俯く先にあるもの


最高の休日の幕開け…だったのだが。


「手伝ってくれてありがとう。お風呂入れてくるね」

「うん…」


やはり亜希に避けられている。ホークスは洗ったばかりの食器を布巾で拭きながら思った。食後の片付け中に触れようと近付いてもなんとなく躱され、思い切って抱き着こうとしても、たまに俯く彼女の視線がどこか悲し気で気軽にスキンシップを図れないのだ。


「(…うーん…どうしたもんか)」


食器を棚に片付けたホークスがやるせない気持ちでソファーに腰を下ろすと、亜希もリビングに戻って来た。彼女は自分の隣、数十センチの隙間を空けて座る。いつもなら肩が触れ合う距離に来てくれるというのに。
ホークスは亜希に顔を向けて、おずおずと口を開いた。


「…ねえ亜希さん、あのさ」

「ん?」

「その…抱き締めてもいい?」


触れたくて、たまらないんだ。その思いを込めて見つめてみる。
一瞬キョトンとした亜希は、「いつもそんなこと聞かないのに」と小さく笑って、やっと、隙間を埋めるように傍に来てくれた。そうしてホークスの肩にこてんと頭を乗せる。彼女の髪が頬を掠めた瞬間、ホークスは細い体をもっと自分に引き寄せるように抱き締めた。控え目ではあるが亜希の腕も自分の背中に回されたので、安心する。
同時に、こんな気まずい時間は一刻も早く終わってほしいと思い、ホークスはハッキリ言おうと言葉を続けた。


「…亜希さん、やっぱり怒ってる?」

「え」

「だって、俺のこと避けてるでしょ」


抱き締める腕に力を込めて言うと、亜希は「痛いよ」と小さな抗議を口にした。それでも緩める気にならなくて、ホークスは亜希を離さないまま、弱弱しい声を上げる。


「…本当にごめん、嫌だったよね」

「…啓悟、」

「でも…避けないでよ。せっかく会えたのに…こんなん寂しい」


ホークスの言葉を聞いた亜希が腕の中でゆっくりと顔を上げたので、視線を合わせた。大きな漆黒の瞳には、戸惑いと焦りの色が浮かんでいる。


「あの…ごめん、…避けてたつもりは、なくて」

「嘘。絶対避けてた、俺が近寄ったら逃げてたもん」

「本当に、そんなつもりは…」


ホークスの少しだけ責めるような口調に亜希は語尾を弱めて、また俯いた。長い睫毛が影を落とす表情はやはり憂いを帯びているのに、彼女はそれ以上何も言ってはくれない。思っていることがあったら言ってほしいのに、言ってくれないと分からないのに。こんなにも近くにいるのに何故だか亜希が遠く感じる。
煮え切らない態度の亜希に我慢の限界を超えたホークスは、一瞬の隙をついて、目を伏せたまま黙る彼女の唇に触れるだけのキスを落とした。


「…ん、」


啄むような、短い口付け。角度を変えながら何度も重ねていくと、閉ざされていた赤い唇が徐々に開いていく。ホークスは彼女の口内に割り込むように舌を侵入させて、久しぶりの亜希を味わい続けた。


「っ、ふ、…んぅ、」


必死に酸素を取り込もうと声を上げる亜希を無視し、その吐息ごと、自分の思うがままに気の済むまで貪っていく。そのままソファーに押し倒そうとした時、軽快な音楽と共に『お風呂が沸きました』という無機質な音声が聞こえて、思わずキスを中断。この場の雰囲気に不似合いな音がなんだかおかしくて、至近距離で見つめ合ったまま笑った。
しばらくして、亜希は赤い顔のままホークスを上目遣いで見やり、小さく口を開く。


