羨望 3/3

「ん?あれは…」


校内を歩いていたら、窓の外に***らしき人影を見つけた。


校舎の裏。その端っこでひとり、うずくまって動かない。


具合でも悪いのだろうか。


駆けつけるより先に、キャプテンに知らせた方が良いか。少し悩んだが、なんとなくそうはしないほうが良いような気がした。おれは一人で***の元へ向かった。


ー…‥


近付いていくと、***の身体が微かに強張った。砂の上を歩くおれの足音に警戒したのだろう。


よろよろと立ち上がって去ろうとしたので「***、おれだ。」と声をかけて引き止めた。


振り向いた***と目が合って、どうしたのかと聞く前に***の左頬についた”それ”に目がいった。


「おまえ、どうしたんだ?そのカオの怪我…」

「あ、え、ええっと、」


まるでイタズラが見つかった子どもみたいに、***は目をそらした。


罰の悪そうな表情に、すべてを悟った。やられたのだ。だれかに。


「…この前の女たちか?」

「ロ、ローには言わないでくださ、」

「わかっている。なぜだ?このあいだの一件で、片付いたんじゃなかったのか?」

「…この前、一緒に喫茶店行ったの、見られたみたいで。」


ドジっちゃいました、と、***は眉をハの字に下げて笑った。


「…見せてみろ。」


***の顎を掬って、キズを見た。斜めに一本。ぱっくりと割れて、そこから血が滲んでいる。


「切られたのか?」

「…いえ。あの、多分、引っ叩かれた時に、相手の爪が当たって、」

「…あの魔女みたいな爪か。」

「ははっ、魔女って。ペンギンさんおもしろい、」

「笑いごとじゃない。」


***の目をまっすぐに見下ろした。こげ茶の瞳が、まだ怯えている。胸が、苦しくなった。


「キャプテンに言うべきだ。」

「…ダメです。」

「カオだぞ。どうせ気付かれる。内緒にされている方が、キャプテンだってよっぽど辛いんじゃないのか。」

「…………………。」


***は押し黙った。我ながら、今の一言は良かったかもしれない。キャプテンに助けを乞うべきだ。さすれば、***もこんな思いをしないで済む。


きっと***は、言うべきかどうかを思い悩んでいるのだろうと思った。しかし、それは違った。


***は、何かを思いついたように「あ」と言うと、おもむろにしゃがんで砂を握った。そしてあろうことか、それをキズに塗りこむようにして擦ったのだ。


「…!バカ!何してるっ、」

「転んだって言います。転んで、ガラスで切ったって、」

「やめろ!跡が残る…!カオだぞ!」


***の手を掴んで、力づくで止めさせた。なぜかおれの息が荒れていた。鼓動がばくばくと脈打っていて、気分が悪かった。


「…そんなことして、キャプテンが喜ぶと思うか?」

「…………………。」

「そんなことが、キャプテンのためなんかに、」

「ローのためじゃ、ありません。」

「…なに?」


***はおれを見上げて、言った。


「ローのためなんかじゃ、ないんです。」

「…………………。」

「自分のためなんです。」

「…………………。」

「私がただ、見たくないだけなんです。ローのキズついたカオ。」

「…………………。」

「ただの、自己満足だって、わかってます。」

「…………………。」

「でも、お願い。ペンギンさん。」


どうか、わかってください。と、***は頭を下げた。


おれは、動けなかった。言いようのない感情が、ノドの奥から込み上げてくる。なんて答えたら良いか、分からなかった。


「…カオを洗え。」

「え、」

「”転んだ”ら、カオくらい洗うだろ。そのままだと、却って不自然だ。」

「…そ、そっか。そうですね!はい!」


***は、近くにあった水道まで小走りした。蛇口をひねって水を出すと、丁寧に頬を洗っていく。


「あの、ペンギンさん、」

「…なんだ。」

「…ありがとう。」

「…べつに、おまえのためじゃない。」

「へへっ、」

「…いいから、さっさと洗え。キャプテンに治療してもらうぞ。言っておくが、それは譲らん。」

「…ペンギンさん、意外と頑固。」

「うるさい。」


何がそんなに嬉しいのか。***は元気を取り戻したようで、笑っていた。水道から撥ねた水が、白い足を濡らしている。そのせいか、***がいつもよりきらめいて見えた。


信じられん。


フツー、怪我に砂塗りこんだりするか?しかも、カオ。仮にも女だというのに。


それほどまでに、キャプテンを守りたいということか。


そうまでして、キャプテンの心を。


まったく。うらやましいかぎりだ。





うらやましい?


