眼鏡の向こう側


スーパー銭湯が好きだ。家には決して作れない豪華絢爛で様々な種類のお風呂に一気に入ることが出来るし、仕事が終わるのが真夜中が多い為、人もそんなにいないのがいい。大きな湯船を一人で貸し切りなんて割と日常茶飯事で、それもお気に入りポイントである。

今日も今日とて私以外には数人のくたびれたOLしかおらず、ゆっくりと思う存分に浸からせてもらった。


「ぷっはー!!は〜生き返る〜」


ぽかぽかに温まった体でロビーに向かい、自販機で瓶のコーヒー牛乳を買う。腰に手を当てながらグビグビ喉を鳴らして一気飲み。この瞬間がいつも最高に気持ち良かった。


「ハハッ、良い飲みっぷりだな」


…聞き覚えのある上司の声を聞くまでは。

思わず「ぶっ!!」と吹き出しそうになるのをギリギリで堪え、寝間着替わりにしている学生時代のオンボロジャージの袖で口元を拭う。そんな私の様子を特に気にすることなく、上司――塚内さんもまた、自販機に硬貨を入れた。彼は牛乳派らしい、受取口から取り出した瓶の中で白い液体が揺れている。


「あ、あの、なんで…」


驚きすぎて上手く話せない。このスーパー銭湯は我々の勤務先である警察本部から近いが、今まで誰にも会ったことなかったのに。
何故、よりにもよって彼がいるのだ。


「お前も常連だったのか」
「お前も、って…塚内さんも?」
「ああ。まあ最近通い始めたばっかりだけど」


普段のスーツ姿とは打って変わって、今目の前にいる上司はラフな黒いスウェットに身を包んでいる。ゆったりしたシルエットだが、背が高く体格もガッシリしている塚内さんが着れば様になっているから不思議だ。

それに比べて自分はどうだろう。糸がほつれた古臭いネイビーのジャージに、胸元には掠れた文字で“ミョウジ”と名字まで書かれた究極にダサい恰好。さらに最大の問題は風呂上りの為どスッピンだということだった。それに加え普段つけているコンタクトも外しており、右手に持ったコーヒー牛乳の瓶底のような分厚い眼鏡までかけている始末。

こんな腑抜けた姿を上司に…それも、淡い恋心を寄せている相手に見られるなんて、最悪すぎる。


「はー、風呂上りのビールも美味いが、牛乳もいいな」
「……そう、ですね」


出来るだけ彼の視界に入らないよう縮こまりながら瓶を指定の回収箱に入れ、一刻も早く立ち去ろうと試みるも、塚内さんは何故か私の後ろをついてきた。もちろん牛乳瓶は回収箱に入れてから。


「これから帰るんだろ?ついでだから送ってやるよ」
「え?!い、いえ結構です大丈夫です」
「何慌ててんだ。俺ん家と近いし気にするな」


両腕で顔を隠しながら激しくどもる私を見て、塚内さんが小さく笑う。それから「行くぞ」と歩き出してしまったので後ろをついて行くことしか出来ず。結局、人通りのない夜更けの道を二人きりで歩くことになってしまった。


冷たい風の音と、程近くにある繁華街の喧噪が僅かに聞こえる中、塚内さんと私の足音だけが静かに響く。どうしても隣に並ぶなんて無理で、彼の三歩後ろをトボトボついて歩いた。


「冷えるなあ」
「…はい」


すっかり白くなった息を吐き出しながら、塚内さんの背中を眼鏡越しで盗み見る。この人のような刑事になりたくて、この広くて頼もしい背中を追いかけて…憧れが恋へと変わったことに気付いたのは、もう随分も前のこと。

彼にとって私は年の離れた部下、それ以上でも以下でもないと分かっているし、今以上の関係を望むほど近しい間柄でもなかった。だからせめて塚内さんの前ではしっかりした人間でいたいと普段から気張っていたのに。いきなりこんなにも間抜けな姿を見られるなんて、恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。


「…どうした?そんな後ろで。俺歩くの早いか?」
「い、いえ…」


塚内さんが突然振り返って立ち止まるものだから、私も歩みを止めた。私達の間には職場のデスクなみの距離があって、傍から見ればとてもじゃないが一緒に帰っているようには見えないだろう。


「…」
「…」


続く無言。視線が痛い。夜といえども街頭の灯りがある為、私のみすぼらしい恰好は丸見えに違いない。頼むからこっちを見ないでくれと思いながら両手で荷物を抱き締め、俯いた。すると地面を見ていた視界に影が入り込んできて、思わず顔を上げる。そこにはすぐ近くで私を見下ろす塚内さんがいて、バッチリ目が合ってしまった。

ビックリしてそのまま固まっていると、塚内さんは更に驚いたことに手を伸ばしてきて、私の額に手のひらを当てた。まるで壊れ物を扱うように、そっと。


「うーん、熱はないな。湯冷めして気分でも悪いのかと思ったんだが…」


自分よりも高い体温と大きな手。初めて触れた塚内さんの温かさは想像以上に優しく、ふんわりと石鹸の匂いが鼻を掠めた。


「ミョウジ、大丈夫か?」


予想外の近すぎる距離に言葉を失う。そんな私と視線を合わせるように屈んだ彼は、今度は私の瓶底眼鏡のツルを、ほんの少しだけ摘まみ上げた。そうして、小さく口を開く。


「…お前、けっこう視力悪かったんだな。目の大きさ全然違う」


眼鏡がずれたせいで塚内さんがどんな表情をしているのかは分からない。けれど、ふっと笑ったことだけは、息遣いで理解した。


「は……?え…?」
「ん?顔赤いぞ」


やっぱり風邪か?なんて続ける塚内さんはゆっくりと眼鏡を元に戻す。クリアになった視界で何食わぬ顔の彼に見つめられた私は口を魚みたいにパクパクして、ただただ熱くなる顔と同じく思考回路まで沸騰しそうになって。


「げ…げ、元気…です」


やっと絞りだした言葉はひどく短く、声も信じられない程に小さい。元気です、って何だそれ意味が分からない。でも風邪なのかと聞かれたのだから間違った答えではないだろう。現に塚内さんは「なら良かった」と言って、再び歩き出した。


「おい、突っ立ってないで行くぞ」


前を行く塚内さんにハッとし、慌てて足を動かす。胸がドキドキとうるさくて仕方ないが、赤くなった顔に冷たい風が心地良い。

先程とは違い三歩先の距離ではなく、一歩先の距離を保つように歩いてくれる塚内さん。彼の背中は相変わらず遠いようでいて、なんだか近く思えてしまうのは私の勘違いなのだろうか。

…そんなことを必死に考えていたから、だから、聞こえなかったのだ。


「…ホント、可愛い奴」


そう呟いた、彼の独り言は。




20201127 いい風呂の日
プラス再録。11/26当日に上げたかったのに…またもや間に合いませんでした。
塚内さんが「目の大きさ全然違う」って言ったのは化粧してないからという悪口の意味ではなく、瓶底眼鏡の度のキツさのことを言ってます。


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