はたけカカシは、ベンチに寝そべっていた体を起こして、あたしに視線をよこした。ぼさぼさの銀髪が、冬の日差しをうけて鈍くひかっている。ブレザーも着ないで、灰色のセーター一枚だ。寒くないのかな。
はたけカカシは片手で、いつも読んでいる文庫本(いつもあの、くすんだ橙色の表紙だ)をおさえて、眠そうに大きく息をすったように見えた。……マスクで隠れているので、欠伸をしたのかどうか、はっきりとはわからないが。
「珍しいね、睦月もさぼったりするんだ?」
「……まあ、時々は。はたけカカシほどじゃないけど」
あたしは嘘をついた。黙って授業を抜け出した事なんてほとんどない。はたけカカシは目を擦りながら、のんびりした声で続けた。
「何でフルネーム?」
「なんとなく……」
なんとなくはたけカカシと呼んでしまったのは、あたしが彼と、クラスメイトでありながら、これまであまり関わってこなかった為だ。
はたけカカシはリンの幼馴染で、オビトの親友でもある。去年は別々のクラスだったようで、二年生の今年から、奇跡的に三人同じクラスになったらしい。けれど、教室内で三人一緒にいるのをほとんど見た事が無かった。
むしろ、あたしとリンとオビトはよく三人で喋ったりしているのだけれど……その輪にはたけカカシが入ってくることが無かったのだ。そのことにあたしは若干の引け目を感じていた。はたけカカシの場所を奪っているのはあたしなんじゃないかって。
けれど、はたけカカシはサボり魔で有名で、たまに学校へ来ても、休み時間はほとんど教室にいなかった。廊下で、隣のクラスの猿飛くんという強面の男子と喋っていたり、これまた隣のクラスの、夕日さんという学年一の美女と仲良さげに談笑しているのを見かけることがあった。
対称的に、あたしたちの教室にいる時には、いつも眠っているか、怪しげな文庫本を読んでいるかで、……たまに、オビトやリンが話しかけている事もあったけれど、他のクラスメイトと話しているところは、殆ど見たことが無い。もちろんあたしも、あんまり喋ったことは無かった。というか、あたしの名前覚えられてたんだなって、今、苗字を呼ばれてけっこう驚いていたりする。
近寄りがたい態度に加えて、はたけカカシはいつもマスクをしていた。オビトとリンは別として、マスクを外したところを見たクラスメイトは、多分いないんじゃないだろうか。病弱というわけではないらしい。たまに出る体育で、周囲をびっくりさせるような運動神経のよさを発揮したりする、という噂を聞いたことがあった。
左目に走る古い傷跡が、謎めいた雰囲気をさらに増していた。その傷についても、色々と憶測がとびかっていたけれど……それより何より、はたけカカシは、怪しげな風貌でありながら、一部の女子からは熱狂的にモテているらしい。
色違いの両目は、深い藍色と緋色をしていて、同い年なのに不思議な色気があった。ぼさぼさではあるけれど、銀色の髪もすごく綺麗な色をしている。彼のマスクの下は美形に違いないという噂が、女生徒を中心に広まっているとかいないとか、だった。しかも、背も高い。
「さっきの体育、いなかったでしょ」
「あー、体育だったの?」
「……今日授業でた?」
「んー、さっき来たばっかなんだよね」
はたけカカシは特に困ってるわけでも無さそうな口調でそういうと、開いたままだった文庫本に目を落とした。
「単位大丈夫?」
「……どうだろうねえ」
本当は微塵も心配していない。
だって、こいつの頭が、あのリンよりも更に良いって事は、学年中で有名なのである。
全然授業に出て無いくせに、どのテストも高得点をとるもんだから、教師の間ではあんまり良い評判では無いらしい。けれど、学校始まって以来の〜だとかなんだとかで、優遇されているという話だった。うちの高校は一応進学校だからなのかも。
それきり会話が途切れて、はたけカカシはまた、本を読みはじめた。
誰も居ないと思って、屋上きたのになあ。
でも、はたけカカシは黙っているので、居ないと思えば居ないことに出来そうではある。あたしはまたフェンスに向き直って、それから、真っ青な空をみあげた。高い高い空に、飛行機雲が長く伸びている。あーあ、良い天気だなあ。悔しいくらい。
