幸福の温度

『ルリ…?』

アドルフは背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。心臓は徐々にそのリズムを乱し始め、頭の中には様々な言葉が浮かんでは消えを高速で繰り返す。
確かにここにいたはずのその姿は、何処にもなかった。
アドルフの大切な小鳥。
本当ならアドルフの姿を見た瞬間に顔を輝かせて走り寄ってくるはずの彼女は、今までアドルフの言いつけを破ったことなど一度もない。
アドルフは確かに「ここで待っていろ」と言ったのだ。ルリはアドルフの目をじっと見つめて頷いていた。
ルリが勝手にいなくなることはありえない。
アドルフの頭には明滅する数多くの言葉の中で、“誘拐”の二文字だけが異様な存在感を放っていた。しかし、それに対する疑問も絶えず浮かんでくる。
なぜ?――誰が?――こんな所で?――U-NASAの関係者か?――どこへ?――いや、もしかしたら部屋に戻っているかも――いや、それはありえない………。
混乱している頭を抱えながらも、アドルフの足取りはしっかりしていた。
声を張って名を呼びながら、ルリの居そうな場所を一つずつ見て回る。
…しかし、大切な小鳥は見つからなかった。
アドルフの索敵能力は、この状況では役に立たない。特定のものを探すのではなく、そこに“何か”があるのを探知する能力だからだ。
…もう一度だけ、探してみよう。もしそれでもだめだったら…。
アドルフは未だに整理のつかない頭のまま、踵を返して歩き始めた。


     *     *     *


『ルリ、ちょっといい?』
『?…こんにちは、えヴぁ』

きょろきょろと周囲の様子を窺いながら、エヴァはそっとルリに近づいた。
見知った顔にルリが警戒することは無いが、その動きはかなり挙動不審で怪しい。
ルリはアドルフに教えられた通り、知っている人(エヴァ)に挨拶をしたが返事が返って来ることはなさそうだ。

『一緒に来て欲しいの』
『だめ。あどるふがここにいろって言った』

ルリの即答にエヴァは焦った。
アドルフのいない隙を見計らって声を掛けたにも拘らず、肝心のルリは言うことを聞いてくれそうにない。
この作戦にルリは不可欠だ。
エヴァは心を奮い立たせ、頭をフル回転させる。ドイツ班のメンバーで密かに立てられた大事な計画を、無駄にするわけにはいかないのだ。

『(ルリは確か、日本のものが好きだった……だめ、嘘だと知ったらルリが泣いてしまうかもしれない。そんなことになったら、全部ぶち壊しだわ。…ルリに本当のことを話したら…分かってくれるかな…?)』

エヴァに迷っている時間など無かった。アドルフに見つかってしまえば全てが水の泡。そうなる前に、ルリを連れ去る必要があった。それも、無理やりではなくルリの同意の上で。

『ルリ、私の話を聞いて。実は――…』

エヴァの言葉をじっと聞いていたルリは、やがて嬉しそうにこくりと頷く。
こうしてアドルフの大切な小鳥は自らの意思でその場を去った。


     *     *     *


『ルリ…!!』
『!あどるふ、』

アドルフがルリを探し同じ道を二度目に辿り始めていた時に、ようやく二人は会うことが出来た。
扉の横で壁に凭れて立っていたルリは、大好きな人物の姿を視界に入れると嬉しそうな笑みを見せる。
ルリが立っていたのは、食堂の前だった。

『なんでこんな所にいるんだ。待っていろと言っただろう』

アドルフは安堵のため息と一緒に優しく言い、自分を安心させるためにルリを抱き締める。
   くい、

『ルリ?』

   くい、くい、

『どうした?行きたい所でもあるのか?』
『…』

ルリは真っ直ぐな瞳でアドルフを見つめ、その手を無言で引く。アドルフは怪訝な顔をしながらも、引かれるままに進んだ。ルリはアドルフの手を握ったまま、食堂の中へと入って行く。中は暗闇だったがルリは迷わず歩を進め、アドルフはますます怪訝に思いながらも従って歩いた。
   パパパンッ

『!!??』

瞬間、高い破裂音が複数回響き、アドルフは驚きのあまりぴたりと動きを止める。
すぐに食堂の電気が点けられ、視界は一気に明るくなった。

『『『班長、誕生日おめでとう!』』』

室内に並んでいた班員たちが笑顔でアドルフを迎え、いつの間にか手を離していたルリが花束を抱えて歩み寄ってくる。

『おめでと、あどるふ』

呆気にとられつつもルリに合せてしゃがみこんだアドルフの手に花束を強引に握らせたルリは、隠されて見えない口の代わりに鼻の頭にキスをする。

『言いつけを守らなかったこと、怒らないであげてください。ルリはちゃんとダメだと言ったんです』

エヴァはルリがいい子だったことをちゃんとアドルフに説明した。
最初は首を横に振ったことも、アドルフの誕生日だと知ると協力してくれたことも、料理や飾りつけを手伝ってくれたことも。

『…そうか』

アドルフはルリの頭を優しく撫でて目を細めた。

『ありがとな』

一言。アドルフの発した言葉の音量は小さかったが、班員に向けられたその言葉は彼らにとってとても価値のあるものだった。


幸福温度


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