旅路




 大きな雨粒が前を行く山羊の足跡を段々とわかりにくくしていた。石の多いこの道では、雨が降ればその水の礫によって、微かなへこみなどあっという間にならされてしまう。今のように大きな雨粒であればその速度も増す。先刻のように叔父の後をぴったりついていた時ならまだしも、その背中も見えないほど離されては追いようがない。自分で少しずつ進むしかなかった。
 雨の勢いは衰えない。檻のように封じ込む雨音は、カーラムの感覚の一部を完全に遮断した。目と耳での情報収集は頼りに出来ない。ついでに声も頼りに出来ないのだと、雨音の大きさを前にカーラムは静かに思った。
 もはや叔父にも聞こえまい。ここから何を叫ぼうとも、雨が全て吸い込んで地へ押し込めてしまうだろう。それは崖を下り、あの勢いを増す渓流へと紛れてどこへなりとも流れていくのだ。それが、誰の声なのかもわからぬままに。
 カーラムの手はごく自然に、山羊を止めていた。
 雨音だけだと思っていた轟音は、足下からも迫っていた。幅の狭い渓流は一気にかさが増え、猛々しい濁流となって流れていく。崖の一部を削り、川底にあった岩をさらい、あらゆるものを押し流し、全てをなかったことにしながら水は急いて先へと行く。
 叔父の忠告はもはや、雨と共にカーラムの体の外へ押し流されていた。耳には激しい水の音が競い合って迫るのみで、カーラムの視線はどんどん渓流の奥底へと吸い込まれていく。茶色い濁流の底など見えるはずもないのに、泡立つ白い波涛の中に何かがあるような気がしてならなかった。
 あの弾ける波の中に、水の流れの奥底に、自分がどこかへ置いてきてしまったものが隠れている。
 きっとそうだ、と思いを決めると、心が驚くほど軽くなった。羽のように重さを忘れた心は、カーラムの顔に初めて表情らしきものを宿らせる。それが安堵にも似た諦めであることを、成長途中の心は見定めることが出来なかった。
 カーラムが身を乗り出すと、山羊もそれに従って一歩踏み出す。煩わしいだけだった雨音は、もう耳には届かない。全て雨が押し流してしまうのなら、それに心を傾けるというのは無駄な労力のように思えた。
 また一歩、山羊は足を進める。主が身を乗り出すため、バランスを保とうと自然に足が出てしまうのだった。だが、長年、人を背に乗せてきた彼は他の誰よりも賢かった。このまま主の思う通りに進めば崖の下に落ちること、そして、それを主は何とも思っていないことに彼はいち早く気づいたのだった。
 更に踏み出した一歩が崖の縁をとらえた。山羊はたたらを踏んで頭を巡らせ、後退しようとする。だが、カーラムの体は重心を取るのを忘れたかのように前のめりになったままだった。これまでどうにか保っていた互いの均衡が崩れた時、真っ先に足を踏み外したのはカーラムであった。後退しようとする山羊に逆らうようにして前へ傾いた体は、山羊を追い越してぐらりと向こう側へ倒れ込む。その時、ふっと主の手から力が抜け、手綱を離すのを山羊は敏感に感じ取った。
「カーラム!」
 低い声が雨音を切り裂いた。

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