これから続いている気がします。




 頬にポツリと雨粒を感じた頃には、もう手遅れだった。ビクリと自分の体が震える感覚で目を覚ますと、不破 雷蔵は覚醒しきらない眼(まなこ)で空を見た。仰向けで寝ていたので、わざわざ“見る”というまでもなく、視界に入ってくるのだが。

 薄い灰色に染まった空と、澱んだ重い雲。どう見ても雨雲の、悪天候だ。降り出した、と思うと同時に、打ち付ける雫はザアッという滝に変わった。

「うわあああっ、やっちゃったー!」

 すぐさま木陰から、長屋へ向かって走り出す。呑気な口調と裏腹に、その足取りは音もなく、素早い。不破 雷蔵はその迷い癖さえなければ、そこそこに優秀な忍者の卵なのである。

 ヒュッと軒下へ滑り込む。肩口がわずかに湿ってしまったが、そこまでずぶ濡れというわけではない。早いうちに気付いたのが幸いした。うとうととまどろみ始めてから、いったいどれほどの時間が過ぎたのか。まだそこまで暗くはない。太陽は見えないが、空の明るさを見るに、寝入ってしまったのは半刻ほどだろうと見当をつける。

 先生の不在によりできてしまった自習という名の空き時間を、手裏剣の練習に使うか、それとも座学に使うかで悩んだ結果、すべてを放棄して居眠りを始めてしまったのだから、この優柔不断さもいよいよまずい。決定づけることができないあやふやさは、短所以外のなにものでもない。自身の志す忍者という職をふまえて考えるなら、弱点といってもいいかもしれない。

 はあ、と盛大なため息を吐きながら、雷蔵は肩に乗った雫を手で払った。

「つめたっ」

 突如、真横から現れた声に、雷蔵はビクリと飛び上がる。跳ねるように視線を向ければ、そこには小さな女の子がいた。頭を手で守るように抱え、恨めしそうな目でこちらを見上げている。雷蔵の腰くらいまでしかない低い身長。ぽっちゃりとふくよかな体躯。餅のような輪郭の中の幼い顔立ち。彼は彼女の名をよく知っていた。知っていたからこそ動揺して、彼の舌は一瞬もつれた。

「おシゲちゃん」

 うまく通らない喉を叱咤した結果、それはひどく落ち着き払った声音になった。反対にビクビクと怯えていたのは、彼の内心に他ならなかった。肩が縮こまって、眉が下がる。寒くもないのに、彼の体を微弱な震えが襲った。

「不破先輩が雨粒を払ったせいで、おシゲの頭に散ってきたんでしゅ! どうしてくれるんでしゅか!」

「わ、わあっ、ご、ごめん」

 キャンキャンと吠えるように、おシゲは雷蔵に向かって拳を握る。勢いに押されて、彼は一、二歩後ろへ下がった。気が弱いのも雷蔵の弱点の一つだ。

「隣にいるって気付かなくて……ごめんね」

「ふんっ、おシゲのほうが先にいたんでしゅよ」

 腕を組んで、おシゲはツンッと顔を背ける。瞬間、彼女の頭からパッと雫が舞った。雷蔵が散らしてしまった雨粒だ。彼は慌てて、彼女の頭巾へ手を伸ばす。すでにシミになりかけている水を掌で払おうとして、雷蔵はピタリと動きを止めた。

 ――ここで僕に触れられることに、彼女は嫌悪感を抱かないだろうか――

 ならば手ぬぐいでも、と懐をあさるが、横着な男児がそんなものを持参しているはずもなく、その手は行き場を失う。

 それならいっそ、と忍装束の袖口を引っ張ってみるが、つかんだそれは当然のごとくじっとりと湿っていた。つい先ほど雨に降られたばかりだ。びしょ濡れでないとはいえ、カラカラに乾燥しているわけもない。これでは水を水で拭くだけだ。それに、男が四六時中身に付けている衣服で女子の頭を拭くというのはいかがなものか。そんなことをぐるぐると思い悩んで、雷蔵は結局一寸も動けなくなった。考えすぎて目が回り、汗がダラダラとこめかみをつたった。

 内心で静かにパニックを起こしている雷蔵を横目で見て、おシゲは軽く息を吐いた。

「もういいでしゅ」

 伸ばされたままの雷蔵の手の先で、おシゲはパッパッと雫を落とした。小さな手が頭巾を撫でるのを所在なさげに眺めて、雷蔵はようやく自分の手を下ろした。いたたまれない気持ちで、視線を逸らす。

 雨は、土に刺さるように降りしきっていた。少しばかりの雨宿りのつもりが、やむのを待っていたら日が暮れてしまうかもしれない。遠回りだが、迂回して戻ったほうがよさそうだ。そう思いつつも、雷蔵の足はまるで縫いつけられたように頑なにそこを離れなかった。

