、主に任務受付所での窓口業務を務めてきた。両親は忍だけれど、まったくもってその才能を受け継がなかった私は、早々に忍になる事を諦め、忍をサポートする立場の仕事に就き、――たかが事務と言われればそれまでなのだけれど、自分なりに誇りを持って日々の業務にあたってきたのである。

忍の方々の顔と名前は大体一致していた。彼等にとっては、受付のいつものねーちゃんぐらいにしか思われていなかっただろうけれど。
カカシさんの事も当然、若い頃から知っていた。もっとも、暗部に所属していた頃の事はよく知らない。(暗部の忍は、火影様から直接任務を割り振られているからあまり関わりがないのだ。)
カカシさんが上忍師として下忍を率いる立場になってからは、毎日のように任務受付所で顔を合わせた。下忍達とのC・Dランク任務の傍ら、個人ではS・Aランクの任務をこなし、ほとんど休み無く働かれていたと思う。上忍の中でも際だった存在であるカカシさんには昔から憧れていた。私達のような事務の女の中で、彼の人気はものすごく高かったのだ。上忍で顔は良いし背も高いし、独身とくればもう、噂の的になるのは必然で、しかもカカシさんは私達受付に対していつも人当たりが良かった。今日はカカシさんと挨拶が出来た、いつもありがとうと言って貰えた、……昔はそんな事で、同僚達ときゃあきゃあ言っていたものである。あぁ、皆でランチ、楽しかったなあ。昔と言うほど昔というわけでもないけれど、もう、遠い昔のように思える。
私が火影室事務官――六代目火影のちょっとした雑用係――に任命されたのは、今年に入ってからの事だった。ある日突然に、前触れもなくイルカさんに呼び出され――告げられたのだ。イルカさんはアカデミー教師でありながら、三代目火影在任の時代から、任務受付所の方も取り仕切る存在だったのだ。平たく言えば私にとっては元上司である。

「ハル、お前の業務処理能力は事務の中でも抜群だ。仕事の正確さ、スピードだけでなく、場の雰囲気を和ませるようなその性格と笑顔で、これまで任務で疲れて帰ってきた忍を癒やしてくれていたな」
「……ちょ、ちょっと待ってください。どうしたんですかイルカさん」
突然の褒め殺しに不穏な予感を感じとる。怯える私に構わず、イルカさんはにっこり笑って話を続けた。
「そんなハルに新たな任務を頼みたい。――正確にはオレが頼むという訳ではなくて、あの方から直々にご指名が入っているんだが」
「あの方……?任務……ですか?」
私は忍ではないのに、なぜあえてそのような言い方をしたのか。未だに解らずにいるのだけれど。
「六代目……カカシさんからのご指名だ。明日から、ハルには火影室事務官として働いて貰う」
「……火影室……事務官……?」

そうして二十七才の春、突如上司によって告げられた異動命令により、私は六代目火影はたけカカシ様の、専属事務官に任命された。まわりからは『抜擢された』と思われている。同僚からも口々に、「羨ましすぎる」「ハルが選ばれたのもわかるよ、あんた仕事は真面目だもんね」「カカシ様ってまだ独身だよね。狙っちゃいなよ」などと言われた。

けれど私の心中は複雑だった。カカシさんは何故私を指名したのか。それが未だに解らないからなのだ。
出勤初日はわくわくしていた。カカシさんと顔を合わせれば何かしらの説明が……例えば……「ハルちゃんの仕事ぶりはいつも見ていたよ」だとか「これからサポート宜しくね」みたいな……なんかそういう、心ときめく言葉がかけられるに違いない、と踏んでいたのだ。
けれど、実際には「ああ、今日からだったっけ。よろしくね」と言われた程度。なぜ私をこの仕事に任命したのか……イルカさんの口ぶりではカカシさんのご指名だったはずなのに……特に何も説明はなかった。

若干拍子抜けしながら、仕事内容の簡単な説明を受けて。……取り組んでみた仕事は、私でなくても半日あれば終わるような雑用だった。あまりの仕事量の少なさに困惑は深まるばかりだった。

仕事が終わったからといって帰っていいわけでもなく、何か仕事はないですか、と聞いてみても「今はないからそこに座ってて」と言われるだけの日々。正直、シフト制にして午前勤務だけにしてもいいくらいだ。でもカカシさんからは一切そういう話は出ない。私から進言するべきなのかもしれないけれど……私はまだまだ、ばりばりフルタイムで働きたいのである。
「掛け持ちは禁止ね」
初日に釘もさされている。カカシさんは絶対にわかっているはずだ、ここには大人一人を一日拘束するほどの仕事なんて無い事を!

けれどまあ確かに、カカシさんや側近のシカマルくんでなくっても出来る雑用を、任せる人間が一人くらい居てもいいと思う。けれど、それが私である必要はあるんだろうか。なぜ、私なんだ。やはり、イルカさんが言ってた指名の件は、嘘だったんだろうか。もしや私、イルカさんを怒らせるような事を何かしてしまったのかな。これはやっぱり左遷なのかな。島流しなのかな。

