触れる 2/2

「よォ!」

「……」


 22時30分。***の元を訪れれば、寝ぼけ眼の***に出迎えられた。


「おまえ、もう寝てたのか? 早くねェか?」

「……レディの夜は早いんだよ、シャンクス」

「おお、そうか。悪ィ悪ィ」

「どうぞ」

「おう」


 寝起きの不機嫌そうなカオとは裏腹に、***はすんなりシャンクスを招き入れた。


 ぺたぺたと裸足のまま廊下を歩く***の後ろ姿を見て、シャンクスの頬は自ずとだらしなくゆるむ。あれだ。あれに似てる。ペンギン。


「お腹空いてる?」

「あァ、小腹空いたな」

「なんかあったかなー」


 寝癖のついた頭を掻きながら、***は台所へ向かった。冷蔵庫を開けると、ごさごそとその中身を漁る。


「おっちゃんとおばちゃんは?」

「んー? もう寝てる」

「おお、そうか」

「あ、煮物余ってた。ラッキー」

「悪かったな、寝てるとこ起こして」

「何をそんな今さら。まァ、2時間くらいは寝たから大丈夫」

「……おまえ、夜8時に寝たのか? 早くねェか、さすがに」


 料理を盛り付けた皿と、もう片方の手に小皿を二つ持って、***は戻ってきた。


「煮物あった」

「おおっ、美味そうだな」

「あと、お父さんの社員旅行のお土産。お饅頭」

「おっちゃん社員旅行行ったのか」

「楽しかったって」

「そうか。何よりだ」


 二人で煮物をつまみながら、振り子時計の針が振れる音を聞いていた。


 生まれる沈黙が心地良い。***を見ると、里芋を頬張りながら、うとうととまばたきをしていた。


「眠いか?」

「ん? ……いや、大丈夫だよ」

「嘘だろ」

「うん」

「悪いな、いつも急で」

「何を今さら」

「そうだな。今さらだな」

「……まァ、それに」

「あ?」


 鶏肉を、ああん、と口に入れながら、シャンクスは***を見た。


 ***は、黒目を左右に数回揺らしてから、ぼそっと言った。


「カオ見られて、良かったよ」

「……」

「……」

「……そうか」

「……なんかもう、夜冷えるよね。あ、ヒーターついてないや」


 箸を皿の上に置くと、***は立ち上がって、茶の間の隅っこにあるヒーターに近付いた。


 "カオ見られて良かった"


 "シャンクスと一緒なら、どこでもいいかな"


 "好き。小さい頃から、ずっと好きだった"


 婚約してからというもの、***は時折素直な気持ちを口にする。しかも、割とストレートに。


 考えてみれば、身体に触れてきたのも、***が先だった。(誕生日のおでこにキス)


