心休まる場所



マンションの下まで来てくれた幼稚園の送迎バスに乗り込みながら、


「帰ったら父ちゃんとあそぶ!」
「ボクもボクも!」


と騒ぐ双子達を見送った律子は、急いで最上階の自宅へと戻る。ドアを開けた瞬間、未だヒーローコスチュームのまま玄関で座り込んでいた彼が抱きついてきた。というか、凭れかかってきた。


「ああ〜…久々の律子さんの匂い…」


首元に顔を埋めにくる彼を、律子はしっかりと抱き留めてやる。彼は息子達の見送りをする為バスまで来ようとしていたが、顔に疲労の色が濃く刻まれていたので律子が止めたのだ。やはりすごく疲れているらしい、赤い翼は元気なく垂れ下がっている。


「本当お疲れさま。お腹空いてるでしょ?朝ごはん作るよ」
「ありがと…時間大丈夫?」
「全然大丈夫。その間にシャワー浴びておいで」
「うん」


少しふらつきながら浴室へ向かう彼とは反対に、律子はキッチンへ。すぐさま朝食作りに取り掛かった。

作り置きのゆで卵をつぶし、マヨネーズと塩コショウで和えて二枚の食パンに挟む。それを軽くトーストしている間に、スープ作りだ。細切りにした玉ねぎとベーコンを炒めた鍋に、水とコンソメを入れて沸騰させておく。レタスとパプリカで簡単なサラダを作り、焼き上がった食パンは食べやすいよう半分にカットして、断面を見せるように並べた。昨日買ったばかりの苺も一緒に皿に乗せたら、彩りの良い朝食の完成だ。

出来立てのスープを器に盛っていると、シャワーを済ませた彼がパジャマを着ながらリビングにやって来た。家族四人でお揃いの、スウェット素材のパジャマである。ちなみに色は父が黒、母はグレー、双子はそれぞれ赤と青だ。


「いい匂い…」
「簡単なものばっかりになっちゃった」
「めっちゃ美味そう。いただきます」


スープを飲んだ彼が「うまか〜…染みる…」と呟く。律子はフライパンを洗いながら、もぐもぐとサンドイッチを頬張っている彼に問いかけた。


「晩御飯、何か食べたい物ある?」
「唐揚げ!」
「ふふ、はいはい」


好物の鶏肉を即答する彼に笑いながら、ふと時計を確認すれば8時50分。思わず「げっ」と声を上げた律子は急いでエプロンを外し、椅子に掛けてあったカーディガンを羽織った。


「じゃあ私も行ってくる」
「うん、朝ご飯ありがと。気を付けてね」


彼が玄関まで来てくれたので、触れるだけのキスを交わす。夫婦の日課である“行ってきますのチュー”も一週間ぶりとなると少しだけ気恥ずかしい。


「あ、報告書のデータ送ってるから確認お願いします」
「りょーかい。行ってきます」
「行ってらっしゃい」


眠そうにしながらも笑顔を浮かべる彼の頭を一撫でしてから、律子は職場へと駆け足で向かった。

律子は現在、自宅から五分のホークス事務所で事務員のパートをしている。勤務時間は平日9時から15時。主な仕事内容は、所長であるホークスやサイドキック達がこなしたヒーロー活動の報告書作成、経理なんかも担っていた。今では数十人ものサイドキックを雇用しており、年々大きくなる事務所のデスクワークは中々忙しい。

律子が始業時間ギリギリにフロアに入ると、サイドキックの一人が膨大な資料を抱えて寄って来た。


「律子さん、おはようございます」
「おはよう。ホークス帰って来たよ」
「みたいですね、すごい量のデータ届いてました」
「う、うわ〜…」


彼が関東で片付けてきた任務は凄まじい量だった。よく一週間でここまで…と感心しつつも、早速それらを猛スピードでパソコンに入力し、報告書を作成していく。黙々と仕事に徹していれば、あっという間に15時。時間ピッタリに仕事を終えた律子は完成したばかりの報告書の山をサイドキックに手渡した。


「えっ、もう出来たんですか!さすが速すぎる男の嫁…」
「何言ってんのよ。誤字脱字チェックお願いね」
「うっす、所長によろしくです」
「うん、じゃあお先に失礼〜」


お疲れさまでした、と頭を下げるサイドキックに手を振ってから、律子は近所のスーパーに向かった。家にある食材を頭の中で思い出しながら夕飯の材料を買い、足早に帰宅。出来るだけ物音を立てないように玄関を開けながら、買ったばかりの鶏肉等はすぐに冷蔵庫へ。双子達がバスで帰ってくるまであと30分、今の内に夕食の下準備をしようと思いながら、律子は夫婦の寝室を覗いてみた。