憂鬱な気持ちになっていると執務室のドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのはシカマルくんだ。私の七つ下、二十才である。この若さで火影様の側近としてあらゆる仕事を任されているのだ。具体的な仕事内容はよくわからないんだけれど、あちこち走り回って情報収集したり、まぁ色々やっているらしい。めんどくせーめんどくせーと言いながら大変よく働く。頭もかなりいいらしい。ちょっと生意気だけど、顔だって悪くないし女の子からはモテるんじゃなかろうか。
「ああシカマル。お疲れ。……例の件、何かわかったか?」
「はい。キバ達に探らせてたんですが、どうも雷の国との国境あたりで何件か目撃情報があったみたいで――」
話し始めたシカマルくんが、ちらりと私の顔を見る。大きな口を開けてがれっとにかぶりつこうとしていた所だったので、私は慌てて顔を背けた。
「また餌付けしてんスか」
「そ。――やっぱ抱き心地の良さって重要でしょ」
「それは同感ですけど……育てるだけ育てて、手ー出さないのが悪趣味っスね」
何の話をしているんだろう。シカマルくんとカカシさんの顔を交互に見るけれど、話の内容がまるで見えてこない。餌付けって、私の事か?そんな訳ないか。
任務の話をするのに私が居ると邪魔かな、と思い、「シカマルくんの分もお茶淹れてくるね」と慌てて立ち上がった。


今日も午後は、カカシさんにお茶をいれるか、窓の外を眺めるか、すこしでも火影様の業務に詳しくなろうと忍び五大国に関する書物を読むか、それくらいしかする事の無い怠惰な勤務時間をすごした。18時きっかりになるとカカシさんは「もう上がって良いよ。また明日」と言う。『また明日』と言われる度に私は首が繋がった思いがする。正直、いつ『もう来なくて良いよ』と言われても可笑しくない状況だと思うのだ。

アカデミーを出ると、外は真っ暗だった。最近はもう、16時台には太陽が落ちてしまう。きんと冷えた夜の空気の中、師走の里を忙しげに歩く人々の間を縫うようにして歩いて行く。忍は皆、おなじ形、同じ色の外套をまとっているけれど、一般人は、冬らしくビビッドなカラーを着ている人が目立った。大戦が終わってからは、服飾品を売る店もかなり増えた。最初はかわった形の服だな、と思っていた服もすぐに一般的になる。
ピンクや青や赤の、ネオンカラーの服を着ている人たちの間をあるいていると、自分まで何だか華やかな気持ちになってくる。道行く人たちには皆、笑顔が溢れている。――こんな風にこの里が平和を取り戻したのも、沢山の忍が命がけでこの里を守ってくれたからだ。カカシさんを筆頭に――。

人の群れの中に見知った顔を見つけて、手を振った。私が手を振るより前から気づいていたらしく、シカマルくんが真っ直ぐこちらに歩いてくる。

「お疲れさま。これからまたカカシさんに報告に行くの?」
「ああ。ま、急いじゃいねーけど。――随分寒そうなカッコしてんな。マフラーとか買わねーの?」

今朝は物凄く寒かったからマフラーをしてこようと思ってたけど、去年していたマフラーが毛玉だらけになっていたのでしてくるのを諦めたのだ。けれどシカマルくんの言うとおり、一刻も早くマフラーでも買わないとやってられないくらい今年の冬は寒い。

「ハルが風邪引いたらまた、めんどくせー事になりそうだ」
「大丈夫だよ。私体は強い方だから。それに私のやってる仕事なんて、一日ぐらい休んでもどうってことない内容だしね……」
「そういう問題じゃねーんだよ……ハァ。機嫌悪くなったあの人がどんだけめんどくせーか……」
「……?」

シカマルくんが頭の後ろを掻きながら、ふと視線を横にずらした。

「そこにまた新しい店が出来てんな」
「ああ。服飾品のお店だったと思うよ。一週間前ぐらいに火影室にも謁見にきたっけ」
「開店セール……だってよ」
「マフラーいいのあるかな。……ね、急いでなかったら一緒に選んでよ」
「え?何でオレが」
「ピアスとかしてるし、シカマルくんセンス良さそうじゃん」

私が腕を引っ張ると、シカマルくんは面倒くさそうにしながらも、何だかんだで着いてきてくれた。七歳下のくせに私の事は呼び捨てだしタメ口だけど、いつも何かと気にかけてくれるようなところがあって、同じカカシさんの直属の部下として私は彼に心を開いている。




「新しいマフラー買ったの?」
「あ、はい」
「似合ってるね」
「……ありがとうございます」

気恥ずかしくなりながら、マフラーを外し、コートをハンガーにかける。出勤すると既にカカシさんは机についていて、今日も山のようになっている任務報告書に目を通していた。

「鮮やかな色も似合うんだね」
「えへへ……普段はあまり選ばない色かも知れません。昨日シカマルくんが選んでくれたんですよ」
「シカマルが?」

席につきながら、昨日の帰り道にシカマルくんと会って、マフラーを選んで貰った事を話した。

「……ふうん」
「やっぱセンス良いですよね。生意気だけど、あれで結構同世代からはモテてるんだろうなあ」
「今日さ、昼にちょっと出ようか」
「え?」
「たまには外で飯でも食おう」
「あ、はい……」

カカシさんに昼食に誘われる事はこれまでもあった。火影様が里を歩いていたらめちゃくちゃ目立つし、里人から声をかけられまくるので、そう頻繁ではなかったけれど。たまには昼食に里を歩くのも息抜きになっていいに違いない。

「で、帰りにその店、連れてってよ」
「……え?マフラー買った店、ですか?」
「そう。ハルにはもっと似合う色があるから。オレが選んでやるよ」

それだけ言ってしまうと、カカシさんはまた書類を読む作業に戻ってしまった。呆気にとられて私は、何も言えずにいた。
さっきまで、似合ってるねって言ってくれていたというのに。どういうこと?

とりあえず今日の昼は、カカシさんとランチだと思うと嬉しくなった。仕事もいつもよりはかどってしまうだろうから、ーーどうしよう。二時間もしたらまた、何にもやることがないって状態になってしまいそうだ。とりあえず、目の前の仕事を片付けてしまってからどうするか考えよう。
私は意気揚々と今日の仕事に取りかかった。

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