「この先の控え室がメイクルームです」


途中までメイクボックスを運んでくれたホークスはそう言って、「じゃあ俺コッチなんで。あ〜またドヤされる〜!」と呟きながら走って行ってしまった。大きな鞄と一緒にポツンと残された杏は彼に礼の一つも言えなかったと後悔する暇もなく、目の前に広がる光景を見て、唖然と立ち尽くす。


「オイ照明ー!もっと明るく設定できないのか?!暗いだろーが!」
「す、すみません!すぐ直します!」


沢山の人が走り回っているスタジオ内。撮影に向けて、監督と思われる男性の怒声が盛大に響いているのだ。赤いメガホンを使い「小道具足りてねえぞ!20種類以上用意しとけ!」「このストールの色違いはどこだ?!」などと怒鳴る声を聞いているだけで肩がすくむ。カメラマンや衣装担当らしき人達が死にそうな顔で駆けずり回っている光景は、まさに戦場であった。

…果たして自分は生きて帰れるのか。杏はまた泣きたくなったが約束の時間までは一分もない。いい加減に腹を括らなければと頭を振る。もし死んだら、自分の屍は綺麗な海にでも撒いてもらおう…そう思いつつ重いメイクボックスを肩に担ぎ、教えてもらった控え室へと駆け足で向かった。









スタジオ奥にある控え室、メイクルーム。深呼吸してからコンコンとノックをして入ると、一人の女性と目が合った。その女性の目の下には色濃いクマが浮かんでおり、顔色は悪く、何故か部屋の角で膝を抱えるように座り込んでいる。
悲壮感漂う、ただらぬ暗いオーラ…杏が驚いてドアを開けたまま固まると、女性は呆然とした表情で口を開いた。


「…どちら様で……?」
「…あ、えと、ヘルプで来ました、松岡杏と申します」


おずおずと名乗って数秒、目を見開いた女性の大きな瞳から、滝のような涙がドバッと溢れ出た。


「…う、うわあああん!!良かった来てくれたあああ!!」
「ひ?!」


立ち上がった女性は泣きながら杏の肩を掴み、大きく揺らす。ものすごい形相に思わず小さな悲鳴が出たが、女性は気付いていないのか一方的に続けた。


「来ないかと思った…!バイトの子みんな一気に辞めちゃって…うっ、ホントあたし一人でどうしようかと…!!うう、うわああん!!」


突然号泣しだした女性に面食らいつつ、杏は慌ててハンカチを差し出す。


「あ、あの…大丈夫ですか…?」
「うう、ひっく、大丈夫じゃなかったけど…けど助かった…来てくれて本当ありがと…」


ズビズビと鼻水を吸いつつ安心したように言う女性…もとい、店長の友人であるメイク担当リーダーと簡単に挨拶を交わした。歳は杏より5歳上で、店長と同じ29歳。白のパーカーとスキニーデニムというラフな服装で、腰にはメイクツールの入ったベルトを着けている。ピッチリ分けられた前髪とショートヘアが良く似合っていた。顔立ちもとても綺麗だ。しかし、号泣したせいでマスカラやアイラインが滲みまくっており、アイシャドウのラメなんて顎にまで散っている。かなり悲惨な有り様である。

リーダーが何故こんなことになっているかと言うと、先週、五人いたバイトが突然全員辞めると言い出したらしい。理由は「私達、もう監督に付いていけません」といったもの。リーダーがどんなに引き留めても誰も残ってくれず、この一週間、必死であちこち声を掛けまくって人員確保に努めたが、誰も見つからず。最終的に級友の店長に土下座しながら泣きついて、杏に来てもらった、と。

…さっき自分が逃げ出していたら、リーダーはどうなっていたことだろう。一人で戦場に投げ出されて心細かったに違いない。ウジウジしていないでもっと早く来れば良かったと杏は心の中で謝りつつ、声を上げて泣いている背中をさすった。


「…えっと、リーダー。私こういう仕事初めてですが、頑張りますね」


先程まで本気で死を覚悟していた杏であったが、自分の何百倍もの重荷を背負っていたリーダーに比べればマシだと、少しだけ冷静さとやる気を取り戻す。


「うっ…ありがと…ホント杏ちゃんみたいな優秀な子が来てくれるなんて有難い、店長から噂は聞いてるよ」
「あ、い、いえ…私なんて店長に比べればまだまだ未熟です」
「そんなことないよ、めちゃくちゃ頼りにしてる!マジで!」