「すー…すー…」


大きなダブルベッドの端っこで、律子の枕を抱き締めながら寝息を立てる彼の姿。蹴り飛ばしたのか、布団がベッドから落ちかけている。いつも寝相の悪くない彼だが今日は余程疲れていたのだろう、あれだけの任務をこなせば当然だ。
律子は起こさないよう静かに近付いて、布団を掛け直してやった。


「ん〜…律子さん…むにゃむにゃ」
「(寝言…)」


ちょっぴり垂れている涎を拭ってやりながら、律子は小さく笑う。ふわふわの髪をそっと撫でても起きる気配はなく、彼が規則正しい寝息を乱すことはない。

――そんな姿を見て、律子は、彼と付き合い始めた頃のことを思い出した。









ホークスに想いを告げられてから数日後。片時も離れたくないと言う彼に同棲を提案された律子は、驚きながらも受け入れた。恋人同士になりたてとは言え、当時ホークス事務所でサイドキックをしていた律子は彼とは数年の付き合いなのだ。一緒に住むことに何の抵抗もなければ、むしろ嬉しいとさえ思えた。

…そして、共に暮らすようになって、初めて知る。彼の眠りが、とても浅いことを。

ある日、律子が夜中に起きて布団から出ようとした時、彼もすぐに目を覚まして抱き締めにきたのだ。「どこ行くの?」なんて不安そうな声と一緒に。


「喉が乾いちゃったの。ごめんね、起こしちゃった?」
「あ…そっか、ううん、なんでもない」
「…どうしたの?」
「…」


口籠る彼の様子が、やけに寂しそうで、辛そうで。律子がもう一度「どうかした?」と問うと、やがて彼は、ゆっくりと話し出した。

公安で長い時間、スパイとしての訓練を受けてきた為、深く眠ることができないのだと。寝ている間に何が起こるか分からないし、いつ何時、事件が起こるかも分からない。目を覚ましたら何もかも終わってました、なんてことにならないよう、どんな時でもすぐに行動できるよう、二十四時間ずっと構えることがクセになっているのだと。

もう公安の組織からは解き放たれたとは言え、彼の剛翼は万能であり、今も昔も全国からのチームアップ要請が絶えない。多忙が習慣化した彼にとって、“ゆっくり休む”という時間は人生に存在しなかったのだ。


「…こんな話して、ごめんね」


そう言って、無理矢理な笑顔をつくる彼を、律子は抱き締めた。


「…啓悟。もう肩の力を抜いて、いいんだよ」


大きな赤い翼を優しく撫でながら、ふわふわの髪に頬を摺り寄せる。


「今は私がいる。大丈夫、貴方は一人じゃない」
「…律子、さん、」
「ずっと一緒にいる。ずっと傍にいるから、安心してほしい」
「…っ」


ぎゅっと、自分よりも大きな体を包み込む。彼は律子の胸元に顔を埋めるようにして、声を押し殺すように、静かに泣いた。

その日を境に、律子は彼を抱き締めて眠るようになる。そんな律子に甘えるように、彼もまた、寝る時は自分から引っ付くようになった。

…彼が独りで背負ってきた多くのモノ、抱えていた責任、“ホークス”として過ごしてきた過酷な日々。それらを全て理解することは出来なくても、自分が隣にいる間は何も気にせず、気負わず、ただ穏やかな時間を過ごしてほしかったのだ。

喧嘩をしても、仕事で互いの生活リズムがズレてしまっても、眠る時は必ず彼を抱き締めた。もう何も心配しなくていい、ゆっくり休んでいいんだよという気持ちを込めて。










――あれから十年。


「(ぐっすり眠れるようになって、良かったね…)」


あどけない寝顔を見つめながら、律子は幸せそうに笑う。律子の腕の中だけでない、この家が彼にとって、心休まる場所になっていることが嬉しかった。


「んん〜…唐揚げー…」
「…!」


可愛い寝言に思わず笑いそうになって、なんとか耐える。スヤスヤ眠る愛しい夫の額にキスを一つ落とした律子は、彼の好物を作る為にそっと寝室を後にした。



20201103





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