サヨナラ愛しい人
「ナマエ、」
後ろから呼ぶ声は悲しさを含んでいる。その声を聞くと、まるで金縛りにあったような感覚になり、歩みを止めた。
「…ナマエ」
もう一度、今度は優しさも混ざった声。ゆっくりと振り返る。それに彼は安心したような、それでいて苦しそうな表情を浮かべており、私は思わず苦笑した。
「スクアーロ、何て顔してるの」
「…っ」
スクアーロは乱暴に私の腕を引いて、きつく強く抱き締める。それに抵抗する事なく身を任せた。
「スクアーロ…」
「…行くんじゃ、ねぇよ」
普段の自信満々な彼からは想像出来ないほどに弱々しい声。私は慰める様にスクアーロの背中に腕を回した。
「ダメだよ、任務だもん」
「俺が行く」
「スクアーロには自分の任務があるでしょう?」
「でも…!」
まるで駄々をこねる子供だ。聞き分けのない、大きな子供。けれどそんなスクアーロが愛しくて、私は小さく笑う。
「大丈夫。任務は何としても遂行するから」
「…」
「だから、任せて」
「必ず…帰って、こい」
「…ごめん」
それは、それだけは約束できない。
「ナマエ…」
「…守れない約束は、出来ないよ」
私に課せられた任務は、それはもう酷い内容だった。Sランクを遥かに超える、本来なら幹部クラスが数人で行う任務。遂行しても失敗しても、たった一人で敵地に向かう私の命は消えるだろう…そんな任務だった。
だけど私は引き受けた。ボスやスクアーロ達幹部の者は日本に行ってやらなきゃならない事がある。その間この任務を遂行できる可能性があるのは唯一私だけだったから。ボスが悩んで私に任せてくれたのも知ってる。だから私は首を縦に振ったのだ。
「みんな、やるべき事がある」
「…」
「スクアーロは、日本で必ずリングを奪ってきて」
「…ああ゛」
「私は必ず、絶対に任務遂行するから」
「ナマエ…」
スクアーロの背中に回した腕に、ぎゅっとぎゅっと力を込めた。それに答えるように彼も私の体を強く抱き締めてくれる。とても安心する温もりと匂い。スクアーロの腕の中が、私は大好きだ。
「スクアーロ、私、幸せだよ」
「…俺もだ」
「うん…一緒に過ごせて、本当に幸せだった」
「ナマエ、」
背伸びをして、私よりも背の高いスクアーロに触れるだけのキスをする。驚いたスクアーロの瞳から、我慢していたのだろう、涙が一筋こぼれた。
「…泣かないで、スクアーロ」
「…」
「大丈夫、大丈夫だから」
赤子をあやすように、根拠無く大丈夫と言いながらスクアーロの頬を撫でる。彼の暖かくて綺麗な涙が指を伝って袖を濡らした。スクアーロは、困ったように小さく微笑む。
「…ナマエ、もう一回…キスしてくれ」
「…うん」
今度は長く、深く。お互いを確かめるように。息が出来なくて苦しいけれど、唇から愛が流れ込んでくる様で、すごく嬉しかった。
「…そろそろ、いくね」
「…」
「スクアーロ、」
中々離してくれないスクアーロは、私の最後の呼び声でゆっくり腕を解いた。途端に消えていく温もり。それがとても不安で悲しくて、けれど私はスクアーロにそれを悟られない様に笑顔を作り、小指を差し出した。
「…スクアーロは、やるべき事が全て終わったら会いにきて。私はいつまでも待ってるから。約束だよ?」
「…、…ああ゛。必ず、お前を迎えにいく」
約束だ。
▽
「うっ、…、げほ…げほっ…」
焼け野原に仰向けに倒れる。何もかもを燃やして、全て消した。任務完了。良かった、これで大丈夫。
手のひらを空に掲げる。濁っていく視界と身体中が冷たくなっていく感覚を他人事の様に思いながら、愛しい彼と交わした約束を思い出した。
「スクアーロ…先に、逝ってるね…」
どうか、あなたは生きて。
あなたの誓いが、誇りが、全て果たせるまで、私との約束は忘れていいからね。
さよなら、スクアーロ。
▽
「…ナマエ…?」
ふと目に入ったのは白い天井と見慣れない部屋。身体が動かない。ああ、そうだ。山本武に、中学生に敗北したんだ。なのに俺は生きているのか…身体中の痛みがそれを物語っている。
意識が徐々に覚醒していく中、今さっき頭に鳴り響いたナマエの声がやけに鮮明で、無意識にナマエを探す為に視線を動かす。
「お目覚めか?スクアーロ」
「お前、は…」
金色の髪をなびかせた跳ね馬は、困ったように笑った。
ああ…俺には、まだやるべき事が残ってんのかぁ…
ナマエ、あと少し、あと少しだけ待っていてほしい…全てが終わったら会いに逝くからな。
お前との約束は、ひと時も忘れない。遅くなるかもしれないが、必ず守る。
俺は溢れる涙を飲み込む様に目を閉じ、今までも、これからも、ずっと愛する一人の女へ向けて、ただただ祈った。
20080801