「…あ、あのね」


やっと話してくれるのか。ホークスは静かに「うん」と頷き、言葉の続きを待った。


「…本当に、怒ってないし、避けてたつもりもなくて…ただ…」

「…ただ?」

「私…貴方に不釣り合いだな…って」

「へ?」


予想外の言葉にホークスがマヌケな声で聞き返すと、亜希は視線を彷徨わせた後に小声で続けた。


「だ、だって…私…女らしく、ないから」

「え…?ん?」


今、彼女は何と言った?女らしく、ない?ポカンと口を開いたまま固まるホークスに亜希は早口で「体には傷痕いっぱいあるし」だの「目付き悪いし可愛くないし」だのと捲くし立てた。
思ってもみなかった言葉の羅列にホークスの思考は停止しかけたのだが、言い切った亜希がまた俯いてしまったのでハッとし、慌てて彼女の名前を呼ぶ。


「亜希さん…待って、何言ってるのか…ちょっと分かんないだけど…」


亜希を覗き込むと、俯く彼女と目が合った。恥ずかしいのか、さっきよりも頬が赤くなっている。揺れる髪から一瞬だけ見えた耳まで真っ赤っかだ。そんな亜希は視線を泳がせて、更に小さな声で、


「そ、れに…私、小さいから」


と呟いた。なんのことだかサッパリ分からないホークスが「何が?」と聞くと、数秒の沈黙の後、「……胸」と一言。


「………………え?」


青天の霹靂とは、まさにこのことか。ホークスは頭をフル回転させて、彼女が言った言葉の数々を脳内で整理する。そうして導き出された答えに思わず頬が緩んだのは仕方ないだろう。彼女は勘が良いくせに、どうしてこんな可愛らしい勘違いをするのか。


「…亜希さん、もしかして、あの女の子と自分のこと比べてる?」


返事をしないまま目線を逸らすのが何よりの答えである。先程から何度も俯いていた彼女は、ただ自分の胸を見つめていたのだ。ホークスが熱愛報道された相手は確かに巨乳で、さらにあの写真では不本意だったが腕に胸を押し付けられている。どうやら亜希は本当に怒っている訳ではないようだが、それにしても。

目の前で焦りまくっている彼女が心底可愛くて、いじらしくて。ホークスは優しい口調で話しかけた。


「…俺と不釣り合い、なんて、そんなことある訳ないでしょう?」

「で、も…」


すっかり熱くなった彼女の頬を両手で包み、視線を合わせ、ごにょごにょ何かを呟く亜希の鼻先にキスをした。目を真ん丸にして固まる彼女は、驚きと照れで口を閉じる。


「亜希さんは世界で一番可愛いよ。亜希さん以上の人なんていない」

「え…いや、あの…」

「こんなに真っ赤になって、焦っちゃって。亜希さんの照れてる顔、ホント好き」

「…な、なな、何言って、」

「あと胸のこと気にしてるみたいだけど、心配ないよ。俺は亜希さんだったら何でもいいから」


本心だった。そんな身体的要因はどうでもいいのだ。彼女が彼女であるから好きになったのであって、胸の大きさで決めた訳ではない。それに、あの女の子に比べたら確かに大きさは劣るかもしれないが、亜希だって胸の膨らみはあるし、形も、それに何より感度が抜群に良いことをホークスは知っている。


「傷痕もさ、痛い思いとか怪我とかは出来るだけしてほしくない。でも、…もし全身が傷痕だらけになったとしても、亜希さんは誰よりも綺麗だ」

「…啓悟、」

「俺が好きなのは亜希さんだけ。キスしたいのも、触れたいって思うのも亜希さんだけ。これは絶対に変わらない」


気持ちという曖昧で不確かなモノに“絶対”なんて言うべきではないのかもしれない。けれどホークスにとって亜希は、たった一人の大切な存在で。彼女と過ごした時間はまだ短くとも、これからもずっと一緒にいたいと思った唯一の人なのだ。


