旅路




 今までより山羊の歩みは速くなった。叔父ほどではないにしろ、扱いに慣れているカーラムの背中にもひやりとしたものが常駐するようになる。そうと山羊に悟られては彼らも恐れるからと、カーラムは出来る限り何も考えず手綱さばきに集中するよう努めた。
 山羊の歩みに合わせるようにして雨足も激しさを増していく。初めは絹糸のようだった雨は次第に綿糸のようになり、やがては渓谷中に轟音を響き渡らせる雨のカーテンを織り上げていった。あまりの音に耳を塞ぎたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。時々、そんなカーラムを肩越しに振り返り、叔父が何事か叫んでいたが、雨音に遮られてよくは聞こえなかった。
 雨具を伝った雨粒が、雫となって鼻先を通り過ぎて手に落ちる。動物の皮をなめして作った雨具はよく雨を弾き、体を冷えから守ってくれた。だが、足下まではその恩恵にあやかれず、礫のような雨が足先から膝までを冷たく濡らす。そこへきておりからの冷たい風である。体の末端から体温を奪われるのに時間はかからなかった。
 手綱を握る手が痛い。まるでささくれた木を握りしめているようで、開いたら血でも流れるのではないかという痛みだった。足に至っては既に感覚もなく、ほとんど身にしみついた習性で鐙を踏みしめているようなものである。揺れる山羊の背の律動が、自身の手綱が正確であることを教えてくれた。
 カーラムは忙しなく辺りに視線を走らせていた。
 時折、振り返ってはカーラムの様子を窺う叔父、そして叔父が操る山羊の足跡──雨によって乱される集中力をかき集め、自身の山羊が道を踏み外さぬよう注意を払うのも一苦労であった。
 雨具全体に雨の音を押し込めているようである。
 全身を叩く雨音は彼の内で轟き、耳を塞ぐ。カーラムの集中力とて完璧ではなく、波の満ち引きよろしくその防壁が薄くなる瞬間がある。そして、その僅かな間隙を縫って雨音は彼の思考に侵入しようとしていた。
 雨にそんな意志があるはずもない。あるとすれば自分の方に理由がある、とカーラムが思った瞬間、それまで片時も外れることのなかった鐙の感触がふっと消える。瞬間的に踏み外したと思ったカーラムはすぐに体勢を整えることが出来たが、その所為で山羊を止める羽目になった。このまま進めばまた同じことを繰り返す。一度、体勢をしっかり整えてから進まなければと思った。
 その判断は間違ってはいなかった。ただ、時と場所が悪かった。これ以上、天気が悪化する前に、と進む叔父は自然と山羊の足を速くさせており、彼自身がそれに気づかずに進んでいた。そして、道は険しく細い。雨の幕はその時を待っていたかのように、両者の間に白い緞帳を下ろした。
 カーラムは息を吸い込む。湿り気を帯びた空気が我先にと肺へ駆け込み、その所為ではないだろうが、心臓のリズムがわずかに調子を早くした。カーラムは吸い込む空気の勢いを緩め、山羊を動かし始める。既に、叔父の姿は見えない。

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