「……おシゲちゃんも、雨に降られたの?」

 躊躇いがちに声をかける。おシゲは後ろで手を組んで、悩ましげなため息を吐いた。

「しんべヱしゃまに会いに行くところだったんでしゅ。その途中でいきなり降り出しゅものだから……こんなどしゃ降りじゃ、くのたま長屋に帰ることもできないし」

 まったく困りました、とおシゲは肩を落とした。

「そっかぁ。それは災難だったね」

 心のどこかに、カリリと小さな爪痕が付いたようだった。

「不破先輩はどうしたんでしゅ?」

「僕かい? いやぁ、実は自習の時間を手裏剣の練習に使うか座学に使うかで迷っちゃって」

「まさかそのまま眠りこけちゃったんでしゅか……?」

 ハハハハ、とごまかすように笑って、雷蔵は後頭部を撫でた。おシゲが呆れたように嘆息する。

「あいかわらず優柔不断でしゅね。そろそろどうにかしないと将来困りましゅよ?」

 幼い外見のわりに、言うことはザクリと胸を抉る。「うぅ」と唸りながら、彼は涙混じりに「わかってるよ……」と呟いた。

 それっきり、おシゲは言葉を続けなかった。前を向いて、止まない雨を眺めていた。その瞳はコロンと丸く、透明で、不純物がなく、水面のように豪雨の景色を鮮明に映していた。

 雷蔵は、後ろの柱に背中を預ける。隣の少女と同じように、雨に濡れる木や土や塀を眺めた。特別なものではない。なだらかに、景色を滑っていく水滴があるだけで、心が潤うことはない。つまらないものだ。どうして今、こんなにつまらない気分なのか、それすら明確には理由付けられない。この間にある壁が、晴れた日と雨の日のようにあきらかな明暗差を形成していることが、彼の気分をズブズブと引き下ろしているのかもしれなかった。

 もう一度、脇に立つ少女に目をやる。どうしてこの幼子がこんなにも隔絶された聖域に見えるのか、雷蔵自身にもわからなかった。


「口を――」

 ――吸ってもいいかい?


 雷蔵はとっさに口を手で押さえた。自分は今なにを言おうとしたのか。驚愕と羞恥に、顔がカアッと熱くなった。頭の中で言葉を反芻する。おシゲがすうっとこちらを見上げた。耐えられず、彼は首を竦めるように俯いた。

「――いいでしゅよ、不破先輩」

 雨音から隔絶された舌っ足らずな声が、雷蔵の面を上げさせた。

「それで、終わりにしましゅか?」

 ザァッと、あいかわらず雨は景気よく降り続ける。白い糸のような土砂降りが、彼女の背景でひどく痛々しく見えた。うるさい景色と裏腹に、しんと落ち着いた彼女の横顔は、浮き出るように立体的で、消え入るように儚げだった。こんな冷たい雨と、こんな幼子が似合ってしまうだなんてと、雷蔵は胸が締め付けられた。

 彼女への執着が意味を変えてこの身を蝕み始めた時、彼は理解したのだ。これで終わりにするべきなのだと。

 そうして、彼女もすでに理解していた。それはもう、とっくの昔に、彼がなにもかもを理解するよりはるか昔に。

 雷蔵はそっと膝を折って、おシゲと目線を合わせた。首だけを捻って彼を見ていたおシゲは、それを合図にしたようにくるりと体ごと彼に向き直った。

 視線が交差する。夢の中のように、なにもかもが非現実的に見えた。彼女の瞳も、自分の体も。起こりうるはずのない事態が、自分の知らないところで進行している。そんな気分だった。

 おシゲがそっと、そのつぶらな瞳を閉じた。存外長い睫毛が、彼を待つように震えていた。一瞬、周囲の雑音がすべて消えた。

 雷蔵は、おシゲの肩に手を添えた。気取られない程度に、浅く息を吐く。迷っていたらまた繰り返しだ、と、雷蔵は一気に彼女との距離を詰めた。


 無音で柔らかな唇が押し付けられたのは、おシゲの短い首筋にだった。崩れるように、彼女の肩口に雷蔵の頭が乗る。肩に置かれていた手は少女の腕をつかみ、力任せに跡を付けた。

 できないよ――、そう彼は呟いた。

 薄く瞼を開け、おシゲは一度瞬きをした。彼の頭に手を回すようにして抱き締める。嗚咽は聞こえてこないが、重苦しい気配はひしひしと彼女の体を打った。あいかわらず止む様子を見せない雨音が、彼の泣き声を奪い去ってしまったのかもしれない。けれど、彼が泣いているか否かは、もうたいして意味をなさなかった。

「……生まれ変わったら、不破先輩のものになってあげてもいいでしゅよ」

 彼にだけ聞こえるように、おシゲは囁いた。とても優しい声音だった。それがどれほど残酷なものであるかは、おシゲ自身が一番よくわかっていた。だから、そんなに力を込めて抱き締めないでほしい。痛いのだ。その心の痛みに同調するほど、おシゲも罪悪感を感じて痛いのだ。締め付けられて、骨が軋んで、喉から呻き声が出そうになる。

 ごめんなさいと、それだけは言いたくなかった。また、言う必要もなかった。それは雷蔵も同様だった。なにもかもが不確かな状況のなかで、確かなのはその事実と、この雨が止んだ時、そこにもう二人の姿はないということだけだった。




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