何のために屋上にきたんだっけ。
多分、泣くためだった。
でも、こんなに晴れていると、泣く気分にもなれなかった。
いっそのこと、土砂降りだったら良かったのに。
土砂降りだったら、屋上なんて来てないだろうし、そもそも体育だって中止になってただろうけど。
……あーあ。
『そういえば、リンはクマが好きっていってた』
『まじで?さすが晴!頼りになるわ』
女の子しかいないような雑貨屋さんで、オビトと二人であれこれ見て、結局、テディベアのネックレスを選んだのはあたしだった。
オビトがリンの為にそれを買うのを、あたしは隣で見ていた。店員さんが『カレシに買って貰えてよかったね』とばかりに、笑顔であたしに目配せをしてくる。あたしはオビトの彼女でも何でもないのに。もちろん、オビトは全然気づいていなかった。
ピンクの水玉模様のラッピングを確認して、同柄の手提げにいれられたそれをオビトが受け取った。恐ろしく似合っていなくて吹き出すと、オビトは『なんだよ……』と恥ずかしそうにしていた。そして、大切そうにそれを持って帰った。11月14日、リンの誕生日の前日の事。
『わたせた?』
『うん。すげー喜んでた!ありがとうな』
自分から聞いたくせに、嬉しそうにそう言われた時、胸がつぶれそうに痛かった。
『リン、今日ネックレスしてきてたよ』
『え、ほんとかっ?』
『うん。よかったね』
嬉しそうににやにやしちゃってさ。……本当にわかりやすいにも程がある。
『まだ告白してないの?』
『告白って……だから、リンの事は、そーいうんじゃなくてだな……』
『……ふーん。しっかし、こんだけわかりやすいのに、リンも鈍いなあ』
『わかりやすいって何がだよ!?』
『あーもう。オビト、めんどくさい!』
あたしがからかうと、オビトはすぐに顔を赤くして慌てていた。
どうしようもないくらい、リンの事を好きなんだって事が、バレバレだった。
あたしはもう、ずっと前から知っていたんだ。
オビトがいつも、誰の事を見ているのか。
それなのに、あの日。
『付き合って』ってセリフをあんな風に勘違いしたのは。
それがずっと、ずっと、望んでいた夢だったからだ。
だって、ずっと好きだったんだ。
『明日、リンの誕生日だろ?それでさ、プレゼントをあげたいんだけど……』
そう言ったオビトは、いつになく真剣な顔をしていた。
『え?ちげーよ!リンはただの幼馴染だって』
ただの幼馴染のために、そんなに真っ赤になるわけないのに。
『あー!とにかく。こんなこと頼める友達、お前しか居ないんだ。だから晴さま仏さま、ひとつ頼みます!!』
何で、友達だなんて言うの。
オビトはあたしの気持ちに気づかない。
リンも、多分オビトの気持ちに気づいていない。
「オビトのばーか……」
空に向かって呟いた。
あたしが一番ばかだって、そんなのわかってる。
――あたしは、オビトが好きなんだよ。あたしの気持ちに気づいてよ。
なんでたった一言、オビトに言えないんだろう。
「泣いてるの」
そういえば、いたんだった。後ろからまたかけられた声に、返事もしないで、涙をごしごし袖で拭った。
振り向くと本から顔をあげていたはたけカカシと目が合った。
「すごい顔」
「……すごい顔で悪かったね」
むっとして睨みつけると、はたけカカシは、何がおかしいんだか柔らかく笑っている。
「ぐしゃぐしゃだよ」
「わかってる」
「授業出れないね……」
「つぎ、どうせ、お昼休みだし」
はたけカカシはパタンと本を閉じると、ベンチから立ち上がり、こちらへ歩いてきた。
「失恋?」
「……」
「あれ、図星か」
「……まだ失恋してないもん」
いや、もう失恋同然なんだけど。勝ち目がない事はよくわかっているけれど、それでも、認めたくなかった。また涙がわいてきて、唇を噛んで堪えるけれど、ひりひりと雫が頬を伝った。
はたけカカシはあたしの前で立ち止まり、ふいに手をのばしてきた。
突然のことに避けもせずにいると、灰色のセーターの袖に、顔をごしごしぬぐわれた。
「いたい……」
「あ、ごめん」
