都内の中心地にある百貨店、一階の化粧品売り場。そこが松岡杏の生きる場所である。
ビューティー・アドバイザー、通称BA。

彼女の仕事は、美容部員。



―I’m in love with you.―




「私がヘルプ、ですか?」
「ええ、松岡さんになら安心して任せられるわ」


今日も今日とて忙しかった。というのも新作アイシャドウの発売日だったからだ。限定色のコーラルブラウンは開店後数分で売り切れ、その後も新しい色味を求めるお客様が押し寄せて大混雑、けれども大繁盛。
そしてやっと営業時間が終わり、閉店作業中の現在。店長に「ちょっと話があるの」と個室に呼び出された杏は、その内容に唖然とした後、全力で首を横に振った。


「む、無理です、荷が重すぎます」
「大丈夫よ!ヒーローっていっても人間だから」
「そういう問題では…」


“ヒーロー雑誌のメイク担当、人手が足りないみたいなの。”

ついさっき言われた言葉が頭の中で回る。だからと言って何故自分に白羽の矢が立ったのか理解できない杏は戸惑いの表情を浮かべた。「松岡さん毎月売り上げ一位でしょ?」確かにそうだが…「タッチアップも好評だもの!お客様アンケートいつも一位じゃない!」、いやそうなのだが…それとこれとは別である。実力を認めてもらえるのは有難いし、アンケート結果もすごく嬉しい。しかし化粧品を買いに来るお客様をお迎えするのと、メディアに出る人間にメイクするのは訳が違う、全く違う。そう杏が必死の形相で説明しても店長は聞く耳を持たないまま、


「貴方にしか頼れないのよ、お願い」


顔の前で両手を合わせ、続けた。杏は「う…」っと言葉が詰まる。美人な上司に眉を下げられると弱いのだ。そんな捨てられた猫のような目で見ないでくれ。
どうやら雑誌のメイク担当リーダーは店長の美容学校時代の友人らしく、助けを求められたのだと。なら自分が行けよと思ったが、生憎店長には小さい娘がおり時短勤務中、都合が合わないと。
しばらく押し問答が続いたが結局逆らえなかった杏が渋々頷くと、途端に目をキラキラさせて「じゃあ早速明日、渋谷のスタジオに朝9時集合ね〜ヨロシク!」と言い残し去っていた店長。杏の「あ、明日?!」という小さな悲鳴は誰にも聞こえなかった。







「嗚呼…どうしよう無理、やっぱ無理…」


現在時刻8時30分。逃げ出したい気持ちを抑えつけて指定のスタジオにやってきた杏は、入り口の近くで大きな鞄を抱えながら右往左往していた。何をどこまで持参すればいいか分からず(店長は即帰宅していたので教えてくれなかった)、忘れ物があったら怖いので店で一番大きいメイクボックスに大量の化粧品を詰め込み、念の為ヘア用品まで持ってきたのだが、重すぎる。鞄と同じくらい気持ちも重い。やはり断れば良かったと後悔しても、もう約束の時間までは30分。

…逃げたい。今すぐ全部投げ出して海外逃亡したい。でも小心者の自分がそんな大それたこと出来る訳もなく、嫌々でも引き受けてしまったからには責任がある。そんなこんなで約束よりも早い時間にやって来たのだから褒めてほしい、いや褒められなくていいから、やっぱり誰か代わってくれ。…などと脳内でいくら叫んだところで代わりなんていない現状に、思わず盛大な溜め息を吐いた。

ヒーロー雑誌の存在を、杏も勿論知っている。買ったことはないが人気ヒーロー達の私服姿やオフショットが多く、プライベートに踏み込んだインタビューも掲載されていることもあって、毎月発売日には売り切れ続出の、とんでもない雑誌だ。

…もし、もし。自分のメイクが下手でヒーローの写真映りが悪くなったら?「このヒーローはこんなメイクしない!」と過激ファンに叩かれたら?メイク担当爛に掲載されるであろう自分の名前を調べられ、店にまでガチ勢から苦情が入ったら?


「待って待って怖すぎる」


考えれば考えるほど嫌な予感しかしない。どんなヒーローがモデルなのかも分からないし、そもそも日常でプロヒーローと会話することもないのだ。どうしよう、あの人達ってプライドが高いイメージがある、「あんたみたいなパンピに触られたくないんだけど!」などと怒鳴られたりしないだろうか。多分そんなこと言われたら泣く。緊張のあまりアイシャドウブラシを誤って目に突っ込んでしまったらどうしよう、ベースメイクをスポンジで叩き込む時に力加減をミスって痛い思いをさせてしまったらどうしよう。「公務執行妨害だ!」なんて殴られて最終的には逮捕されるかもしれない。

大きな鞄を抱き締めながら「ああ〜」とか「うう〜」とか一人で呻く杏の姿は不審者極まりないのだが、脳内でいくつもの最悪の事態を想像しては絶句する彼女は他人の目を気にするどころではなかった。だから気付かなったのだ、すぐ傍にいる人物に。


「オネーサン、こんなとこで何してるんです?」
「ぎええ?!」


突如、頭上から聞こえた声にハッとして顔を上げた杏は、思わず息を飲む。


「そんな驚かんでも…」
「あ、ああ、貴方様は…」
「貴方様て」


メディアに疎い杏でも知っている―――人気爆発中のウイングヒーロー・ホークスだった。鮮やかな深紅の翼と共に目前に降り立った彼は急いでいたのか、髪型が少しだけ乱れている。身軽に空を舞う姿は画面越しでは小さく感じていたが、近くで見ると自分より幾分も背が高く、翼も相まって大きい。
普通なら「キャー!ホークス〜!」と喜びそうな場面だが、ビビりまくっている彼女にとって、このタイミングでのプロヒーロー登場は絶望を意味していた。まだ何もしていないが、速すぎる男は早々に自分を逮捕しに来たのだ、と。加えて、初めての本物…生のヒーローは想像以上の威圧感があって、オーラがやばい。オーラだけで殴られている気分だ。こんな人種の顔を触ってメイクなんてしたら絶対ミスる、口紅で眉毛を描いてしまうレベルのミスをする。

ふんわりと地面に足を着けたホークスは、絶句したまま固まる杏の足元にある大きすぎるメイクボックスを見て、口を開いた。


「…もしかして、新しいメイクさん?」
「え、え、あの、いえ、はい」
「なら早く行かんと。もう5分前ですよ、俺またギリギリだっつって怒られるかも」
「ごっ5分前?!」


なんということだ、遅刻だけはしないよう気を付けていたのにウジウジしている間にとんでもなく時間が経ってしまっているではないか。杏は口をパクパクと開いて、一気に顔面蒼白に。
完全にフリーズした彼女の様子を数秒眺めたホークスは、地面に置かれたキャリーバッグなみの大きな鞄をヒョイと持ち上げた。


「重っ、こんなん持ってたんですか」
「え、あ、あの、何をなさるおつもりで、」
「何って、行きますよ」


勢いよくスタジオのドアを開ける彼は杏の大事な商売道具を抱え、ずんずん奥へと進んでいく。


「え、嘘、ちょ、まま、待ってください…!」


咄嗟に呼び止めてもホークスは歩みを止めないで「ホラ早く!」と手を招くだけ。
物理的に身軽にはなったものの、焦る気持ちは変わらぬまま。けれど本格的に逃げられなくなった杏は目の前の赤い翼を見失わないよう、ヤケクソで広い室内へと足を踏み入れた。半泣きで。



20200929
title by moss



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