050.雫と二人(4)
「天秤にかけた結果、お前の実力が私の力と等価だったんだろう。ここは喜ぶところだぞ」
驚き、怒りがないまぜになったような感情を持て余した結果、ハワードは困ったように笑った。
「……参ったな。これでぼくはとことん、君に頭が上がらないぞ」
「私に恩を売ったと思えばいいんだ。私こそ足を向けて眠れない」
「それじゃあ、お互い様だ。……元気でな」
両手の塞がったタカミネの肩をハワードは叩く。心臓をも大きく揺さぶるだけの力強さを持つその手は、確かに友と呼べる人間のものだった。
「……それでは、そろそろお暇するとしよう」
受付の面々を見ながら後退していく。ヘンリーや他の受付、通りがかりの看護師、ドクター、用務員、タカミネの顔を知る全ての人間が足を止めずに彼へ声をかける。しんみりと酒の席で言われるよりはこっちの方がはるかにいい。
これが、こここそが、自分が育った病院なのだ。
ゆっくりと後退していた足の踵を返し、警備の者にも挨拶を交わして病院を出る。ほんの少し冷たくなった風が頬を打った。歩きながら空を仰げば、晴天にそろそろと雨雲が手を伸ばしている。ハリケーンといい、どうやら自分は本格的に雨男のようだ。
いくらかおかしくなって口許に笑みを浮かべていると、目の前に頭一つ分小さな影が飛び出した。
黒髪に黒い瞳、自分と同じ祖国の流れを組むまだ若い医師。
「買い出しか?」
タカミネと同じく両手一杯に食料を抱えた涼は「ええ、まあ」と言って笑う。
「まだ、食堂の雨漏りが直ってないんで」
「ああ……」
再び空を仰ぐ。
「今日は降りそうだからな」
「はい。それで、今日は俺が」
「……ピザでも頼めば良かったじゃないか」
受付でアカシがぼやいていた言葉を思い出しながら言う。
「でももう、買ってしまいましたから。タカミネ先生の口からピザなんて出るとは思いませんでした」
「そうか」
「はい。いつも厳しくて真面目で、初めて見た時は本当に怖かったなあ」
「よく言われる。……この間はすまなかった」
どこかでその言葉を待っていたらしい涼は驚くでもなく、タカミネの目を見据える。
目をそらさず、タカミネも涼を見据えた。
「……お前は医者だ。私の保証では確かではないが、保証する。立派な医者だ」
しばし沈黙が二人の間を流れ、やがて涼が穏やかに言葉を紡ぐ。
「タカミネ先生、俺は今でも先生が怖いです。でもそれと同時に尊敬もしているし、その怖さはやっぱり、先生が人間だから感じるものだと思うんです。俺も人間です、どちらかというと助ける側ですけど。……だから、アカシの手術は俺がやって良かったと思います」
黙って涼の言葉を待つ。
「先生が俺に任せようと思ってくれたことが、俺は良かったと思うことにしました。……だから謝らずに行って下さい。そして無事に帰ってきて下さい。先生のオペの技術は一番って聞いたのに、俺一度も見てないんですから」
器用に肩をすくめて涼は続けた。
「今の謝罪は聞かなかったことで。それと握手もちょっと出来ないですけど」
両手をふさぐコーヒーと食料を掲げて苦笑する。タカミネも彼にならって荷物を掲げ、挨拶とした。
ふと、頬をなでる風に湿り気が混じる。気付いたように顔を上げた涼の瞼を冷たいものが打った。
「……雨だ」
「うわ、午後からっつってたのに。先生は大丈夫ですか」
「地下鉄で帰る」
幸いなことに駅はすぐそこだ。駆け足で行けば濡れずに済むだろう。
病院へ足を向けて涼がタカミネを振り返る。
「お元気で」
「ああ。お前もな」
言って、タカミネは走り出した。
涼はその背中を見送る。
ようやく見つけ出した自分の可能性に向けて、雫と二人、駆けるその大きな背中を。
終り
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