シンデレラの魔法をかけて

ゆっくりと立ち上がるアドルフをルリは心配そうに見つめる。ゆらゆらと揺れる瞳はまだ悲しみと恐怖に潤んでいるが、零れ落ちる滴なかった。

『…薬は持っているか?ここに来るときに渡しただろう』
『…、』

アドルフの問いに、ルリが差し出した右手。その中心に、小さな白い粒が一つ。

『…それを飲め』
『……、…っうぅ…』

アドルフに促され、おずおずと白い粒を口に入れたルリ。小さな口の中で小さな白が奇妙な甘さと匂いを残して消える。
身体に吸収された薬が血中をめぐる感覚に、ルリは小さく呻いた。
人為変態によって作り替えられていくルリの細胞。ざわざわと身体を巡る薬は、小さな背中から瑠璃色の触手を生やし、焦げ茶色の髪を白と紫に変えた。

『…ルリ、大丈夫か?』
『…っや!……さわっちゃだめ…』

両腕で自分を抱きしめるようにして身体を強張らせているルリに、アドルフが手を伸ばす。ルリはその手が届くより先に跳ね退き、怯えた目でアドルフを見た。垂れた触手が髪とともに揺れ、長い瑠璃が白い床を引きずる。
…ルリは、自分が人を殺せる毒を持っていることを知っていた。まだ色褪せない記憶の中、自分の中に種を植えつけた男たち。彼らが全員同じ毒で死んだことを、ルリはU-NASAに引き取られてから知った。詳しいことは分からない。ルリは大人たちが話していたのをたまたま聞いただけ。それでも、彼らの死に自分が関わっていると気づいてしまった。申し訳なさは感じない。しかし、人を殺せるという事実はルリに必要以上の恐怖を植えつけた。男たちがルリのお腹に残した種は取り除けても、彼らの死が残した恐怖は拭えない。
…しかし。アドルフは知っていた。ルリの人為変態は既に完成し、その毒は今は触手にしかないことを。自分の特性が仲間を傷つけてしまうかもしれない恐怖はアドルフも理解している。ルリの持つ毒の危険性も。…それでも。必要以上の恐怖に怯える幼い身体を、少しでも支えたいと願う。自分に、それができるなら。

『…ルリ、…大丈夫だ』

ゆっくりと手を伸ばし、ルリの頬に触れたアドルフ。ぴくりと跳ねた小さな肩が、薄緑の瞳を見上げる。淡い緑は、薬によって紫に染まった揺れる瞳を見つめた。

『……あど、るふ…』
『…お前の毒は、そこにしかない』

そこ、とアドルフが指すのは床に垂れる瑠璃色。ルリが意識したのかそうでないのか、長い触手は水に浮いたように宙で揺れた。

「……じ、」

ゴキブリは、姿が変わったルリを観察しているようだった。しかし、様子を見るように見つめていた黒い影は触手が動いたことでその態度を変える。先手必勝、とでも言うように今度こそはとルリ目がけて向かってきた。

『っ、』

ルリが声にならない悲鳴を上げるのと同時に、長い瑠璃がいくつも黒い身体を貫通する。…本来なら体長10センチ程度でも人にダメージを与えることができるカツオノエボシ。それを人間のサイズにし、毒の威力も触手の大きさに比例させた。
キィキィと叫ぶ体は宙でもがくだけ。刺されたときの痛みが体に電流を流された感覚に似ているため、「電気クラゲ」とも呼ばれるカツオノエボシ。
…しかし。
ゴキブリに痛覚はない。どれだけ激痛が走ろうと、その黒い身体が動きを止めることはないはずなのだ。けれど、ルリの触手に貫かれた黒は今や完全に動きを停止し、叫び声だけが白い壁に反響する。
ゴキブリには痛覚がない。そこでルリの毒には、研究の段階で麻痺させる成分が混ぜることが決まった。少量なら動きを封じることはできないが、何本もの触手に貫かれた目の前のゴキブリには十分すぎる量だった。
未だにキィキィと叫んでいるゴキブリは、その声に反してぴくりとも動かない。ルリが触手を下ろし黒い身体が床についてもそれは変わらなかった。
…ルリの特性は、“ゴキブリを生け捕りにする”という目標に適している。ただし、戦闘力としては低いため、一度にたくさんのゴキブリに襲われては対処できない。
   バンッ

「無事か、ルリ!」
『!…みっしぇる…』

大急ぎで入ってきたミッシェルは、手際よくゴキブリに網を放ち駆け寄ってくる。

「怪我はないな?」
「…うん」
「よくやった。もう大丈夫だ」
「うん」

ルリは強張っていた顔の緊張を解き、アドルフの手を握ってミッシェルに頷く。
…ルリの心が落ち着きを取り戻したのは、ほんの一瞬でしかなかった。

『!…あどるふ…?』
「おい、アドルフ!!」

アドルフと繋いでいた手が引っ張られルリが隣を見上げるのとほぼ同時に、アドルフはその場に崩れ落ちた。ミッシェルが慌てて駆け寄るが、アドルフの返事はない。
数分後、わらわらと入ってきた大人たちに運ばれていくアドルフ。ルリは力なく座り込み、声もなく涙を流すだけだった。



     *     *     *


…アドルフは肋骨を折る重傷ではあったものの、命に別状はなかった。まだ麻酔が切れていないため眠っているが、じきに目覚めるだろうと医師は言っていた。けれど、ルリには医師の話す難しい英語がわからない。ミッシェルや小町が何を言っても、アドルフの傍を離れようとしなかった。

『……あどるふ…』

心配そうに顔を覗き込んでアドルフの鼻先にキスをするルリ。いつもなら返ってくるはずの――何もしなくてもしてくれるはずのキスが、今はない。
当たり前にあったものがなくなった時の何ともいえない寂しさは、ルリの心をひどく不安定にさせる。じわじわと滲む涙。決壊寸前の目は何時間経っても乾かず、泣いてはすり寄りべそをかいてはアドルフを呼ぶルリの心を映しだしている。
時間はもうすぐ日付を変えようとしていた。ゴキブリと戦ってからずっと泣いてばかりのルリの瞼は、重力への抵抗を忘れつつあった。ルリはぐすぐすと鼻をすすりながらアドルフの手元へ顔を寄せる。

『………ルリ…?』
『!…あどるふ、』

…ふっと目を覚ましたアドルフ。ルリは眠気も忘れて跳ね起きる。薄緑の瞳が開いていることを確認すると、溢れそうだった湖は落ち着きを取り戻し嬉しそうな三日月を浮かべた。


シンデレラの魔法をかけて
(無茶なわがままなのは知っている)


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