今度は袖ではなくて、指で涙を拭われる。さすがにびっくりして、目の前のはたけカカシの顔をまじまじ見つめてしまった。
はたけカカシが思いのほかマジメな表情で、あたしを見ていた。何だかいたたまれなくなる。
同情されているんだろうか。
なんだか癪になって「はたけカカシにはあたしの気持ちなんてわからないんだろうな……」と、悔し紛れに言ってみた。
マスクの下は美形という噂や、年上の彼女が数人いるらしいという噂なんかを、思い出したからだ。恋愛で泣かせることはあっても、泣くことは無さそうだという勝手なイメージから、軽率にそんなことを言ってしまって……けれどすぐに、いくらなんでも失礼だったと思って、ごめんと口を開きかけたら、遮るようにはたけカカシの言葉が返ってきた。
「わからないだろうなって。話してみなきゃわからないでしょ」
はたけカカシは眉を寄せて、不服そうな顔をしていた。
「……でも、好きな人の好きな人が親友だったあたしの気持ちなんて、わかりっこないよ」
さっきの反省をわすれて、あたしはまた投げやりに返した。自分がとんでもなく卑屈な気持ちになっているのがわかって、けれど吐き出すのを止められなかった。クラスメイトに八つ当たりするなんてどうかしている。
「……それなら、得意分野だよ」
「え?」
意外な言葉に耳を疑った。
その途端、はたけカカシの腕が伸びてきて、あたしは抱き寄せられていた。
「わ、な、なに?」
「涙が早く止まるおまじない」
そういってはたけカカシは、あたしの背中を優しくたたいた。
あまりにも突然の事に、驚きすぎて、あたしはされるがままになっていた。
びっくりすると涙って止まるんだ。
とんとんと穏やかなリズムで背中をたたかれて、なんだか、気持ちが落ち着いてくる。
一瞬止まったはずの涙が、また、ぼろぼろとこぼれてきてしまって困った。
「止まるまでこうしててあげる」
穏やかな声が頭の上から降ってきた。こんなふうにされたら、余計に泣けてきてしまう。けれど、あたしは何も言えずに、クラスメイトからの突然の優しさをうけいれていた。
はたけカカシの声が、手が、何だかすごく優しくて、抵抗する気が無くなってしまったのだ。
しばらく黙って背中を撫でてくれていたはたけカカシが、呟くように言った。
「好きな人の好きな人って……目で追ってるから、すぐにわかるんだよね」
――はたけカカシにも好きな人がいるんだろうな、と思った。彼も好きな人を目で追って、その視線の先に誰かがいる事に、気付いてしまったことがあったんだろうか。
あたしの恋はどうやら上手くいきそうにないけど、はたけカカシの恋はうまくいったらいいのに。
その時なぜか、そう思った。
報われない恋をしているのかもしれないはたけカカシに、仲間意識のようなものを感じたのかもしれない。
「はたけカカシがんばれ」
「何急に……」
「なんとなく。はたけカカシも辛い恋をしているのかなあと」
「……さあ、どうだろうね。ま、言われなくてもオレは……」
そこで言葉をとめると、はたけカカシは腕の力をゆるめて、あたしと顔をあわせた。
そして、優しい顔で笑った。
あたしは泣いていた自分が急に恥ずかしくなって、下を向いた。
「……それよりさ、はたけカカシっていうのやめない?」
「え?」
「カカシでいいよ」
涙はいつの間にか止まっていた。
その時、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。もうお昼休みだと思ったとたん、急におなかがすいてきた。
「カカシ、ありがとう」
もしここにカカシがいなかったら、あたしはまだぐずぐず泣いていたかもしれない。
「えっと、あたしの事も、睦月じゃなくて名前で呼んでいいから」
言いながら、カカシはあたしの下の名前を知っているのか不安になった。
だって、クラスメイトなのに、今までほとんど話したことが無かったのだ。
でも、カカシは、はっきり呼んでくれた。
「晴」
良く晴れた日の屋上で、あたしたちは初めて名前を呼び合った。
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