今度は感激の涙を流しながら両手をぎゅっと握るリーダーに杏が苦笑いを浮かべた時、ふと自分の腕時計が目に入って驚く。もう9時を5分も回っているではないか。


「リ、リーダー!時間が!」
「え?ああ、ごめん言ってなかったね、撮影は10時開始だよ」
「じゅ、10時?え、じゃあメイクって何時頃から始めるんですか…?」
「だいたい9時30分くらいにヒーローがくるから、まだ大丈夫」


ちなみにヒーロー達は衣装合わせがあるから9時集合だよ、と付け加えるリーダーに杏がホッ一息吐くと、リーダーは遠い目で明後日の方向を見た。


「いやー…もし誰も来なかったら、色々と覚悟する時間が必要だなって思ってさ。少し早めに時間指定させてもらったの」
「…」


覚悟、とは。ふふっと小さく笑うリーダーの目が怖い。死んだ魚のようだ。あまり深くツッコまない方が身の為だと思い、杏は黙る。
しばらく壁を見つめていたリーダーは、「あ、そういえば」と、思い出したように口を開いた。


「確か昨日、杏ちゃんとこのブランドで新作アイシャドウ出たんだよね?」
「あ、は、はい」
「買いに行きたかったな…あたし、あのブランド大好きでさ…でも今日が不安過ぎて、それどころじゃなくて…」


また遠い目をするリーダーにそりゃそうだろうなと同情した杏は、彼女のドロドロに取れてしまったアイメイクを見て、閃く。


「あ、あの…良かったらメイク直しで使ってみませんか?今日持ってきてるんです」
「…え!い、いいの?」
「勿論です。スキンケアから全部あるので、お好きな物どうぞ」


キャリーバッグなみの大きすぎるメイクボックスを床に広げて中を見せると、リーダーの表情はパッと明るくなった。


「わ〜!すっごい、全部揃ってる…!夢みたい…ひえ〜可愛い!」
「えへへ、限定カラーもありますよ」
「ホントだ!あれ…でも杏ちゃん、なんでこんなに化粧品持ってきたの?」
「あ…その、自分で用意するものかと…」
「まっさか!ここに一通り揃ってるよ」


ほら、と指差された机の上には、様々なブランドのメイク用品が所狭しと並んでいた。店長が一切何も言ってくれなかったので用意周到にしたのに…重い重いと肩を痛めながら持参したのに…あまつさえ大人気ヒーロー・ホークスの手まで煩わせたというのに。とんだ苦労だったとガックリ項垂れる杏に、リーダーは「でもでも!このブランドは置いてないから嬉しいよ!」と慌てて付け加えてくれた。


「…あはは、なら良かったです。あ、仕事はどんな流れなんでしょうか?」
「えっとね、ヒーロー達が撮影順に来るから、監督の指示に合わせてメイクするの」
「なるほど…あ、あの、ヒーローって怖いですか?」
「えっ、何言ってるの〜、みんな優しくて良い人ばっかりだよ」


良かった、パンピ扱いされることは無さそうだと杏は一安心しつつ、それでもやっぱり自分の不手際で熱狂的ファンの解釈違いを起こしたらと思うと緊張した。しかもさっきホークスがいたということは彼もモデルの一人なのだろう。あんな女性人気の高いヒーローの顔面を触るなんて…ファンに刺されても仕方ないのでは?いや仕事なので仕方なくないのだが、考えただけでもゾッとする。そもそもメイクなんかしなくたって彼の顔は十分すぎるほど整っていた。自分が手を加えたことで魅力が減りでもしたら、切腹不可避だ。

そんなことを悶々と考えていると、リーダーは「怖いのは監督でね…」と深い溜め息を吐いた。


「そういや杏ちゃん、スタジオ突っ切ってきたよね?監督に怒鳴られなかった?」
「あ…怖かったので見つからないように存在消しながら来ました」
「器用だね。いやマジで、あの監督ね、中々オッケー出してくれないんだよ。こだわりが凄くって…ワンカットでもメイク何十回ってやり直しするんだ…」


最初の指示ではクール系だったハズが監督の閃きにより可愛い系にチェンジしたり、綺麗めナチュラルから派手な印象メイクにしろと言われたり。男性ヒーロー達は濃いメイクをすることがあまりないので大人しいが、女性ヒーロー達は毎回「またクレンジング…!お肌が!」と嘆いているらしい。

しかも監督は一分一秒無駄にしたくないからと、このメイクルームにまでやってきては「早くしろ!お前らの技術はそんなもんか!」とメガホン片手に怒鳴り散らしながら急かしてくるとのこと。リーダーやバイト達は毎回号泣しながらメイク直しに取り掛かり、それを不憫に思った女性ヒーロー達が「こっちは自分でメイクするから、泣かないで」と慰めるまでが、一連の流れだという。


