飛び出す絵本の幻想

「アドルフ、本当に大丈夫か?」
「問題ありません。お願いします」

ルリの知らないところで交わされる、秘密の会話。


     *     *     *


ルリの要望で小町に作り方を教えてもらい作った刺身。…アドルフは見事にお腹を壊した。

『あどるふ、大丈夫?』

心配そうにベッドの横へ寄ってきたルリは、先程まで小町やミッシェルと共に片づけを手伝っていた。
日本人の小町はさておき、ルリやミッシェルも平然としているのは何故なのか、と言うアドルフの疑問は、ルリの後から部屋に入って来たミッシェルによって解決される。

「以前にも何度かルリの希望で日本の生魚を食ったことがあるんだ。あれは、苦手な奴は本当に食えないからな」
『…あどるふ、』
『大丈夫だ。心配すんな』

首に抱きついてきたルリを、慰めるようにトントンと叩く。アドルフにすっかり懐いた様子のルリに、ミッシェルは少し驚きながらも優しい眼差しを向けた。

「アドルフ、大丈夫か?」

様子を見に来た小町の手には胃腸薬と水。アドルフは礼を言って受け取ると、それを飲んでからルリに向き直った。

『寝る用意をしてから、好きな本を持って来い。読んでやるから』
『分かった!』
「私の代わりに寝る用意を手伝ってやってください」
「まかせろ」

アドルフが英語で頼むと、ミッシェルは親指を立てて頷いた。

「…30分でいい」
「了解」

すれ違いざま、小町の呟きのような言葉に真剣な顔で返事をし、ルリと共に部屋を出るミッシェル。
二人の声が聞こえなくなった頃、小町はゆっくりと息を吐いて笑った。

「ルリの扱い上手いな、アドルフ」
「慣れてきただけです」
「…お前が苦情の一つも言わないから、すっかり遅くなって悪かったな。どうしても日本に帰らなきゃならねえ用があったんだ。けどもう落ち着いたし、ルリは連れてくよ」
「…私なら大丈夫です。ルリはドイツ語の方が話しやすいみたいですし、戻るとなればまた駄々をこねるでしょう」
「親戚の子供を預かるのとはわけが違うんだ」
「分かってます」
「お前がルリの何を知ってるんだ、アドルフ」
「…何も知りません。資料で読んだことしか…。それどころか、同じ食事を同じように美味いと言うことも出来ない。…それでも、傍にいてやりたいんです」

…アドルフとルリは“似ている”ところはあるが“同じ”ではなかった。両親を失い体を痛めつけられた過去はどちらも持っているが、一時とはいえ、アドルフには“幸福な時間”があった。それは、ルリにはない“救いの手”でもあった。
小町はアドルフを見つめたまましばらく何も言わなかった。
アドルフも小町を見つめ返したまま目を逸らさなかった。

「……悪かった、アドルフ。少し言い過ぎたな。けど、半端な気持ちでルリと過ごされても困るんだ。だから、少し試させてもらった。渡した資料は読んだな?実は、あれには書いていないことがいくつかあるんだ」
「…まだ、何かあるんですか」

アドルフは資料に綴られていた凄惨な言葉の数々を思い出す。
ルリが4歳の頃からずっと、人体実験は行われていた。何度も生死の境を彷徨ったということを匂わせる記述もあった。半年前にU-NASAに“引き取る”という形で助けられるまでの12年間、想像するもの憚られるような非人道的な行いを、ルリはその小さな体に受け続けていた。
これ以上、彼女に何があると言うのだろう。

「…ルリは…施設の野郎どもに………強姦されていた」
「!」
「…ルリが14の頃らしい。そいつらは懲戒免職になったが…その時すでに、ルリは三ヶ月だった」

何が、まで言わずとも示すものは一つしかない。分かるのは、三ヶ月以上前からずっとルリの身体は嬲られ続けていたということ。

「…そいつらは、今、」
「落ち着けアドルフ。気持ちは分かるが……オレだって正直、ボコボコにしてやりたい。でも、無理だ。指一本、触れることすら」
「…どういう事ですか」
「…死んだんだ。そいつら全員。アナフィラキシーによるショック死だそうだ。体内から検出されたのは全員同じ毒だった」
「……まさか、」
「いや、死体には何かに刺されたような跡は無かった。ただ…毒の侵入経路が妙な所でな、医者たちは首を捻っていたらしい」
「“妙な所”?」
「…尿道だ」

…皮肉なことに――いや、因果応報と言ったところだろうか――彼らは自分たちの研究していた生物兵器の最初の実験台になったのだ。
当時、M.O.手術は既にある程度確立していた。未完成だったのは、ルリの方だ。

『…あどるふ、』
『!………すごい量だな』

扉が開き、入って来たルリとミッシェルの腕には大量の漫画があった。もちろん、日本のものをドイツ語に訳したものだ。

「全部持ってくると言って聞かなかったんだ」

苦笑するミッシェルは、ドイツ語など分からなくともアドルフの表情から読み取ったらしい。

「ルリはいい子だったよ。少し落ち着かなかったが、多分お前が心配だったんだろう」
「…よし、オレたちは帰ろっか、ミッシェルちゃん。…痛い!」
「明日は会議の予定もない。ゆっくり休め、アドルフ。…ルリに夜更かしはさせるなよ」

二人はそれぞれルリに「Good Night」と言ってから部屋を出ていく。残った二人はいつものように寄り添ってベッドに潜り込んだ。

『(…漫画って…読み聞かせに向かないだろ…。効果音とか、どうすればいいんだよ…)』

ページを開いたアドルフが密かに頭を抱えたのは、誰も知らない心の叫び…。


飛び出す絵本の幻想

(紙という枠は超えられない)


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