 こちらとしては、***の煮え切らない態度にヤキモキしているわけだが、***からすれば、いつまでも幼なじみ感覚の抜けないこちらにヤキモキしているのかもしれない。


 "「男」として、触れてみなさい"、か。


「……***」

「ん?」


 ヒーターの電源を押した***が、ちょうど自分の定位置に座るところだった。


 シャンクスは、自分の足の間をぽんぽんと叩くと、こう言った。


「ここ座れよ」

「……」

「……」

「……は?」

「ほれ、いいから」

「え、えっ……! ちょっ……!」


 ***の手首を半ば強引に引っ張ると、***の身体はよろめきながらシャンクスの傍らへ飛び込んだ。


「ちょっ、ちょっと……! なっ、なに突然っ」

「たまにはいいだろ。ほら、来いよ」

「いっ、いい、いい! なっ、なんでわざわざそんなところにっ」

「でけェ声出すなって。おっちゃんとおばちゃん起きちまうぞ」


 ***は慌てて口を塞ぐと、そろっと両親の寝室の方を見た。ほっ、と息をついてから、また黒目を忙しなく動かして、あきらめたように「じゃあ」と言った。


 シャンクスが一度言い出したら聞かないことを、***はよく知っていた。


 四つん這いになって、のそのそと***は移動した。シャンクスの足の間に来ると、おとなしく体操座りをした。


「……」

「……」

「……なんでこっち向きに座るんだよ」

「えっ、違うのっ?」

「テーブルそっちなんだから、フツーそっち向かねェか?」

「あ、ああ。なるほど……」


 体操座りを解いて、***はくるっと向きを変えた。そしてなぜか、また体操座りをした。姿勢が不自然なほどに良いもんだから、二人の身体は少しも触れなかった。


「……」

「……」

「なんか理想と違う」

「なんなの。ほんと。いつも。なんなの急に」

「……別に。なんとなくな」

「……ふうん」

「……」

「……」


 緊張感走る***の背中を見ながら、シャンクスは内心頭を抱えた。それで、ここからどう触れろと。


「……た」

「あ?」

「あ、た、足りた? 煮物」

「煮物? あァ、足りた足りた。今日も美味かった」

「足りたの? ちょっとしかなかったのに」

「あァ。実は今日、ここに来る前にレイさんのとこ行ってきたんだよ」

「えっ、そうなの? シャッキーさんは? いた?」

「おう。いたいた」

「元気だった?」

「あァ。相変わらず。店の前に客が何人か転がってたな」

「そっか。またぼったくったんだね」

「ぼったくったんだな」

「元気だね」

「元気だな」


 肩の力が抜けてきて、***の背中が次第に丸まってくる。お、あと一息。


「おまえに会いたがってたぞ、アイツ」

「えっ、シャッキーさん?」

「レイさんも」

「へェ、そっかァ。うれしいな。今度行ってこようかな」

「一緒に行くか。あ、ルフィも連れて行こう。アイツ、モンキーちゃんモンキーちゃんうるせェから」

「ルフィくんかァ。懐かしいな。私も会いたいな」


 ゆる、ゆると、***との距離が縮まっていく。シャンクスのネクタイと、***のパジャマが繊維だけ触れた。よし、あともうちょい。


 触れられそうで触れられない、この距離が焦れったい。まるで亀の歩みのようだ、とかなんとか考えていると、***が「ぶちゅんっ」とクシャミをした。


「だっはっは! なんだそのクシャミ! ブサイクだな」

「う、うるさいな」

「寒いか?」

「うん、ちょっとね」


 手の甲で鼻を拭っている***を見て、シャンクスはピンときた。チャンスだ。


 そう思った勢いのまま、***の肩を掴んで、自分の方へ引き寄せた。


 右腕で***の両肩をすっぽり包むと、ぎゅうっ、と、冷えた身体を抱きしめた。


 ***が、岩のように固まった。


「……」

「……」

「……」

「……」

「な」

「あ?」

「なななに? なにしてんの?」

「……別に。寒ィって言うから」

「……ああ、なるほど」

「あァ」

「……」

「……」


 ダメだ。どうもしっくり来ない。ぜんぜん自然じゃない。こんな緊張感のあるバックハグあるか?


 未だ身を固くしている***を見ると、首から耳まで真っ赤だった。体温が赤ちゃんのようにぽかぽかしてきて、背中から伝わる心臓の動きは速かった。


 ……かわいい。


 なんだこれ。かわいいな。


 そうか。おれのこと好きなんだもんな。好きな男に急に抱きしめられたら、そりゃこうなるか。


 悪戯心がむくむくと湧いた。右手をさわさわと動かして、***の左の二の腕をさする。親指でなぞったり、肉をつまんだりすると、その度に***の肩は小さく揺れた。おもしろい。かわいい。


 初めて触れた***の二の腕は、柔らかかった。細すぎないその感触が、自分好みだった。


 婚約してから何度か想像した、***の裸を思い浮かべた。二の腕のパーツはこんな感じか、と、パズルを当てはめるように考えてみる。


 ……ん? おや?


