涙の影のスケッチ
『艦長の所に用があるんだ。一緒に行くか、ルリ』
『行く』
こくりと頷いたルリの手をしっかりと握り、アドルフは部屋を出る。
アドルフは正直、不安だった。
ルリと初めて会ったとき、小町はとても大変そうだったからだ。もし何か騒ぎを起こされたら、と考えると部屋に一人で待たせておいた方がいいようにも思えるが、ルリはアドルフから離れようとしない。
食事も必ず一緒に取ったし、寝る時もアドルフにしがみ付いて離れず、入浴時ですら一人きりになることを嫌がった。
そんなルリを部屋に一人にさせるのは至難であると同時に、気がかりなことでもあるとアドルフは思っていた。
『…ルリ』
『…?』
…しかし。アドルフの心配は杞憂に終わった。
ルリは大人しくアドルフの手を握りながらついてきた。犬の散歩をしているかのように小町を振り回していたのと同一人物とは思えないほどに大人しい。もしかすると気分が悪いのかもしれないと思いアドルフが声をかけると、真っ直ぐな瞳が見上げてきた。…特に問題はなさそうだ。
アドルフは不思議に思いながらも、艦長室へ続く通路をいつもより少しだけゆっくりと歩いていく。
* * *
「よ、アドルフ。ルリも一緒に連れて来たのか。…ルリ、元気か?」
「ルリ、何かあったらすぐに言え。私がそいつを殴り飛ばしてやる」
艦長室には小町の他にミッシェルもいた。ルリに笑いかけ指の関節を鳴らす彼女に、アドルフは顔を引きつらせる。
しかしルリは首を横に振り、ミッシェルから庇うようにアドルフにしがみ付いた。
『あどるふを苛めないで!』
「…アドルフ、なんて?」
とっさにルリが発したドイツ語に、小町が通訳を求める。
「…オレを苛めるな、だそうです」
アドルフが躊躇いつつも伝えると、小町とミッシェルは互いに顔を見合わせて驚いた表情をした。アドルフはそんな二人の視線を一身に受け、いたたまれない気分になる。ルリは、未だにアドルフにしがみ付いたまま、不安げにミッシェルを見上げていた。
「……ルリ…アドルフのことが好きか?」
ミッシェルはゆっくりと、ルリの目線にしゃがみこんで問う。
「あどるふ、好き」
「…そうか」
こくりと頷いたルリと、その頭をくしゃくしゃと撫でるミッシェルは、年の離れた姉妹のようだとアドルフは思った。
「……アドルフ、話がある」
二人のやりとりを見守っていた小町が、咳払いを一つして真面目な顔つきでアドルフに向き直る。
ミッシェルが空気を察してルリを部屋から連れ出そうとするが、ルリは嫌がった。
『あどるふ、』
『艦長と大事な話をするんだ。終わったら一緒に帰るから、それまで待ってろ』
『…ここで待ってる』
『ルリ、言うことを聞け』
『…』
アドルフの服の裾を掴んで放そうとしないルリに、アドルフは根気強く言い聞かせようとする。…結局、無言で涙を浮かべ始めたルリに折れたのは、小町だった。
「分かった!アドルフには書類だけ渡しておく!!だから泣くなルリ、な?」
アドルフは、小町がルリが泣くことを恐れているように見えた。
小町はアドルフに書類の入ったファイルを渡し、「何かあったら聞きに来い」とだけ告げる。
ルリと自室に戻ったアドルフは、小町から渡された資料を見てその顔を曇らせるのだった。
「(“ドイツで12年間に渡る、人体実験…”?)」
涙の影をスケッチする
(くっきりと、消えないそれ)
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