旅路




 山羊は地面を蹴り、投げ出されようとするカーラムの体の下へ自らを潜り込ませた。そして太い首を大きく振り上げると、手綱を既に離していたカーラムの体は軽々と宙へ放り出され、短い放物線を描いて崖道へと盛大な水しぶきと共に叩きつけられる。
 山羊はそれを見送りながら、崖の下へと落ちていった。
「……カーラム!」
 轟くような声が渓谷中に響き渡る。だが、カーラムの目はそちらを向くことが出来なかった。山羊の黄色い目が崖の向こうへ消えるまで、ずっとカーラムを見つめていたからだった。
 身じろぎもせず、ただ水たまりの中に体を横たえるだけのカーラムを現実に呼び戻したのは叔父だった。あの細い道を最大限の速さで駆け戻り、山羊から飛び降りた叔父はカーラムの顔を覗きこむ。そして頬を叩き、何度も名前を呼んだ。三度目に呼ばれた声でカーラムの目はやっと叔父を見つめ返す。叔父は安堵したように息を吐いた。
「起きられるか」
 カーラムは答える代わりに、体を起こした。全身に擦り傷を負い、雨が染みて痛いことこの上ないが、幸いにもそれ以上の怪我はない。山羊の対応が速いお陰で、さほどの衝撃が与えられずにカーラムは崖道へ戻ることが出来ていた。
 体を起こしたカーラムは、投げ出した足の間に広げた両掌を見つめた。
 ずっと握り続けていた手綱の跡が赤く残っている。あの時は感覚を失うほどに冷たく、ちぎれて血でも出るのではないかと思うほど痛かったのだが、実際はただ赤くなっているだけだった。カーラムが思うほど手綱は張りつめてはおらず、そしてその手綱握る相手はもういない。
 自身の手から崖の方へとカーラムは視線を転じる。雨が今あった出来事など全てなかったかのような顔をして、重い幕を下ろしていた。
 カーラムは両手を握りしめた。まるでそこから痛みの名残が逃げ出さないように、忘れないようにと強く力を込める。
 叔父はカーラムと崖を見比べ、「行こう」と呟いた。
 そしてカーラムを自分が乗っていた山羊に乗せて歩き出す刹那、わずかに崖を振り返り、小さく目礼をした。


 渓谷の終わりは唐突に訪れた。同時に、それまで間断なく降り注いできた雨にもようやく隙間が見え始め、雫を数えられるほどにまで少なくなった雨の向こうに、開けた風景が広がる。
 切り立った深い渓谷は段々と川との距離を密接なものにしていき、ついには川と肩を並べるようにして歩くまでになった時、岩だらけだった道に細かな砂が混じり始めていた。道は次第に岩と砂の比率を変え、川は渓谷で不自由な思いをしていた分、圧倒的な開放感を伴って砂浜に滔々とした水の帯を作りだしていた。川の周りにはぽつぽつと緑地が点在し、瑞々しい葉に夕日が黄金色の光を落としていた。
 時は夕刻、叔父の計算からすれば大幅に遅れた到着となったが、崖の途中で日が暮れなかっただけ上々と言える。

- 59 -

[*前] | [次#]

[しおりを挟む]
[表紙へ]




0.お品書きへ
9.サイトトップへ

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -