038.図書室(1)
今まで見たことのない人物だ。
人物というのか、人間性というのか。
何にせよ彼は彼女にとって初めて出会う種の生物であり、ひどく興味をひかれたのだ。
「俺の中にはね、大きな石造りの図書館があるんだ」
ベッドに横たわり、彼は言う。クローンの多くはオリジナルがそうだからなのか、自称を「ぼく」と言う。しかし中には変り種もいて、目の前にいる彼はまさにそれだった。
軍事用クローン。その用途は様々だが、彼は実戦タイプのクローンだった。
そうして何度も戦地に赴き、心を壊されて帰ってきた。
──どうにかなりませんか。
実戦タイプが血や争い事を極端に嫌うなど、その存在意義を放棄するようなものである。
クローンの人権保護法が制定されようとしている今、それを理由に彼を放り出すことも出来ず、白衣の生みの親たちは彼女に助けを求めた。
クローンへのカウンセリングは実を言うと初めてではない。
人間に匹敵するほど──あるいはそれ以上に心の病に罹患しているクローンは多い。皮肉なことに、それによって彼女はクローンもまた人間なのだと理解した。
それまで彼女の中では、クローンは社会を構成する人間をまた構成する存在なのだと思っていたからだ。
社会の器官が人間であるなら、人間の器官がクローンである、と。
創造物が造物主を越えることも、並ぶことも彼女の中ではあってはならないことだった。
「そう、その図書館は広いのかしら?」
興味をひかれる。心を壊した軍事用クローンの深層が、どれくらい壊れたものか。
気になる。
「広い。天井は高いし、幅も広い。奥行きもあって、ずっと向こうが見えないんだ」
「見えないの?本を探す時大変そうだわ」
「平気だよ。この本が欲しいと思ったら、勝手に本棚の方から寄ってくるから。すぐに見つけられる」
「国立の図書館でもそうはいかないわね。他にはどんな仕掛けがあるのかしら」
「仕掛けなんて何もない」
彼は窓のない壁を見る。そこには雨上がりの風景を描いた油絵がかかっており、無機質な部屋を余計寒々しく見せた。
「高い窓がいくつも並んで、そこからは暗い空が見える。書見台も沢山あるんだけど誰も使わない。立ったまま読めば済むことだから。本だけは数え切れないくらいあってね、しょうがないから壁にもはめ込みの本棚を作ったんだ」
「一気に言われて整理が追いつかないわ。一つずつ訊いていっていい?」
「どうぞ」
「外の空はそんなに暗いの?」
「暗い。雨上がりの空でもあそこまで暗いのは見たことがないね。それに外には何もいない。絶対」
絶対、の言い切りが彼女をどきりとさせた。
「それじゃあ本当に真っ暗な所にあるのね。そんなところで本を読んで皆、怖くならないの」
「どうして?」
「だって、暗い所って怖くないかしら」
「ああ。そうだね、いつも明るい所にいる人はそうかもしれない。でも俺の図書館の外は、いつも暗い空だから。普通の風景なんだよ」
他者の介入を受け付けない、ということなのだろうか。「いつも明るい所のいる人は」と、ささやかに拒絶された気がした。
「ふうん。それが日常になってしまえば案外怖くないのかもね。立ったまま本を読むのは辛くない?図書館といったら分厚い本よね」
「それは先入観だね。俺の図書館には分厚い本なんかない。皆、一ページしかないんだ」
「随分短いのね」
「すぐ読めてすぐ行動に移せるようにするためさ」
「本を読んで?行動するの?」
「俺の図書館はちょっと特殊でね、あるテーマに添った図書しか置いてない。殺人だ」
彼女は背中が粟立つのを感じた。
「方法、歴史、被害者、法律……まだ全部見たわけじゃないから、他にもあるだろう。誰かを殺せと命令された時、敵を殺せと命令された時、最善の方法と最短の時間で任務がこなせるように、本は一ページしかない。何ページもめくってられないから」
だけど、と言って彼は溜め息をつく。
「最近おかしいんだ。五ページとか、酷い時には十ページもある本が出てきてさ、読みたいところを探すのが億劫になる。しかもそんな本ばかりが増えてくるんだ」
視線を両手に落とし、震える声で言う。
「やっと目的のページを見つけたと思ったら、図書館から追い出される。その瞬間がたまらなく怖い。俺に残った最後のものまで、俺を拒絶するみたいで──怖い」
「最後?」
「俺たちクローンに本能的に刷り込まれてる問いだよ」
「聞かせてもらえる?」
メモをとるのも忘れ、彼女は身を乗り出した。
「きみは一つの泡沫か」
「……泡沫?うたかたって、泡の?」
「多分ね。俺にとって一番大事なものなんだ。あれだけが俺のために存在してくれる。俺を拒みもしないし、命令もしない。ただ問うだけなんだ」
陶然とした表情で口にする彼を見ると、まるで恋人に向けての台詞のようだ。しかし彼が恋焦がれているのは女ではなく、本能に刷り込まれた質問だという。
彼の妄想の産物なのだろうか。
「それで、あなたはそれに何て答えたの」
「そう……それだ。答えたいんだけど答えられない。答えちゃいけない気もするし、答えたら永遠にあの問いから拒絶され続ける気がするんだ。わかる?」
わかりもしないくせに頷く。クローンが心を読めるという話は聞いていない。
「それはあなたにとってとても大事なものなのね」
「俺だけじゃない。他のクローンにとってもそうさ」
溜め息と共に彼は早口で言い放った。
思ったより壊れてはいない。心は荒廃しているが、あと一歩のところを僅かな妄想で逃れようとしている。
図書館がある、と言った時の彼の表情は神がかっているように見えて興味をひかれたが、実際話をして分析した結果の彼はただの子供に近い。殺人図書館にはいささか肝を冷やしたが。
やはり創造物が造物主に並び、超えることはありえないのだ。
彼女は確信した。彼女が彼を助け──つまり創造物は造物主たる人間の庇護下におかれなければならないのだと。
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