吉田くんから逃げる話
こちらの世界に来て一週間が過ぎようとしていた。
ご主人様を刺激してはいけない。重々学ばされた。
「出かけたらどんな目に遭うかわかんないから、家から出ちゃダメだよ」
「は、はい」
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
お仕置きされたことだけで気付かされたのではない。自分の置かれた状況になんとなくしか実感がなかったけれど、日に日に感じるこの世界における自分の異常性に気づき始めたのだ。
自分の居場所はここにはない。
私のことを知る人は吉田くんしかおらず、助けを求めようにも彼を頼るしかない。
抜け出せるものなら抜け出したい。今まで自由に暮らしてきたのに、この一室に囚われるだけの日々が続くだなんて気が狂いそうだ。そう思えば私は素足のまま部屋を飛び出していた。
怒られるどころじゃきっと済まされない。何をされるかわからないだろう。それでも自分の存在を確かめたくて、衝動のまま走り出していた。
マンションから出て視界に映ったのはなんて事のない街並み。そう自分が暮らしていた世界とは違わない風景であった。
きょろきょろと辺りを見回す私に、行き交う人は怪訝そうな視線を向ける。
認識されている。それだけで嬉しかった。私はかけ出す。アスファルトを蹴る足の裏はだんだんと傷ついていく。それでもよかった。久しぶりに感じた生の実感。それで胸がいっぱいだった。
高い空を見上げる。すると、目から雫がこぼれ出す。こんなことで涙を流すことになるだなんて意外だった。止めようと思っても一度堰を切ってごぼれだした涙は止まらない。
「お姉さん、大丈夫?」
「へっ?」
私を見ているだけの人の中で唯一私に声をかけてくれた人がいた。それは学校の制服を着た男の子だった。しかも吉田くんと似た制服を身にまとっていた。
「泣いてるし、なんか裸足だし」
「あ、うん」
そう指摘されると、一人で舞い上がっていたのがばからしくなってきて、急に恥ずかしくなってくる。私何やってるんだろう。穴があったらそこに入りたい。
「まさか、どっかから逃げてきた的なヤツ!? そうだったらやばいじゃん」
「別に……」
「警察行かなきゃいけねえのか……?」
「警察ッ!?」
「なんかまずいのか?」
「行っても意味ないよ……多分」
「いやでもやばいのに追われてるんだったらさ行ったほうがよくね。まあ前だったら、オレが力になってあげられたかもだけど、今はただの一般人だし」
「一般人?」
「あ、今のオフレコで! って言ってみたかったんだよなあ」
何を楽しそうにしてるんだろう。学生らしき男の子は笑っていた。
「じゃ、行こうぜ」
「ど、どこへ?」
「履くもん欲しいだろ? そのままだといてえし」
「へっ」
戸惑う私をよそに彼は私の手を引いていく。どこに向かったのかと思えば、見るからに安そうなものが売っている量販店だ。私に店前で待っておくように伝えると、彼は駆け足で店の中に入っていく。そうしてものの五分くらいで帰ってきた。そうして私の前に安いクロックスまがいのサンダルを置いた。履けということだろう。私は「ありがとう」と小声で呟くとそれを引っ掛けた。
「一応、絆創膏も買ってきたぜ」
そう言って彼はビニール袋を漁ると絆創膏の箱を取り出した。近くのベンチのある公園へと手をひかれやってきた私はベンチに座らせられる。彼は不器用ながら、ペタペタと私の足へと絆創膏を何枚も貼った。それは箱の中身全てを使い切る勢いだった。
「できた。沁みるかもしんねえけど。ちょっとはましだろ!」
「ありがと……ありがとね」
「これくらい当たり前。だってオレ、正義の味方だから」
「正義の味方?」
「そう。オレ実はチェンソーマンなんだぜ」
「チェンソーマン? 何かのヒーロー? チェンソーで戦うの?」
「そうそう」
胸を張ってそう言い張る彼は得意げに笑う。私はなんのことかはさっぱりだったが、彼は私が感心していると思ってか、満足そうだ。
「そうだ。名前。お姉さん、名前なんていうんだよ」
「あー、私。#苗字##名前#」
「#名前#さんね、覚えたぜ」
「そういう君は?」
「オレはデンジっていうんだ」
「デンジくんね。わかった」
改めて名前を呼ばれ、私の肌は歓喜に泡立つ。しばらく名前を呼ばれていなかったからかどこかむず痒い。自分が自分じゃなくなってしまったそんなん気がしていたから余計だからだろうか。
「ありがと。助けてくれて。本当に」
「あー、いいって。そんな。照れるじゃん」
どこか焦ったそうに目をそらし頭をかくデンジくん。彼にとってはなんてことないことなのかもしれないけれど、私からすれば十分に救いだった。
「でも、#名前#さん一体どこから────」
彼が何かを言いかかけた時だった。ベンチに座った私たちに大きな影が覆った。私はとっさにそちらに振り向く。そして言葉を失った。だってそこには吉田くんがいたのだ。
言葉を失う私。それに対して、デンジくんは平然として吉田くんに声をかけた。
「あ、お前、確か吉田って言ったよな」
「覚えてくれてたんだ」
「そりゃ、まあな」
「で、なんで#名前#さんと君が一緒にいるの」
「お前、ナマエさんと知り合いなの? オレは助けただけで……」
「ふーん、そうなんだ」
ぎろりと吉田くんがこちらを睨んだ。まるで話を合わせろと言わんばかりの鋭い視線に私は縮み上がる。
「え、あ、そ、そうなの。吉田くんは知り合い」
「吉田くんじゃなくて、ヒロフミって呼んでくれればいいのに」
「え、」
「恥ずかしがるのも可愛いな」
私の頬を撫でる吉田くんはうっそりと微笑む。私の背筋には悪寒が走った。脳内では必死に思考を回転させる。見つかった。ならどうすればいい? 逃げる? いいや、逃げれない。どうしてここがわかった? わからない。ともかく、これ以上彼の機嫌を損ねたくない。合わせなきゃ。
「あんまり人前でそういうの恥ずかしいから」
「仕方ないな」
そう言って彼の手は離れていく。
その一連のやりとりをデンジくんはまじまじと見ていた。
「そういうカンケイ!?」
「それは秘密かな。ま、ともかく、#名前#さんを保護してくれてありがとう。オレがちゃんと送り届けるから安心してよ」
「お、おう。頼んだ」
彼は私を立たせ、腰に腕を回して私を連れ去っていく。ここで振り返れば、もしかしたらデンジくんも何か察してくれるかもしれない。そう思った。けれど、それを吉田くんのささやきが阻む。
「言うこと聞くなら、今回のこと怒らないであげる。でも」
私はこくこくと頷く。背く意思はないと示すのに一生懸命だった。
結局私は訳のわからないままあの閉ざされた部屋に連れ戻されたのであった。


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