天使の羽は腐らない

アドルフはずっと服の裾を掴まれたままの違和感が気になるので、「手を繋ごう」とルリに提案した。が、ルリは無言で首を横に振る。
先ほど小町と歩いていた時は特に目的があった訳ではないらしく、その旨のことを尋ねてもルリは首を傾げるのみ。
仕方ないのでアドルフは与えられた本部の自室に戻ることにした。

「…」

アドルフがデスクワークをしている間、ルリはとても大人しかった。
部屋の中の物を珍しそうに見て回ってはいたが、暴れたり騒いだりする様子はない。それどころか、声一つ発しなかった。

「(これのどこが目を離せないんだか…)」

確かに見た目の割にルリは少し幼いように思う。しかし、小町が見張っていなければならないほど問題があるとは、アドルフには思えなかった。
時折様子を窺うようにルリを見るが、ルリはアドルフの視線に気づくとじっと見つめ返してくるだけで、特に変化はない。
問題がないのなら越したことはないと思い直し、仕事に戻ろうとしたアドルフだが、ルリが退屈そうにしているのを見て声をかけた。

「文字は読めるか」
「…英語…読めない…分からない」

小町の言っていた“英語が上手く話せない”というのは本当らしい。先程ドイツ語を話した時とは打って変わり、ほぼ単語しか話せていない英語で答えるルリ。…英語で聞かれた問いには英語で答えろという躾でもされているのだろうか…。
ドイツ語なら読めるかと聞くと読めると答えたので、アドルフはドイツ語で書かれた小説を手渡した。

『オレはまだ仕事がある。大人しくしてろ』

ちゃんと伝わるようにとドイツ語で話すと、ルリはアドルフを見つめ、こくりと頷いた。


     *     *     *


『……あどるふ…?』

ルリは室内を見回し、自分の状況を確認した。
小説を渡され、読んでいたのは覚えている。それからいつの間にか眠ってしまったらしい、とルリは考えた。読みかけの小説はベッドの横のサイドテーブルに置かれている。
匂いが強く残っているから、恐らくここは彼が使っているベッドルームだと考え、ルリはそっと耳を澄ませた。
…この部屋には扉が二つ。室内に人の気配は無い。
向かって左手にある扉から、ほんの微かだが音がした。

『…あどるふ…?』

ルリはもう一度だけ求める者の名を読んで、そっと扉に手をかけた。


     *     *     *


アドルフは頭からお湯を浴びながら、自分の手に残る感触を握り締めた。
…ルリを抱き上げた時の、温かさ。そしてあの穏やかな寝顔を見て感じた違和感。
アドルフには、その瞬間自分に何が起こったのか分からなかった。

「…」

お湯を止めたところでふと、扉の向こうに何かがいるのを感じ、アドルフは感覚を研ぎ澄ませる。ルリが起きたのかという考えが頭を過り、少しだけ強張った体の力を抜き、それでも警戒を解かずに扉を開けた。

「…何してるんだ」
「…あどるふ…」

脱衣所の床にぺたりと座り込み、アドルフを見上げるルリ。心なしか、安心したような表情を浮かべているようにも見える。
アドルフはそんなルリの様子に内心首を傾げたが、すぐに我に返り自分の今の格好に気付いた。

「…すぐに戻る。向こうで待ってろ」
「…や、」
「何かあったのか?」
「あどるふ、いない…」

今アドルフが身に纏っているのはバスローブ一枚。顔の傷は隠れない。アドルフは、ルリがこの傷を見て怖がるのではと思っていた。しかしルリは、単語ばかりの英語で首を横に振るのみ。やれやれとため息を吐いたアドルフが「来るか?」と両手を差し出すと、ルリは応じるように両手を伸ばしたのでそのまま抱き上げた。

『…あどるふ、』
『何だ』
『これ、痛い?大丈夫?』

アドルフの腕に抱かれたルリが、その手をぺたりとアドルフの頬に添えて悲しそうな顔をする。

『(…心配、しているのか…)…昔の傷だ。今は何ともない』
『…よかった』
『…怖くないのか』
『…ない』

アドルフの問いに不思議そうな顔をして首を横に振ったルリは、すんすんとバスローブの匂いを嗅いでから、甘えるようにアドルフの胸に頭を預けた。



天使の羽は腐らない

(汚れることなく、清らかに)


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