「なんと…」


杏は絶句する。パワハラだ…ブラックだ…やっぱり帰りたい…そう思わずにいられない。つまり今日、自分も怒鳴られて泣かされるのだ。なんという仕事場、どうしよう怖い。

けれど、あんな横暴な監督でもセンスはピカイチらしい。背景や小物まで全てにこだわり、常に読者目線で考え、読者が望むものを形にしようという姿勢は尊敬に値するものだという。だからリーダーを含むスタッフ達はビビりながらも、なんやかんやで付き合いの長い監督を信じて指示に従っていた。

ただ、バイトは違う。監督の無茶苦茶な難題に今まで数えきれない程のバイトが泣き、辞めていった。それでも今回のように一気に全員が辞める、なんてことはなかったのだが。

「さすがに監督を恨んだよ」と、乾いた笑みを浮かべたリーダーは、壁掛け時計を見てギョッと目を見開いた。


「…げっ?!もうこんな時間?!あたし自分のメイク直し全然やってなかった…!」
「え、あ…」


喋っていると、もう9時20分。あと少しで着替えが終わったヒーローが順にやってくるというのに、リーダーの顔面はドロドロのままだった。


「や、やばい、こんな顔もし監督に見られたら“メイク担当が何て顔してんだ!”ってまた怒られちゃう…!」


リーダーは慌てた様子で自分の鞄からメイクポーチを引っ掴み、その中からコンパクトを取り出す。しかし急いだせいで黒いケースは手から滑り、床にガシャンと音を立てて落ちた。中のパウダーファンデが盛大に割れ、無残にも飛び散る粉。杏が屈んで拾おうとすると、頭上から「…ごめんね」と小さな声が聞こえた。


「ごめん…あたし、リーダーなのに、頼りなくて」
「え?」


杏が顔を上げると、静かに涙を流すリーダーの姿が映る。ポタポタと、彼女のデニムに涙がこぼれ落ちていった。


「昔から、こうなの…すぐ泣くし、慌てちゃって、余計な手間を増やして…」
「…」
「こんなだから…監督からバイトの子達をちゃんと庇ってあげられなかった…」
「リーダー…」


…一週間、ずっと一人で悩んでいたのだろう、後悔していたのだろう。部下が全員辞めるなんて精神的負担も大きかったに違いない。


「こんなグチャグチャの顔のあたしに、リーダーの資格なんてないんだよ…」


粉々になったパウダーを見つめながら呟くリーダーの落ち込んでいる顔を見て、杏は考えるよりも早く、口を開いていた。


「…そんなこと、ありません」


ハッキリと断言する言葉に顔を上げたリーダーは、杏を見て驚く。先程までオドオドしていた人物とは思えぬほど、キリっと引き締まった表情をしていたのだ。


「私に、任せてください」


立ち上がった杏は着ていた薄手のトレンチコートを脱ぐ。彼女の服装は至ってシンプルな黒のシャツとスラックスだ。身体にフィットしているデザインの為オールブラックだというのに重くなく、むしろ清潔感がある。そして、働いているブランドのカラーでもある真っ赤なピンヒールが、洗練さを醸し出していた。

コートを乱雑に丸めて部屋の角に放り投げた杏は、ポケットから取り出したヘアゴムで下ろしていた髪を前髪ごとピチッと後頭部にまとめ、慣れた手付きで毛先を巻きつけて簡易なお団子を作る。次に、床に広げたままのメイクボックスから使い慣れたツールが詰まっている黒のポーチを掴み、2秒で腰に装着。そして、


「杏ちゃん…」


涙に濡れた瞳で自分を見上げているリーダーに向き直り、大きく深呼吸を一つして、笑いかけた。


「これから、リーダーに似合うメイクをご提案させてください」
「え…」


杏は思う。百貨店の化粧品売り場も戦場だと。数あるブランドが立ち並ぶ中、足を運んでくれたお客様にいかに満足してもらえるか、商品を使いたいと思ってもらえるか。全て短時間のタッチアップで決まると言ってもいい。そんな激戦区で毎日を過ごしていることを思えば…怖い監督なんて、なんぼのもんじゃい。

それに…何よりも今、目の前で悲しんでいる女性を幸せな気持ちにしたかった。自分が得意な、大好きなメイクで。


「10分で、リーダーを笑顔にしてみせます」


だって杏は、美容部員なのだから。




20201023
title by moss

主人公が働いているブランドイメージはアルマーニ・ビューティーです。



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