ただ君を愛してるからそれだけでいい [ 10/11 ]
「祖が無事に子を産むまで、俺はこの屋敷を離れぬ事にした」
千景の言葉に千月は反対しようとしたが、天霧の手が肩に置かれて彼を振り返った。
すると、何も言わずに首を横に振るのを見て、もう一度千景に千月が視線を戻す。
「ちぃっ…!」
「お前の身を案じて何が悪い?」
「しかし、西の頭領として…貴様には成すべきことが!」
「世継ぎを駄目にしてまでも、現頭領の成すべきことなど知れている。それに、代わりは利く」
ちらっと千景は天霧に視線をやると、彼は静かに頭を垂れた。
それを見た千月はこれ以上何を言っても無駄だとばかりに溜息を一つ。
「解した。ならば、ちぃよ一つ言うておく事がある」
「…なんだ?」
「乳母とやらを用意してくれ」
「ふん、それは容易い。…して、理由は?」
「儂は鬼神を捨て、一介の鬼の子を身籠った。
後鬼が儂の前に現れ、以前の様に共に在る事を望んでいた」
「…祖よ、まさか」
「風間の嫡子は儂が無事に産むと約束しよう。
ただ、その後に儂が後鬼との約束を果たさねばならん…あれが本気を出せば千景も、子もこの里も終わりだ」
「…………」
「神格を取り戻し、儂が後鬼を殺そう」
「千月―」
「無論、儂もただでは済まん。
此処を去り、直ぐに戻らなければ…儂の事は諦めろ」
パシンッ ―
乾いた音が室内に響き、天霧が風間の名を叫んだ。
千月は頬を千景に叩かれて、ゆっくりと視線を彼にやる。
「…貴様っ、俺が世継ぎの為…ただそれだけの為に…お前を妻にしたとでも思っているのか?」
「さてな?儂はその手の感情にはほとほと疎くてな」
「死ぬ事は許さぬ。俺も共に―」
「鬼神同士の戦いに、ただの鬼が介入すれば死ぬ。大人しく子を守っておれ」
「…祖よ、俺は」
「勘違いするな、儂とお前の子だ。死なせる事など許さぬと言うておる」
「…………」
「ただでは済まんと言ったが、死ぬとは言ってない。此処に帰って来る、だから飯でも用意させておけ」
眉を顰めたままの千景の傍に寄り、千月はそっとその身体を抱き締めた。
千景もそっと彼女の身体に両腕を回すと、胸に顏を埋める様に抱き寄せる。
「―必ず、俺の元へ戻れ」
「あぁ、約束だ。千景」
縋る様に、いつになく頼りない紅眼に千月は淡く笑むと額にキスを落とした。
咳払いをした天霧に“出て行け”と唸る様に呟いた千景を千月の鉄拳が制したのは言うまでもない。
――――――――――――――――
桜の花弁が春を謳い舞い散る頃、風間家に嫡子が誕生した。
世継ぎに相応しく男であり、家老も喜び、風間の里の鬼達も祝福に訪れた。
しかし、其処には嫡子を産み落とした母である千月の姿は無かった。
我が子を産み落とし、産声を上げたのを確認すると安心した様に微笑み立ち会った千景に抱かせた。
『…すまぬ、千景。この子を今暫く、任せた』
『千月、』
『ふふ、斯様な心配は要らんぞ。大事な長子の名を、考えておいてくれ』
千景は返事こそせず、千月と我が子を腕に閉じ込めた。
そっと瞳を閉じた千月の額にそっと口付けをおくると、彼女は小さく笑った。
『…愛している、』
『言うまでもなかろう』
“今生の別れでもあるまいに”
そう言い残して笑った千月は、産後で体力が落ちているにも関わらず神格を戻し本来の姿となった。
いつ見ても美しいその姿に千景は目を細めて、小さなその背を見送る。
少し千景を振り返った千月が穏やかに微笑んで告げた。
『―行って来る、千景』
『あぁ、気を付けろ』
風が吹きれ荒れたと同時に、千月の姿はもう其処には無かった。
その感覚に、母が遠くへ行った事を悟ったかの様に二人の子は泣き出した。
本当ならば今すぐにでも追い掛けたい千景だったが、里を思い、子を思い、千月を思えばこそ動けなかった。
追えば何かを失う気がした、それが何かは解らないが今は彼女の力に頼るしかなかった。
そんな不甲斐ない自分に、千景は口の端から血が伝う程に唇を強く噛み締めた。
「………っ、…」
後鬼と対峙し、何とか屋敷に戻って来たあの日の事を思い出す。
天霧も風間も、半ば殺され掛けた事。
鬼でなければ、鬼の回復力が無ければ疾うに死んでいた。
武器が童子切安綱で無ければ、後鬼を退ける事など到底不可能だったのだ。
そんな相手に策も無く、もう一度挑みかかれば次は間違いなく殺されるだろうと。
ただの鬼が相手ならば、千景は誰にも負ける気はしなかった。
後鬼は違う、前鬼の隣に立ち、後れを取らない彼女と同じ鬼神。
格の違いを思い知らされた。
でも、それでも ―
千景は泣きじゃくる子供を抱えたまま、一人思いを巡らせて居ると待機していた乳母に声を掛けられた。
「旦那様、宜しければ御子をお預かり致します」
千景は何も言わずに乳母に子供を差し出した。
手慣れた様子で子供をあやす乳母と我が子の姿に、千景は目を細める。
「…そいつを頼む。風間の次期、頭領だ」
「は、はい!旦那様」
千景はそう言い残して部屋を出ると、廊下で待機していた天霧が顏を上げた。
視線を合わせただけで千景の心情を汲み取った様で、天霧は苦笑した。
「…行かれるのですか、奥方様を追って」
「彼奴とて、無傷で帰れん相手の元へ一人で行ったのだ。
里を守り、世継ぎを守る為に里に残るのは本来であれば千月の方であろう?」
「しかし、奥方様は鬼神で在らせられます。…恐れながら、あの後鬼には我々では太刀打ち出来ません」
「天霧、言ってくれるな。それでも尚、この俺が行く理由など一つしかない」
「…風間…」
「もし、俺が戻らなかった場合…俺の後釜は彼奴をおいて他には居ない、お前が育てろ」
「その様な事を貴方が言うなど、」
「ふん。もし、と言っただろう…鬼の頭領の役目として、次の世代に血は繋げた。
家老共は何も言わぬだろう。俺が、風間千景として愛した女を迎えに行く事くらい」
ふん、と鼻を鳴らす千景に天霧は穏やかに微笑んで見せた。
そして何も言わずに天霧に背を向けて、颯爽と屋敷を出て行く千景の背中を見送る。
「必ず、お二人で戻って来るのですよ。御子の為にも」
天霧の呟きは、穏やかな晴天の下に舞った春風に浚われた。
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