…なにがだ。


「ペンギンさん、…ペンギンさん?」

「…!あ、あァ、なんだ。」


考えごとをしていたせいで、反応が鈍った。カオを水びたしにした***が、いつのまにかおれの目の前に立っていた。


「大丈夫ですか?どうかしました?」

「…いや、なんでもない。で?」

「あ、ローがどこにいるか、知ってるかなって。」

「…この時間は、おそらく屋上だろう。おれも行く。」


万が一”コト”がバレたとき、キャプテンを止めるストッパーが必要だ。おれも一緒に行くべきだろう。


そう思い、***と共にキャプテンの元へ向かった。


ー…‥


「なんだ、その怪我…」


***の頬を見るなり、キャプテンはカオを蒼ざめた。たらり、と、冷や汗まで垂らしている。


「お、怒る?怒るよね?」

「…怒らねェから、さっさと言え。」

「転んでガラスで切りました。」

「この、バカ!」


怒鳴られて、***は小さく身を縮めた。キャプテンはというと、学生カバンから薬やらガーゼやらを取り出して早々に***の治療に当たっている。


「よ、用意いいね。」

「…だれかさんがいつもいつも怪我ばっかするからな。」

「…てへ、」

「てへ、じゃねェよ。今度やったら、おれがおまえを斬り刻むからな。」

「こっ、こわっ、」

「イヤなら、もう怪我すんな。」

「は、はい。」


キャプテンが、***の話を疑うことはなかった。それもそのはず。


***は、ぞっとするほどウソがうまかった。目の動き、声のトーン、話す時の早さ。何をとっても完璧だった。


これも、身についたのか。キャプテンを守っていくうちに。


…そうか。


「…で?」

「な、なに?」

「なぜペンギンが一緒にいる。」


ようやくキャプテンがおれの存在に気付いた。いや。気付いてはいただろうが、それどころではなかったのだろう。


向けられる目の奥に、少しの敵意を感じる。あのことがあったからだろうか。


「あ、あのね、ちょうど転んだ時にペンギンさんが来てくれてね、」

「”ちょうど”?」

「…そんな目で見られても。本当ですよ。たまたまです。」

「…………………。」


信じてはいないようだが、とりあえず納得はしたようだ。キャプテンはおれに向けていた目を、***に戻した。おれは小さく溜め息をついた。


まったく。おれなんかに嫉妬する必要が、どこにある。


***は、ああまでして、あなたを守って。想っているというのに。


本当に、なんてうらやましい。


その時初めて、おれはおれの中の異変に気が付いた。


うらやましい?何がだ?


おれは、何がそんなにうらやましい?


ああ、ダメだ。


この先の答えは、知らない方がいい。知るべきではない。


考えるな。導き出すな。


ああ、だけど、


うらやましい。


うらやましい。










君にこんなに想われている、


あの男が。










今ほど、自分の頭の良さを呪ったことはない。どうしておれは、いつもいつも知らなくて良いことまで知ってしまうんだ。


***の気持ちも、キャプテンの気持ちも、


自分の気持ちも。


知らずにいられたら、こんな思いをしないで済んだのに。


まったく、滑稽な話じゃないか。


初恋と失恋を、同時に知るなんて。


なのに。


なんでだろうな。この感情は。


「ペンギンさん、今日はこれから空いてますか?」


ほっぺたにガーゼを貼り付けた***が、そう尋ねてきた。やんちゃな小学生みたいだ。


「…なぜだ?」

「ロールケーキのおいしいお店が、この近くにできたんです!今からそこに、ローと一緒に行くんですけど、ペンギンさんも行きませんか?」

「…おまえ、性懲りもなく。」

「…!ペンギンさんっ、シー!」


***は慌てて口元に指を立てた。キャプテンは薬とガーゼをカバンにしまっている。***は、ふうっ、と冷や汗を拭った。


「…じゃあ、今日は一緒させてもらう。」

「ほんとですかっ!やったー!ロー!ペンギンさんも行くって!」

「あァ?なんだよ。来んのか。」

「…おれと行きたくないなら、キャプテンは来なくていいですよ。おれが***と行くんで。」

「…………………。」


キャプテンは、あからさまに苛立ったカオをした。そうだ。それでいい。


いくら鈍いあなたでも、いつかは知るはずだ。それが恋だということを。


多少煽ってやれば、”その時”が早く来るかもしれない。


その時、大切な人が二人、同時に幸せを掴むのだ。


おれはそれを、一番身近で見守らせてもらう。どうだ。良い特等席だろう?


「ロー!ペンギンさん!早く行きましょう!」

「こら、***。走るとまた転んでしまうぞ。そのカバン、持ってやろう。」

「余計な世話を焼くな。ペンギン。***、カバン寄越せ。」

「キャプテンにそんなことさせられません。おれがやりますから。」

「…上等だ、てめェ。」

「二人ともー!早く早くー!」


***。


これから先、おまえの身に何が起ころうとも。


おれがおまえにこの想いを伝えることは、きっと一生ない。


だけど、それでいいんだ。


おれは、


君が笑っていてくれたら、それだけで。


大切な人を守ろうとするその強さに、おれは惹かれたのだから。


そして、


「?なんだよ。人のカオジッと見て。」


おれはやっぱり、***よりだれより、


あなたが好きだから。


自分の幸せより、***の幸せより。


やっぱり、あなたの幸せを願ってしまうから。


「いえ。カッコいいなと思いまして。」

「…はァ?」


だから、まァ。


仕方ないので、末永く見守ってあげますよ。


たくさんの愛情と、ほんの少しの羨望を抱えて。





それでも、たまに考えてしまうんだ。


あなたの愛したひとが、


もしも、あの子じゃなかったら。


なんてね。


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