028.白くあれ
それじゃあね。
女は男と別れる時、男が思うほど未練はないという。彼女たちには確かに未来を築く能力があり、新しい命を作る能力もあるのだから、そんなことにかまっていられないのかもしれない。
どちらかというと、突き放したのは彼の方だった。
世の恋人というものたちは恐らく、一日のうち少しでもいいから時間を共有したいと思うものなのだろう。
だが彼は、その共有する時間を束縛と考えた。彼女は可愛い。将来性もある。料理も出来る。そこそこに社交的だ。お愛想も心得ている。自慢の彼女だった。
互いが互いを繋ぎとめ、互いが互いを支え、そうして彼はうんざりした。
飽きた、と言った方が正しいのか。
素晴らしい彼女を持つ「彼」という役に少しばかり憧れて、この年頃彼女がいないのはおかしいという根拠のない偏見から逃れるように「彼女」とつきあった。
「恋人」という枠の中において通過するべき点は通過し終えた。それらは全て周囲に彼が円満な付き合いをしているということを見せるためだったが、彼女はどうもそうは思わなかったらしい。
結婚は、と迫られた時、なんとなく終わりを感じた。
それは「恋人」の範疇ではない。「恋人」の枠を逸脱している関係に、彼はもとより興味がなかった。彼が求めていたのは世間が求める「恋人」の理想像であり期待であり、それらが達成された時、不思議と彼女への愛情も薄れた。
冷たいのね。
態度にも表れていたのだろう。結婚を迫って数週間も経たぬ内の今日、彼女はそう言った。
からりと、彼女の前に置かれたオレンジジュースの氷が音をたてる。どうして別れの場所にはこういう賑やかな喫茶店が選ばれるのだろう。
賑やかだから、部分的に漂う不穏な空気も誤魔化せるからだろうか──お互いに。
他に好きな人でも出来た?
「恋人」の関係に興味がなくなったと言えば話がこじれるのは目に見えていた。とりあえず頷いておく。
一瞬驚いたような表情になり、すぐに感情を隠す。女はこういう顔が上手い。悲しんでいるのか怒っているのか、男に推理させようとしているのだろうか。
けれど彼女はそこまで、まわりくどいことはしなかった。ああ、こういうところが好きだったんだな、と再確認する。
うん、わかった。あまり怒れないのよね。あんた最初からそういうの興味なさそうだったし。
晴れやかとも言えない顔だ。初めて胸が痛んだ。
別れようか。
彼女にその言葉を言わせることだけはしたくなく、彼は自分から切り出す。彼女は薄く笑って、窓を見た。
雨、降ってきたよ。濡れないようにしてね。それじゃあね。
彼は傘を持ってきていなかった。それだけ言い、彼女は傘を持って喫茶店を出た。激しくなってきた雨の中、緑のグラデーションが鮮やかな傘が開く。
白雨。
こんな白っぽい雨をそう言うのだと、確か彼女が言っていた。辺りが見えなくなるほどに激しい雨。
早く見えなくなってくれ。早く歩いていってくれ。早くおれのことを忘れるんだ。
今更ながらにこみあげてくる未練がましい想いを、断ち切らせてくれ。
白雨よ白雨。
彼女の背中が見えなくなるくらいに、白くあれ。
終り
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