淡く宿る
―――1ヶ月後。
書類整理にも少しずつ慣れてきて、噂の書類地獄もスムーズに処理出来るようになってきた。今日は午後からの訓練が休みなので、久々に買い物にでも行こうかと歩きながら考えていた時、宮殿の奥が少し騒がしい事に気が付いた。
「どうしたんだろ…」
メイドや警備の兵士が駆け回っている。まさか侵入者でも紛れ込んだのかと思い、近くのメイドに話を聞こうとした瞬間、
「ぷぎー!」
「わっ!」
後ろから何かに激突され、私はド派手に顔から転けた。
「いたぞ!あっちだ!」
耳元を通り過ぎるたくさんの足音と声。強く打った鼻を押さえながらなんとか顔だけ上げると、前方から陛下が走ってくるのが目に入った。慌てて起き上がり、陛下に敬礼をする。
「お疲れ様です、陛下」
陛下は私に近付いてきて、驚いた顔をした。
「お前…どうした、でこ怪我してるじゃないか」
「え…あ、」
思わずおでこを抑えると、薄く血が出ていった。そういえばジンジン痛い。私は手のひらで血を拭い、慌てて敬礼し直す。
「大変御目苦しいものを失礼致しました」
「何言ってんだ、ほら、見せてみろ」
「!」
陛下が近付いて、私のおでこを見る。こんなに間近に陛下が居るなんて…私は敬礼したまま固まったしまった。
「うーん…すぐ消毒したら痕にはならないだろう。来い」
「え、あ…」
敬礼していた右手を陛下に掴まれた。陛下は近くに居たメイドに何かを言って、どこかの部屋に入る。ここは…まさか、陛下の私室?!
大きな扉を片手で開けた陛下は、何の躊躇いも無く私を部屋に入れた。そして、大きなソファーに座らせる。
「ちょっと待ってろ」
それだけ言うと、陛下はまた部屋を出ていった。
私は半ば呆然としながら、部屋を見渡す。居るはずであろう、メイドの姿は無いものの、部屋の中は綺麗で、美しく片付けられていた。おそらく奥の扉を開けた先が寝室なのだろう。
なんでこんな事に…先程、掴まれた手首がやけに熱く感じるのは気のせいか。
しばらくすると、扉が開いた。陛下が小さな箱を持って入ってくる。立ち上がろうとしたが、陛下にジェスチャーで止められた。
「ちょっと待ってろな、今消毒してやるから」
「へ、陛下がそのような事なさらないで下さい。自分でします」
「いーから。怪我人は大人しくしとけ」
先程のメイドに小さな救急箱を持って来させたのだろう。陛下は慣れた手つきで、ガーゼに消毒液を染み込ませ、それを私の額に優しく当てる。思わず目を閉じた。
「…っ」
「染みるか?」
「いえ、大丈夫であります」
「はは、眉間に皺寄ってるじゃねーか」
そう言って、陛下は私の眉間を指でつつく。ドキっとして目を開けると、陛下と視線が交わった。
…深い、蒼い瞳。
「…綺麗……」
「え…」
「!…し、失礼致しました」
思わず口から出た言葉に、自分で焦った。私は陛下に対して何を言い出すんだ…!
静かに慌てる私に気付かないフリをしてくれたのか、陛下は気にしない素振りでガーゼを取り、私の額に何かを貼った。
「…よし、これで明日にはマシになってるだろ」
「これは…」
「絆創膏だ。すぐに治るぞ」
陛下は絆創膏の箱を見せてくれた。が、その絆創膏は…正方形の、割りと広範囲の怪我用のもので、たぶん顔には貼らないであろう大きさだ。しかもこれを額に貼ったとなると…想像しただけで苦笑いものだが、陛下に手当てしてもらったので、私は深く頭を下げる。
「ありがとうございます。自分の不注意の負った怪我でしたのに、陛下のお手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」
「いや、俺のせいなんだ。ペットのブウサギが逃げ出して、お前にぶつかったんだよ」
「ペットの、ブウサギ…」
「ああ。特にジェイドはやたら脱走癖があってな…こうやって時々逃げ出すんだ」
そうか…大佐やフリングス少佐が言っていたブウサギは、ペットの事だったんだ。しかも名前が大佐…さすが陛下だ。納得した時、部屋の扉が開いた。
「陛下!連れ戻して参りました!」
「ぷぎー…」
「お!ご苦労だったな」
ブウサギの大佐を連れてきた兵士は疲労を浮かべた顔で敬礼し、私に気付くことなく出ていった。陛下はブウサギに近付き、その体をわしゃわしゃと撫でる。
「こらジェイド、お前いい加減に大人しくしろよな」
「ぷぎー」
「アスランを見習えよ。あいつは大人しくて逃げたりしないんだからな」
「ぷぎー…」
…何という絵面だ。ジェイドと名付けられたブウサギは、大佐と同じ赤い瞳。似てるような気がしなくもない。しかし不思議だ。ブウサギであれど大佐が怒られてるなんて。しかもアスラン…というと、フリングス少佐までいるのか。
「ぷぎー」
「はいはい…全くジェイドは元気いっぱいだな」
大佐が元気いっぱい…
「…ふふ」
「…あ、今笑ったな!」
「し、失礼致しました!」
慌て頭を下げると、陛下はうーんと考え、私を真っ直ぐ見た。
「…なぁ、お前いつもそんなんなのか?」
「そんなん…とは…」
「堅いっつーか、なーんか真面目すぎなんじゃねぇか?」
…確かに私は、よく真面目すぎ、礼儀正しすぎと言われる。が、陛下や上の方と接するにはまだまだな自分なのだから、言葉使いや態度だけでも、しっかりしなければいけないと思うのだ。
「ジェイド…みたいな嫌味よりは百倍マシだが…もう少し楽にしろよ。お前も第三師団補佐っていう立場なんだしな」
「しかし…」
「あんまり堅くなりすぎたら疲れるだろーが」
そう言って、私の頭をポンと叩く。
「ま、ニーナのそういう所は良いと思うけどな」
「!」
名前…
何故だか、心臓がドキンと脈打つ。大佐やフリングス少佐も私を名前で呼ぶけど、それは先輩だからで、特に気にしなかった。でも陛下に呼ばれると、どうしてだろう、戸惑ってしまう。そして頭に触れた、陛下の大きな手のひら。
「…あ、ありがとうございます」
私は赤くなっているであろう顔を隠すように俯く。陛下は、はははと明るく笑って、ブウサギの大佐を抱き抱えた。
「よし、じゃあ…この扉開けてくれ」
「は、はい」
と返事はしたものの、その扉は恐らく陛下の寝室。そこまで立ち入って良いものかと悩むが、陛下の両手はブウサギで塞がっているので急いで開ける。
と。
「ぷぎー!」
「ぷぎー!」
「ぷぎー!」
中からたくさんのブウサギの鳴き声。みんな陛下を待ちわびていたのか、一斉に群がる。
「ジェイドが戻って来たぞー!」
そう言ってブウサギの大佐を放すと、ブウサギの大佐は我知らずといった風に部屋の奥へと進む。それを見て、思わず陛下と顔を見合わせて笑った。
陛下に教えてもらったブウサギ達のそれぞれの名前は、どこかで聞いたことのある名前ばかりだった。
しばらく戯れていたところ、部屋に本物の大佐がやってきて、私がいる事に少し驚いていた。が…すぐに私の額の巨大な絆創膏に気付いた大佐に、しばらくの間バカにされ続けるのであった。
こうして、私の半日休日は終わった。
胸に淡く宿る、陛下への想いを残して…
20120712