 なんか、ちょっと、まずい。


 ……下半身が、


「唇に触れるような仕草って、どんな状況?」


 突然、そんなような言葉が聞こえた。


 そんなような、というのは、声が小さすぎて、正確には聞き取れなかったからだ。


 「なに? なんだって?」と聞き返したが、***はもう二度とその言葉を口にしなかった。


「あァ、あれな」

「……」

「同じようなこと、ベンにも言われたんだけどよ」

「……」

「けど、ちっとも覚えてねェんだよなァ」


 思案顔を、天井の蛍光灯へ向けた。今回のベンはめずらしく、本当に不機嫌だった。こんな報道があると、お小言はいつものことだが、それでもたしなめる程度の叱責だったのに。


 特にしつこかったのが、この件への追求だ。真っ正直に覚えていないと反論すれば、「後々思い出せないようなことを無責任にやるな」と言われた。


「なんだっけなァ。なんで触ったんだっけ」

「……」

「確かに、触ったのは覚えてんだけどなァ」

「……」

「でも、別に理由もなく触らねェし」


 ……ん?


 ふと、***の反応がなくなったことに気がついて、シャンクスは***のカオを覗いた。


 眠ってしまったのだろうかと思ったが、***の目はキッチリと開いていて、一点を見つめていた。


「なんだよ」

「なっ、なにが?」

「寝たのかと思った。無言だから」

「あ、あァ。ごめん」

「で? それがなんだよ」

「なんだよって?」

「そんなこと、どうして気になるんだよ。あァ、もしかして、ヤキモチか?」


 正直、他の女との思い出せないような小さな出来事など、どうでもよかった。せっかくのこの距離感なのだ。二人の話をしたい。


 話題を変えたくて、何の気なしにそうからかってみたら、***は急に押し黙った。


 当然、食ってかかって否定してくるだろうと踏んでいたシャンクスは、その沈黙ににやけヅラをやめた。


 すると、


「……うん」


 小さく、***からはそう返ってきた。


「……へ?」

「……」

「あー……そうなのか?」

「ま、まァ。少し、だけど」

「……へェ」


 ヤキモチ。へェ。ヤキモチ。***が、ヤキモチねェ。


 自然と、抱き寄せている腕に力が込もる。なんだこれ。帰りたくねェ。なんでここはおれの家じゃない。


 ふと、***が今どんなカオをしているか、無性に知りたくなった。


 シャンクスは、二の腕から惜しみつつ手を離すと、***のアゴを持って、自分の方へ向けた。


「ちょっ、ちょっ……! なにっ」

「いや、どんなカオして言ってんだと思って」

「は、はァっ? ちょっ、いいから離してっ」

「……あ」


 みるみるうちに真っ赤になる***のカオの口元に、黒い何かがついていた。


 シャンクスはそれを指で拭うと、ぺろり、舌で舐めた。甘い。あ、餡子だ。おっちゃんの饅頭の。


「おまえ、いい歳して口元に食べカスつけ……あ、ああ!」


 突然、その時の状況がありありと思い出されて、シャンクスは声を上げた。


「そうだ! これだ! 口元に触れるような仕草って!」

「……」

「食べカスついてたんだよ。あん時も。そうだそうだ思い出した!」

「……」

「そんで、ルフィとおまえのこと思い出してよ。なんかおかしくなって」

「……」

「それで……」


 話の途中で***を見下ろすと、***は茹でたように真っ赤だった。シャンクスを見上げる目は、艶っぽく潤んでいた。


「そ、そういうこと」

「……」

「あんまり、女の人に、し、しない方がいい」

「……」

「と、おも、思うけど」

「……」

「……」

「……あァ」

「……」

「そうだな」

「……」

「そうする」


 震えている唇を、指でなぞって、言った。


「もうしない。……おまえ以外には」


 カオを近付けると、***はとっさに目を瞑った。まるで、初めてキスをする中学生みたいだ。こっちまで緊張してくる。


 子供同士みたいな、軽く触れるだけのキスを、一回。


 たった、それだけなのに。


 唇を離した瞬間、***はぽろりと、嬉し涙をこぼした。


れる


なんか……胸が苦しい。


……ああ、おれも。 


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