透明な言葉に愛を

ルリがアドルフに懐いたおかげで取ることのできたデータ。それを見たU-NASAの上層部は、小町にある指示を出した。

「…無茶です。ルリを殺すつもりですか」
「オレも反対はしたんだが…“代わりはいくらでもいる”だとよ」
「……」

小町から伝えられた指示を聞き、アドルフは声に怒りを込める。U-NASAの上層部が出した指示…それは、ルリに単独で捕獲訓練をさせろというものだった。
体力面以外のほぼすべての項目で優秀だったルリのデータを見て、どのくらいテラフォーマ―たちと渡り合えるのか調べるのが目的なのだろう。

「まだ精神面に問題がある、とも言ったんだが…聞く耳を持ちやしねえ」
「……なら、オレもルリに付き添います。薬は持ちません。…上にそう言ってもらえますか」
「おい…死ぬぞアドルフ」
「心配いりません」

アドルフは強引に話を終わらせ、部屋の隅でミッシェルと遊んでいたルリに声を掛ける。話の内容の気にしすぎ上の空だったミッシェルに退屈していたルリは、嬉しそうにアドルフに飛びついた。

『お話し終わったの?帰れる?』
『ああ。放っておいて悪かったな』

自然な動作でルリを抱き上げ部屋を出ていくアドルフ。すっかりアドルフに懐いたルリと優しい眼差しを向けるアドルフは、親子か兄妹のようで微笑ましい。
しかし小町もミッシェルも、そんな二人の後姿を険しい表情で見送っていた。


     *     *     *


『あどるふ、これ何?』

ルリがしげしげと見つめるのは、手のひらに乗せられた白い錠剤。風邪薬のようなサイズのそれは、ルリの身体に人為変態を促す特殊な薬。即効性を重視しつつもルリが飲みやすいようにと作られたそれは、口の中で溶けてすぐに吸収されるラムネタイプ。しかも甘く味をつけられている。

『…薬だ。黒い大きな化け物を見たことがあるだろ。それと戦う前に飲め』
『…?』

初めて入る部屋に連れてこられ、入った部屋の奥にはまた扉。途中まで一緒だった小町とミッシェルは、険しい顔つきでこの部屋に入る前にどこかへ行ってしまった。何やら二人はここに来るまでアドルフと話していたが、小声で早口の英語を話していたためルリには理解できなかった。そもそもルリに聞かせたくない内容だったのだけれど。

『……行くぞ』

アドルフに手を引かれ、ルリは訳も分からぬまま部屋の奥の扉へと進む。取手も何もない平らな扉は、その前に立つと自然に開いた。


『…あどるふ?』

舌足らずな発音でルリがアドルフを呼ぶ。
進んだ扉の先は、殺風景な広い空間だった。白い壁と床。窓はなし。高い高い壁の天井近くに、横長の大きな鏡がある。もちろん、あんなところに映りこめるような背の高い人なんているわけがない。どれだけ頑張ってジャンプしても、むり。

『…ルリ、薬を飲め』
『…?』

ルリがきょろきょろと部屋を見回すのに対し、アドルフは険しい表情を変えずただ一点のみ、壁と同じ色をした部屋の奥の扉を見つめていた。そしてその姿勢を崩さずに、低く静かな声でルリに言う。

『…!』

未だに状況を理解できないルリは首を傾げたその時、アドルフが見つめていた扉が音もなく開いた。アドルフの険しい顔が、さらに険しくなる。ルリは戸惑いの表情を浮かべて、口を掛けた部屋の奥を見た。
暗闇の向こうで、人影が動いたように見えた…刹那。

『…っ、』
『………あ…ど、る…っ』

ルリの隣にいたはずのアドルフは、数メートル後ろへ移動していた。その横には、人の形に近い黒いモノ。
ルリを狙って突進してきたゴキブリ。アドルフはいち早くそれに反応し、ルリを庇って黒い突進をその身に受ける。腕でガードはしたものの、その勢いに数メートル飛ばされてしまったのだ。ルリは驚いて目を見開くが、声は震えてうまく出せない。

『…ルリ、薬を飲め』
『………ぁ……あど、るふ……や…、』
『ルリ――』

   ダァ…ン
アドルフの言葉が途切れ、その体が白い壁に叩きつけられる音が部屋の中で反響する。アドルフを突き飛ばした張本人は、じっとルリを見つめていた。
そもそも最初に狙われたのはルリの方。アドルフが素早く反応していなければ、ルリの小さな体は今ごろ人形のように転がっていただろう。

『…あど、るふ……大、丈夫…?』

困惑するルリの頭の中は壁に叩きつけられてぐったりとするアドルフのことでいっぱい。ルリの小さな頭を潰そうとする黒い影のことなんかちっとも見えてない。ふらふらと震える足で少しずつ進み、壁に凭れるアドルフに歩み寄っていく。
アドルフとルリのちょうど中間に、ゴキブリ。黒く丸い無表情な目が、ゆっくり歩いてくるルリを狙っている。

『…ルリッ…!』
『…!』

痛みに顔を歪めながら頭をゆっくりと上げたアドルフが叫び、ゴキブリが今度こそはとルリに向かって走り出した。ルリはようやく自分を狙う黒い影に気づき、目を見開いて体を硬直させる。

「……?」

…猛スピードで突進したゴキブリは、その手に何の感触もなかったことに首を傾げた。頭をもぎ取るはずだった手は、何も掴まずにただ足だけがその役目を果たした。
ルリはというと、無事にアドルフのもとへ辿り着き、震える身体で縋り付いて泣き始める。

『……ここ、やだ…こわい……あどるふ、帰ろう…?』

しゃくりあげる声に合わせて上下するルリの背中を撫でながら、アドルフはちらりと天井付近にある鏡へ視線だけを向ける。
―――アドルフは見ていた。ゴキブリの手がルリの頭へ届くかと思われた瞬間、ルリが身を屈め黒い腕を躱したのを。
ルリは今の状況を理解しているわけではなさそうだが、その身体はちゃんと迫る危機を感じ取り回避したらしい。

『…ルリ…ごめんな。……薬を飲め。あいつを倒さなければ、ここからは出られない』

ぐすぐすと自分に縋って泣くルリを宥めながら、アドルフは落ち着いた声で言う。見上げる潤んだ目に、悲しく苦しそうな瞳が映った。


透明な言葉に愛を
(どうか気づいて、その心に)


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