45-2
「あ……。べ、べつに、変な意味じゃないよ? ただ、仕事って何事も、溜め込むと後が大変だから」
「あ、あァ」
なんだ。そういうことか。
ほっとしながらも、また困らせてしまったんじゃないかと、不安がよぎる。
自分が生み出している炎を隠れ蓑にして、***のカオを盗み見た。
すると、心なしか、***の目がうとうととしているような気がする。視点もあまり定まっていなくて、ぼんやりとエースの手元を見つめているような感じだった。
「……眠いのか?」
「えっ」
***が、はっとしたように、エースの呼びかけで覚醒する。
***は、無理やり笑顔を作って答えた。
「なんか、あったかくてうとうとしちゃった」
「あァ……。この辺、寒いもんな」
エースが『この辺』と言ったのは、今航海中の海域のことだった。おそらく、冬島が近いのだろう。船内のクルーたちの服装も、長袖が圧倒的に多い。
エースは、自分自身が〈火〉なので、ここと外の温度差はあまり感じない。けれど、***のように普通の人間は、今日のような肌寒さの中で火に当たれば、確かに眠気が襲ってくるかもしれない。
「寝ててもいいぞ」
「え? あァ、いや。大丈――」
「ほら。こっち」
「えっ――! わっ」
少し離れた位置にいた***の手を引いて、腕の中にすっぽりと収める。
炎に照らされた***のカオは、みるみるうちに真っ赤になった。
「いっ、いいよっ。そんなっ」
「このくらいの距離のほうが、書類も渡しやすいだろ」
そう言って、焼却前の書類の束を、***の足元に引き寄せる。
確かに、とでも思ったのか、***はそれ以上身動ぎしなかった。
「ご……ごめんね」
「あァ」
「……ありがとう」
「あァ」
それきり、***は黙りこくってしまった。***が紙の束を掴む音と、紙がチリチリと焼ける音。それから、二人の息遣いだけが、部屋の中で響く。
しばらくすると、***の動きが完全に止まった。腕の中で、規則正しい寝息が聞こえる。
エースは、そろりと***のカオを覗いた。
***は、緩く目を瞑って、熟睡モードに入っていた。エースの胸元に、全体重を預けている。
エースは、ふっと口元を緩めると、作業の手を止めた。そして、***のそばに手を持ってくると、小さな火を生み出して、***の体をじんわりと暖めた。
気持ちの良さそうな寝顔を、飽きることなく見つめる。
ふと、半開きの唇に目がいって、エースは息を止めた。
***の唇めがけて、自分の唇を近づける。
あと、数ミリで重なる。その直前で、目を瞑った、そのとき――。
出入り口から物音が聞こえて、エースははっと目を開いた。
ディモが、扉を開けて出入り口に突っ立っていた。
「お、おう……」
「……」
ディモは、瞳を蜃気楼のように揺らしてから、小さく「あァ」と言った。
「どうした? ディモ。なんかあったか?」
「……べつに。なにもないけど……。窓から、火が揺らめいてるのが見えたから」
「……あァ」
ディモに言われて、すぐ近くにある小窓を見上げる。どうやら、ここから書類を焼却している火が見えたらしかった。
「……やめろよ」
「……あ?」
ディモの声が小さすぎて、よく聞こえなかった。見返したカオも、俯いているせいで表情がよくわからない。
「ディモ? 今なんて――」
「やめろよって言ったんだよ」
「“やめろ”? やめろってなにを――」
「今、***にキスしようとしたろ」
そう言われて、ぎょっとする。
***にキスしようとしていたのがバレたこともそうだが、ディモの口から「キス」という単語を聞いて、エースはなんとなく、落ち着かない気持ちになった。
「いやっ、今のはべつにっ」
「……」
ディモが、ふいと横を向く。どうやら、機嫌があまり良くないようだ。
友だちになった***の寝込みを襲うような場面を見たから怒ったのだろうかと、そうも思ったが、なんとなく、そういうことが理由ではないだろうと察した。
***の体をそっと壁に預けると、エースは立ち上がって、ディモの立っている出入り口へと向かった。
ディモが先に部屋を出て、エースもそれに続く。
後ろ手に扉を閉めてから、エースはディモに向き直った。
「どうしたんだ? なんかあったんだろ」
「……なにも」
「嘘つけよ。おまえがそういうカオするときは、いつもなにか――」
言いながら、ディモの頬をつまもうと手を伸ばす。
その手を、ディモは慌てたように跳ね除けた。
エースは、怪訝に眉を顰めた。
「? なんだよ。やっぱり機嫌悪いのか?」
「べっ、べつに、なんでもないって言ってるだろっ」
「なんでもないって……おまえなァ」
「私はただっ、ああいう、キ、……キス、とかは、簡単にするなって、言いたいだけでっ」
そう言われて、きょとんとする。そして、殊更に眉間の皺を深くした。
「なんだよ。おまえがそんなこと言うなんて……。っていうか、そんなの今さらだろ」
ディモがこの船に来たとき、自分はすでに、女癖が悪かった。確かに、ディモの前ではあからさまに手を出すようなことは控えていたが、ディモだって噂くらいは聞いていただろう。
「他の女はいいんだよ」
「はァ?」
「だけど……***は、やめろよ」
「……」
「恩人、だろ」
そう言われて、既視感を覚える。そういえば、同じようなことを、以前マルコにも言われた。
いつかいなくなるような女に、簡単に手を出すんじゃない、と――。
「……んなの、おまえには関係ねェだろ」
「それは……そう、だけど」
「大体な、おまえと、その……こういう話してると、ちょっとむず痒くなるんだよ」
実際、皮膚の表面が痒くなってきたような気がして、エースは首の後ろを気まずそうに掻いた。
ディモは、はっとしたように息を止めると、深く俯いて、言った。
「……なんでだよ」
「なんでって、そりゃあ――」
「……」
「おまえみたいなお子ちゃまに」
「……」
「まだそんな話は早、――!」
首が、ぐんと何かに引っ張られる。
何も考える暇もなく、エースの唇にはディモの柔らかな唇が押しつけられた。
唇が離れて、ゼロ距離のディモを見返す。
ここでようやく、ディモが自分の首飾りを掴んでいるのが見えた。
ディモは、今にも泣きそうな表情をしていた。
「私はっ、お子ちゃまなんかじゃないっ! ……女だっ」
そう言い放つと、くるりと踵を返して、小動物のように素早く走り去っていく。
その後ろ姿を、エースはただ呆然として見送った。[ 54/56 ][*prev] [next#]
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