初めての顔合わせから少し経ったある日。
今日もドラマの撮影が入っていて、私は差し入れに持っていこうとお気に入りの輸入雑貨店で売られているビスケットを購入してからスタジオ入りをしていた。
好き嫌いが別れてしまうのがネックではあるが、比較的大人は好んで食べてくれることの多いシナモンが使われたそのビスケットは、その優しい甘さと独特の風味が珈琲にも紅茶にも合うと若い女性に大人気で、かくいう私もその1人。
ぜひこの美味しさを皆さんに味わってもらいたくて買ってきたは良いものの、ここでまた人見知りを発揮する私は、なかなか鞄の中からそれを出せずにいた。
そんな時、スタジオ内に最近聞き慣れてきた心地よいテノールが響き渡った。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「夏油さん!」
あれから数回の撮影を経て、役柄的に一番絡みが多いというのもあり夏油さんとの距離が少しずつ縮まっていた。
「おはよう苗字さん。早いね」
「寄るところがあったので早めに出たら、早く着きすぎちゃったんです」
他の共演者の方よりも少しだけ話しかけやすい夏油さんの登場にホッとしながら声をかけると、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべながら興味深そうに話を聞いてくれた。
「へぇ、寄るところ?」
「はい!差し入れにビスケットを買おうと思って…」
「なるほど。苗字さんお勧めのお菓子というわけだね」
「そうなんです。…あ!夏油さん、よかったら召し上がりませんか?」
丁度出すタイミングを逃していたところだったので、これ幸いとばかりに聞いてみれば、「いいのかい?じゃあ是非。」と目を細めて喜んでくれた夏油さんに私の方も表情が緩んでしまう。
「ん、シナモンがはいっているね」
「あ、そうなんです。もしかして苦手でした…?」
「いや、そんなことないよ。とても美味しい」
「わ、よかったです…!」
どうやらお世辞でもなく本当に気に入ってくれたようで、もうひとついいかな?と夏油さんにしては珍しくワクワクした表情で催促され、そんな彼に私も嬉しくなって「ひとつと言わずたくさんどうぞ!」といくつものビスケットを差し出した。
そのうち段々と他の共演者の方も集まってきて、そのまま流れで皆さんに配っていればみなさん一様に美味しいと言ってくれた。
幸いシナモンが苦手な人もおらず、スタッフさんも含め全員が食べてくれたおかげで大量に買ってきたビスケットも無事完売。
お菓子で釣った訳では無いけれど、ビスケットのおかげで夏油さんとも他の方とも少し距離を縮められたので、買ってよかったなぁとしみじみ感じた。
「こんなに美味しいビスケット、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだい?」
「あ、夏油さん」
「もし良ければ、購入出来るお店を教えて欲しいんだけれど…」
「もちろんです!ここから近いんですけど、駅前の方に…」
やはりとても気に入ってくれたらしく、お店の位置を伝えようとすると真剣な表情で聞いてくれる夏油さん。
そんなに気に入ってくれたんだ、と嬉しくなった私は次の日撮影にも同じビスケットを買っていったのだが、なんと夏油さんも買ってきてくれていて、昨日の今日で大量のシナモンビスケットでスタジオがいっぱいになっていたのは、今ではとてもいい思い出である。
なんとなく。
まだなんとなくで余りに小さすぎる変化ではあるが、芸人さんにしては珍しい夏油さんの優しい笑顔や穏やかな雰囲気に、少しだけ胸が高鳴る今日この頃。
自分の気持ちの変化には、私自身まだまだ気づけそうになかった。
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(うげ、なんだよ傑…そのビスケットの量)
(おや、悟も食べるかい?)
(シナモンの匂いするし…俺はいらねー)
(それが美味いんじゃないか)
(ケッ!薬食ってるみてぇじゃんかよ)
((と言いつつ苗字さんに貰ったのだからあげるつもりは微塵もないが))
((この顔…絶対ぇくれる気ねぇやつじゃん))
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