「…」

「…だから、何も心配しないで。…って、あんな写真撮られた俺が言えた立場じゃないんだけどさ」


亜希を不安にさせて、余計な心配をかけて。挙句の果てにしなくていい自己嫌悪までさせてしまい、ただ申し訳なかった。しかし、その全てが自分のことを想ってくれるがゆえに抱いた感情であることが嬉しいのも、また事実。ホークスが眉毛を下げて笑うと、亜希も同じように笑う。やっと見れた彼女の安心したような笑顔は、ホークスが大好きな表情だった。


「…あの、啓悟」

「ん?」

「何してるの?」


再び抱き寄せながら、彼女が身に纏うTシャツの裾から手を入れた瞬間。亜希が赤い顔のまま鋭い視線を向ける。それには気付かないフリをして一気に薄い布を捲し上げようとすると、亜希は慌てて阻止しようと腕で服を押さえた。


「手どけて。脱がせない」

「な…もうお湯湧いたし、先にお風呂入ってきてよ」

「何言ってんの。一緒に入るんですよ」


せっかく久しぶりに会えたのだ。誤解というか…モヤモヤも晴れたことだし、片時も離れたくはない。
抵抗する彼女の腕を無理矢理どかせて服を一気に脱がすと、黒いキャミソールの横…細い左腕の上腕に歪に巻かれた白い包帯が目に入った。中心部分は僅かに赤黒く滲んでおり、ホークスは驚きながらもすぐに包帯を解く。現れたのは、およそ日常生活では負わないような深い切り傷。瘡蓋になりかけてはいるものの完全には塞がっておらず、傷の周囲も赤く腫れていた。


「…これ、掠り傷なんて言わない」


ホークスは呟きながら、急いでソファーの下に転がっているヒーローコスチュームのジャケットを手繰り寄せ、ポケットの簡易救急セットから塗り薬を取り出し亜希の腕を掴む。ヒーロー殺しと戦った代償としては軽いものかもしれないが、それでも大きくて痛々しい傷だった。亜希は見られたくなかったのか気まずそうに黙りながらも、今更隠すことは出来ないのでされるがままになっている。


「…なんでこんな雑な手当てなの?」

「…止血さえすれば大丈夫かな、って」

「…」


ホークスは呆れて何も言えなかった。以前、彼女が痛みには強い方だと言っていたことを思い出す。だからと言って、こんな生傷を適当な処置で済ませるなんて。
指に取ったジェル状の薬を出来るだけ優しく塗り込んでいると亜希の眉間に少しだけシワが寄った。もちろん、それをホークスが見逃す訳がない。


「痛いんでしょ」

「…ちょっとだけ」

「ちょっとって…あのね亜希さん。俺は亜希さんに傷痕があってもなくても何でもいいけど、それとこれとは違う」

「…」

「もっと自分を大事にしてほしい。こんなんじゃ治るものも治らないよ」


少しだけ語尾を強めてながら大きめの医療用防水保護テープを傷に貼ると、亜希は肩を竦めながらも小さな声で「…ありがと」と言った。ホークスは溜め息を吐き、キャミソールのみの上半身を見る。華奢な白い体の左肩には相変わらず目立つ傷痕があり、彼女は左半身にばかり傷を負っているなと頭の隅で思った。


「…他は?小さな怪我とかも全部教えて」

「もうないよ。腕だけ」

「ホント?」

「うん」


首を縦に振る亜希だがどうにも信じられず、疑いの目でじいっと見つめる。「ホントだってば」と慌ててドギマギしているのが余計に怪しい。ホークスは細い体をトンと押してからソファーに乗り上がり、緩やかに押し倒した彼女に跨った。そうして大真面目な顔で、


「…見せて、全部」


静かに一言。この目で実際に確認するまでは安心できない。だって彼女は痛みに強く、自分の怪我には鈍感なのだから。

一瞬で見下ろされる形になった亜希が制止の言葉を発する前に、ホークスは黒いキャミソールの肩紐に手を伸ばした。



20201128


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