触れた体温


カタカタカタカタ…タン!!エンターキーを思い切り押し、完成したばかりの報告書を上司へと転送する。画面右下に表示されている時刻は二十二時。私は凝り固まった首をほぐそうと盛大に上半身を伸ばした。ゴキッ、身体が大きな悲鳴を上げる。


「おいおい、大丈夫か?」


突然背後から聞こえた声に驚いて振り返れば、そこには顔に疲労の色を浮かべた上司の姿。部屋の半分はとっくに消灯していて誰もいないと思っていたが、そう言えば彼は今朝から現場に出ていたことを思い出す。塚内さんが自分のデスクへと向かいながら「ふう」と溜め息を吐いた。


「お疲れ様です。もう張り込みは終わったんですか?」
「ああ。長丁場だったが、なんとかな」


一緒に捜査していた玉川さんは直帰したらしい。塚内さんはネクタイの首元を片手で緩めつつパソコンを手早く開き、私が先程送ったデータを早速チェックして「お前もご苦労さん」と労いの言葉をくれた。


「何か手伝うこと、あります?」
「いや、大丈夫だ。それより腹減ってないか?」
「え?」
「バタバタしてて昼から何も食ってないんだよ。良かったら飯でもどうだ」


まさかの誘いだった。仕事終わりにご飯に行くことは珍しくないが“二人きり”というのは初めてで。

憧れの…というか、想いを寄せる相手からの提案に咄嗟に何と答えていいのか分からず。けれど彼と同様に空腹だった私の腹の虫はとても正直で、ぐう、なんて可愛げの欠片もない轟音で返事をしてしまった。慌てて両手でお腹を押さえるも、もう遅い。塚内さんは声を上げて笑った。


「ハハッ。決まりな」
「……はい」


やってしまった、恥ずかしい。一瞬で赤くなった顔を誤魔化すようにパソコンの電源を落とし、手元で散乱していた資料をデスク脇に纏めていく。ふと暗くなった目の前の画面に、にやけるのを必死に我慢している自分の顔が映った。いけないと思いつつ引き締めようと歯を食いしばるが、少しでも気を抜けば緩んでしまいそうな程、私の心は喜んでいて。


「行けるか?」
「あ、は、はい」


トレンチコートを着た塚内さんに声を掛けられ急いでジャケットを羽織る。どうしよう、すごく嬉しい。

二人きりでパトカーに乗ったり張り込んだりしたことはあるが、勿論それは仕事だからであって。こんな風にプライベートな時間を共にする日が来るとは夢にも思っておらず。前を歩く大きな背中を追いかけながら、緩む口元をジャケットの襟で覆い隠した。


   ***


冷たい風の中、すっかり暗くなった夜道を歩く。いつも大股で歩幅の大きい塚内さんが、今は隣に並んでくれているのが、また嬉しい。


「そういや、今日は“いい肉の日”って知ってたか?」
「いい肉の日?…いえ。あ、語呂ですか」
「ああ。俺もさっき三茶に教えてもらったんだ。アイツは肉より魚派だって言ってたけど」
「ふふ、猫ですもんね」
「そうそう。…せっかくだし、焼肉はどうだ?」


こちらを見遣った塚内さんに頷きを返せば、「じゃあ俺の行きつけの店にしよう」と目的地が決まる。行きつけ、か。一体どこだろう。駅前には焼肉のチェーン店が何店舗かあるから、多分その辺りだろうな。


   ***


…なんて、勝手に思っていたのだが。連れてこられた店は駅裏の繁華街にある、全く知らない個室の焼肉屋だった。


「ドリンクは何になさいますか?」
「俺は生ビールで。お前は?」
「…あ、えっと、私も、お、同じので…」
「かしこまりました」


店員さんがいなくなった後、塚内さんはメニュー表をこちらに見せるように開いて「何食いたい?」と普段通りの口調で言う。しかし、あまりに近すぎる距離に心臓が口から出るんじゃないかってくらい緊張している私の食欲は、どこかに消え失せてしまっていた。

塚内さんは今、私のすぐ隣にいる。それも肩が触れ合う程、超至近距離に。

個室は二人用なのか、横並びだったのだ。掘り炬燵式の小さめのテーブルにはお洒落な石焼プレートが置いてあって、壁には窓を模した絵画が飾られている。聞こえてくるのはジャズの音楽だけで、焼肉屋だとは到底思えない程に、静かだった。


「嫌いな物あるか?」
「あ…ありませんので、な、なんでもいいです」
「なら、適当に頼むよ」


いつもよりも穏やかな表情で笑われ、思考回路がショート寸前に追い込まれる。塚内さんの体格が良すぎるせいで狭い。なんとか距離を取ろうにも個室でこれ以上離れることは不可能だった。


「お待たせいたしました。ビールになります」 


これまたお洒落なグラスに入ったビールをテーブルに置いた店員さんに、塚内さんは慣れた様子で注文を済ませる。店員さん、ちょっと待って、行かないで、緊張で死んじゃう、二人きりにしないで。そう願っても届くはずもなく。再び訪れた静寂の中、塚内さんの骨ばった手がグラスに伸ばされた。


「乾杯しようか」


目を細めるような微笑みを向けられた私は挙動不審になりながらも、何とかグラスを傾ける。「お疲れ」と声を掛けられ、ぎこちなく頷きつつ、このドキドキをどうにかしたくて蜂蜜色の液体を一気に煽った。


「いい飲みっぷりだな」


塚内さんは笑いながら、自分も喉を鳴らすようにビールを飲み込んでいく。盗み見るように横目を向ければ男らしい喉元が上下に動く様子が目に入り、慌てて視線を逸らした。

…いやいや待って、おかしい。なんだこの状況は。塚内さんと言えばチェーン店だろう。誰もが知ってる間違いない美味しさ、値段も手軽で幅広い年齢層に愛される、そんな店が似合うっていうのに。こんな隠れ家のような店が行きつけだなんて予想外過ぎる事態に、どんな反応をすればいいのかサッパリ分からない。


「さっきからどうした?黙り込んで」
「…お洒落なお店なので、きき、緊張してしまって」


冷たいグラスを両手で握りながら平然を保とうと試みるも、いつの間にか触れたままの左肩から感じる熱い体温に気付いてしまっては、もう動揺が隠せない。


「くっ…」


笑いを堪えるような吐息に思わず顔を向けると、困ったような、でも優し気な瞳で私を見つめる塚内さんと目が合った。この人、こんな顔もするのか。沸騰しかけている頭でぼんやり思った時、グラスを持っていない彼の手が、おもむろに私の頬を、そっと撫でる。


「…ミョウジの顔、真っ赤になってる」


呟きのような言葉と、自分とは全然違う大きな手のひらの感触。目を見開いた私が声を発する前に店員さんがやって来て、温かい手は一瞬で離れていった。


「よーし、食うか」


何事もなかったかのようにお肉を焼き始める塚内さん。今のは夢かと頬をつねってみても、普通に痛くて。


「ほら、食え」


どこか楽しそうな彼の視線を感じながら、取り皿に乗せられたお肉を口に運ぶ。「美味いか?」と聞かれたが、味なんて分かるはずないだろ。

…そんなことを言えない私は、ただ、無言で頷いた。




20201129 いい肉の日
プラス再録。【いい風呂の日】と同じ二人です。


- ナノ -