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すでに酒瓶が七本ほど空いているが、酔いが回ってくる気配はない。
無人の食堂で一人、シャンクスは酒を煽っていた。
八本目が空になる。傍らにスタンバイさせていた九本目に手をかけた。
その時、食堂の扉が、控えめな音を立てて開かれた。
「お頭……」
現れたのは***だった。風呂上がりのようで、肩から湯気が立ち上っている。シャンクスの姿を見て、心底驚いたように目を丸めていた。
***は食堂内を見渡した。いつもならこの時間でも船員が数人残っているのに、誰もいないから不思議に思ったのだろう。
シャンクスは口を開いた。
「人払いしたんだ」
「え?」
「一人で飲みたくてな」
「……」
***は、テーブルの上の空の酒瓶に目をやってから、静かに笑った。
「そうだったんですね」
「あァ」
「……そんな日も、ありますよね」
「……あァ」
背もたれに全体重を預けて、シャンクスは天井を見上げた。
「そんな日も、あるなァ……」
目を瞑ると、なぜか故郷の空を思い出した。***の穏やかな表情を見ると、郷愁が胸を巡る時がある。子どもの頃の未熟な自分を思い出して、今も大して変わっちゃいないなと、頬が緩むのだ。
シャンクスは目を開けると、***を見た。
「付き合え、***」
「……えっ?」
「船長命令だ」
開けそびれていた酒瓶の栓を抜く。戸棚から、グラスを一つ手に取った。
「あ、ああ。付き合えって、なんだ、そっか。お酒……」
「ん? なんか言ったか?」
「い、いえっ。なんでも……」
風呂上がりで上気した頬をますます真っ赤にして、***は近付いてきた。目の前に座ると、石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。半乾きの髪の束が、首に張り付いていた。
目が合った***は、照れくさそうにはにかむと、シャンクスが注いだ酒を小さな会釈で受け取った。
かわいい。そして――愛しい。
***に何もなくて……本当に、本当に良かった。この笑顔が壊れるようなことがなくて、本当に――。
「今日は、世話かけたな」
言いながら、***のグラスにグラスを合わせる。ちんっ、と、控えめな音が鳴った。
***が、背筋を伸ばす気配がした。
「世話、ですか……?」
「ラナのことだ」
「……」
「怖い思いをさせて、悪かった」
グラスの中身を一気に飲み干す。***はまだグラスに口をつけない。
酒瓶を持つと、***が腰を浮かせたので、シャンクスは「今日はいいんだ」と酌を辞退した。
「ラナには、次の街で船を下りてもらう」
シャンクスがそう告げると、***は勢いよくカオを上げた。表情には、驚愕と困惑が広がっている。
***は、何かを言おうとしていた。自分を落ち着かせるためか、ようやく酒に口をつけた。
「で、すが……」もう一度、酒で口の中を湿らせてから続けた。「今回は、その……未遂、だったわけですし……」
シャンクスは目を丸めた。
「未遂? ――ああ、いや。違うんだ」
「え?」
「浮気されそうになったから追い出すとか、そういうんじゃない」
もういいだろう――そう考えて、シャンクスは正直に白状することにした。
「恋仲じゃないんだ。元々」
「……え?」
「おれとラナ。恋人同士というわけじゃない」
「……えっ、ええっ?」
「ラナは、今までも他の男と寝ていたし」
「……」
「おれも……まァ……」
「……」
「それなりに、な……」
惚れた女にこんなことまで打ち明けてしまうとは、ようやく酔いが回ってきたのかもしれない。
いや、もしくは――自分で思っている以上に、自分の浅はかさを悔いているのか――。
「人の心を救うってのは……なかなか難しいもんだな……」
自分の恋心を抑え込むことは出来ても、他人の心まではコントロール出来ない。抱けば抱くほど、ラナは自分に惹かれているようだった。
ラナが自分に依存しないよう、シャンクスはわざと他の女の香りをさせて船に戻る時があった。ラナは何も言わなかったが、その代わり別の方法でシャンクスの気を引くようになった。結局、どんな試みもすべて無駄だったわけだ。
一体、どうしてやることが、正解だったのだろうか――。
「どんなに手を尽くしても……伝わらない時は、伝わりません」
***の、静かで穏やかな声が食堂に響き渡る。
「ですが、いずれ……時を経て、伝わることもあります」
「……」
「今はダメでも、きっと……」
「……」
「きっと、ラナちゃんなら……」
「……」
「お頭の気持ち、分かってくれるんじゃないでしょうか」
***が、俯いていたカオを上げる。
母のような柔らかな笑みに、シャンクスは息を呑んだ。
「お頭があんなに……大切にしていた人ですから」
ひっきりなしに酒を持ち上げていた手が止まる。やがて、グラスから自ずと手が離れた。
自分が、大人に諭される小さな子どものように思えて、シャンクスは途端に恥ずかしくなった。けれど、そんな情けない姿を晒している相手が***であることに、なぜか安心感を覚えた。
「お頭……出来る限りのことは、してみませんか?」
***のその言葉に、シャンクスは俯いていたカオを上げた。
「いや、しかし……そうしたいのは山々だが、一度出した下船命令を撤回するつもりは――」
「もちろんです」
無論、分かっていると言わんばかりに、***は深く頷いた。
「次の島へ辿り着くまで、まだ数日時間があります」
「……」
「ここまできて、諦める必要は……まだないのではないでしょうか?」
「……」
強い女だ。――おれなんかよりも、ずっと、ずっと。
「***……」
赤い双眸を、まっすぐに***へ向ける。***は、しゃんと背筋を伸ばした。
「おれと一緒に……ラナを救ってくれるか?」
そう問うと、***は安堵したように破顔した。そして、
「お頭の思いは、船員である私の思いです。……お手伝いさせてください」
そう、はっきりと受け応えたのだった。[ 14/20 ][*prev] [next#]
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