あらかたの荷ほどきを終えて、やっと落ち着いたあと、はじめて行く食料品店で、今夜と明日の分を買い込んだ。部屋に戻るころには、すっかり日が暮れていた。玄関のドアに手をかけながら、そういえば、お隣さんは帰ってきただろうか、と思う。 忍の人が多いマンションらしく、せめて同じ階の人にはと、挨拶回りをしたものの、在室している人は半分も居なかった。越してきたばかりの私の部屋は廊下のつきあたりの角部屋で、お隣さんは一人しか居ない。……一人で住んでいるかもわからないけれど。 買い物に出る前にチャイムを押したときには不在だったようで、もしかしたらお隣の人は忍だろうか、と思ったのだけれど、まぁ、忍ではない職業でもこの時間に不在にする事はあるだろうし、まだ何とも言えない。荷物を置いたらまた挨拶にいってみよう、と思いながら、鍵を差し込んでいると、がちゃり、と隣のドアが唐突に開いた。 「あ……こんばんは」 隣に引っ越してきた星海です、と言おうとして、口を開いたまま固まった。 「ん……?」 隣の部屋から出てきたその人は、見覚えのある人だったからだ。あの日着ていた暗部装束ではないけれど、特徴的な銀髪と覆面姿はまぎれもなく、先日森で出会った彼だった。はたけカカシ、という名前を頭の中で反芻する。衝撃的な出会い方だったのと、ちょっと変わった名前だったので、忘れようにも忘れられなかった。 「……ほしみ」 私の名前、覚えててくれたんだ。「お隣さんはあなただったんだね」と言うと、カカシはまだ驚いた顔のまま、「誰か隣に引っ越してきたのかな、とは思ってたけど……あんただったんだね」と呟いた。引っ越し作業をしている時には在宅だったんだろうか。 「これから宜しくね」 「こちらこそ。……この間は、ありがとう」 「いいえ。その後調子はどう?」 「まったく問題ない。……傷の治りも、薬のおかげで早かったよ」 あの日、カカシと私は一緒に里に帰ってきたけれど、大門の所ですぐに別れた。病院に行くより先に、報告にいかなければいけないという。「三日はこの薬を飲んでね。治りがよくなるから」と渡した薬を、全部飲んでくれたんだろうか。 「あの日お礼が出来なかったから、気になってた」 頭をかきながらカカシが言った。ならお店に顔を出してくれれば良かったのに、などと意地悪な事を一瞬思ったけれど、お礼をしてほしいから助けたというわけでもないので、「気にしないで」と返した。あれから、一ヶ月ばかりがたっていた。 私はどちらかというと人懐っこい方で、幼い頃から父の働く薬局にいりびたって、接客を手伝っては、お客さんにあれこれ話しかけていた。大人達は皆優しかったし、道で会えば声をかけてくれた。 けれど、一度だけ父から諫められた事がある。お客さんと仲良くなれるのは、お前の美点だし、そうして聞くことの出来たちょっとした話が、その人の暮らしに合う薬を処方する手助けにもなる。薬剤師としては、まぎれもなく長所だ。 けれど、薬局に来るお客さんは大体、体に何か不安をかかえてやってくる。中には、薬さえ処方してくれればそれでよくて、無駄な詮索はされたくないという人もいる。そういう人を見極めて、踏み込みすぎない事はとても大切だ。薬局は、困っている人がいざという時に頼れる場所であるべきだし、誰にとっても居心地の良い場所であるにこしたことはない。だから、よく気をつけなさいと。 目の前の彼は、……カカシは、お客さんというわけではないけれど。 先日彼に出会ったとき、私は父の言葉を思い出していた。 この人はきっと、踏み込まれたくない人だ。 なぜそう思ったのか、はっきりとはわからないけれど、 あの日、彼が目覚めてから共に里に帰るまでに交わした、わずかな会話や表情から、なぜかはっきりと、そう感じた。冷たくされたというわけでもないのに。 けれど。 踏み込まれたくない人は、本当に、誰にもずっと踏み込まれたくないんだろうか。 それは、いつまで続くのだろう。 そこは、寂しくは無いんだろうか。 「……あのさ」 ぼーっとしてしまっていた。カカシの声にはっと我に返る。 「あ、ごめんね。出かけるところだったのに」 慌てて言いながら、今度時間のあるときに挨拶の品をわたしたい、と付け加えようかどうしようか、少しだけ迷った。 だから、彼がその次に言った言葉は私を驚かせた。 「これから近所の定食屋に夕飯でも食べに行こうかと思ってて。……良かったら一緒にいかない?」 「え……?」 まさか夕ご飯に誘ってもらえるとは思わず、間抜けな声で聞き返してしまう。 カカシはすこし困ったように「迷惑じゃ無ければだけど」と付け足した。 「迷惑なんて、そんなことは……」 「なら、ぜひ。お礼もしたいし……なかなか美味い店だから」 安心したように、彼は微笑んだ。あまり表情が変わらない人だと思っていたから、どきりとした。そうして笑っていると、なかなかに優しい顔立ちをしているな、と気づく。 「うん。ぜひ行きたい!ちょっと待ってて、すぐに荷物置いてくるから!」 「あ、……夕飯の買い物もうしちゃってた?」 「明日に回すから大丈夫。せっかくお隣さんと仲良くなれるチャンスだし!」 「……あんた、オレなんかと仲良くなりたいの?」 そう言ってカカシはふっと笑った。嫌そうではなかったからホッとして……なんだ、踏み込まれたく無さそうだなんて勝手に線引きをしていたのは、私の方だったのかもしれない、と反省した。 もしかしたらもう会うことはないかもしれないと思っていた、銀髪の忍との再会に、私の心はなぜだか、浮き足立っていた。 まじわる軌道 |