いつか見る空 | ナノ
そうか、とベルトルトは思い出した。

あの……涼しくて、安心する皮膚の感覚に且つて触れたことがあることを。


当時も先程と同じ様に、どうしても離れてほしくなかったから……傍に居てと弱々しく彼女の掌を握っていた。仕様が無いとかなんとか言いながら握り返してはずっと傍にいて、優しくしてくれたのをよく覚えている。


非常に懐かしい感覚に苛まれる。

………そうなんだ。と思った。


………そうなんだ。僕にだって、人並みに祖母や母親に甘えたり父親に憧れたり、時には友達と喧嘩したり……ごくごく当たり前の時代があったんだ。


それを考えると、とてつもなく泣きたくなるような……。そうして……そうなんだ、いつからそれが姿を変えて……不安定な心持ちだけが背丈と一緒に大きく膨らんで、こんなことになってしまったのか。


ああ嫌だなあ、と思う。


今の僕を見ても、彼女は昔と同じとように手を握ってくれるだろうか。傍に居て……惜しみなく、愛していると言葉をかけてくれるのだろうか………。



「ねえ、母さん。」


ぽつりと呟いた声が、頭の奥でじんと響く。けれどそれだけだ。耳には真綿を詰められたような感覚。周囲の音、自分の声すら満足に聞く事が出来ず…自分がどこにいるかも分からなかった。


「………母さんじゃないよ。」


けれど、静寂の合間を縫って同じようにぽつんとした声が返ってくる。………声の主はすぐに誰だか分かった。よく馴染んだ声だ。その方を向こうとするが、いやに身体が重くて首すら満足に動かなかった。だから眼球だけ薄く開けた瞼の下、動かす。………予想通り。


「母さんじゃなくて……ジョゼだよ。」


彼女は夕暮れの茜が斜めに差し込む部屋の中で、ゆっくりと名乗った。薄い灰色の頭髪が毒を吐いたような日と同じ色に染まって儚く光っている。

そんなことは分かり切っている、とベルトルトはぼんやりと思う。「気分はどう」と続けて尋ねられるので、「最悪」と短く答えた。


「…………ベルトルトが、急にひっくり返っちゃうから皆びっくりしてたよ……。」


ややあって、彼女が切り出す。ベルトルトは黙っていた。


「一度も起きなかったのかな。
水も減ってないし……、今の状況、分かる?訓練はもう終って夕方なんだよ………」


ジョゼはベルトルトの沈黙には構わずに続ける。しかし、それきり。元から彼女は話すことが得意では無い。ベルトルトが口を閉ざしている所為ですぐに言葉は途切れてしまう。


静かだった。

静寂の中、ベルトルトは自身の状況を重たい頭の中で整理しようと試みる。


身体の怠さと……背中に感じる固いベッド……しかし寮のものよりはやや清潔な雰囲気が…恐らく医務室にいる…しかしそれも分からないくらいに全身にべっしょりとした不快な汗が………


(なるほど)


これだけ材料が揃えば、朦朧とした思考でも充分に理解できた。


(なるほど、風邪をひいたらしい。)


そこで彼はまたくしゃみをひとつ。先刻の盛大なものとは違い、弱々しいものだった。


「…………。」


ジョゼは黙ってその様子を眺める。………そうして、寝ているベルトルトの額にそろりと触れた。

やはり冷たい指。その心地良さにほっとして彼は溜め息を吐いた。


しばらく彼女はそうしていた後……口を閉ざしたまま、離す。

ベルトルトは緩慢にけれど頑なに、遠ざかろうとしたその掌を掴んだ。


また、静寂が訪れる。


ジョゼは彼の行為に少々驚いたようだった。ベルトルトはただただぼんやりとしながらも、左手の先に捕まえたものを決して逃さないように強く握り直す。


「………何しにきたの」


ようやくベルトルトが口を開いた。

縋るように掴んだ手に宿る不安そうな心表とは正反対に、突き放した言い方である。


「それは……。君が心配だから、様子を見に来たんだよ。」


ジョゼはベルトルトの掌を戸惑いつつも握り返してやった。真摯な口調……彼とは正反対だった。


「それはご苦労……。妖怪みたいな顔してるくせに中身は割と善良…というか小市民的だよね、ジョゼは。」

「しょ、しょうしみん。」

「そうそう、小市民。」


ベルトルトはジョゼが自身の言葉に惑っている様子を感覚して、ほんの少し気分を良くする。

幾度と無く虐めても、彼女がこのように気遣ってきてくれることもまた……彼の気持ちがそっと上昇することに一役買っていた。


(そう……。僕は、ジョゼに好かれているからね。)


そんな根拠の無い自信を抱いて、彼は気怠さの中で満足感を覚える。

なんだかおかしくなって、ジョゼに対して理由もなく「ばーか」と呟いた。「馬鹿じゃないよ……」と短い返事。「じゃあただの馬かあ」と応えれば「……ひどい」と呟いた後、ジョゼは小さく息を吐く。


「まあ……。思ったより元気そうで良かったよ。」

彼女が僅かに僅かに笑う気配がした。続けて、「ライナーも…兄さんやマルコも、結構心配してたから……私も、安心した。」と漏らされる。


(………………。)


ベルトルトの脳内に、今まで忘れていたとばかりに友人たちの顔が過っていった。

それと同時に……今、すぐ傍で自分を思いやっては尋ねてきてくれた彼女は……恐らく、彼らがそのようになっても同じようなことをするんだろうなあ……という感慨が湧き上がる。それは折角愉快だったベルトルトの心持ちを非常に不愉快にした。


その所為か、ジョゼの手を握っていた掌の力が強まった。……少し、痛かったらしく彼女は眉根を寄せる。


「………もう、帰れば。正直君の怖い顔見てると余計に具合が悪くなる。」


握りしめていた手を唐突に離すと、ベルトルトは淡白に言った。

ジョゼは……当然、彼の心理の変化についていけずにびっくりとしてしまった様子である。「え……、いや。でも」と口の中で何かを呟いては、ベルトルトの機嫌を損ねることをしてしまったのかと……その原因を探しているようだった。


………やがて、ジョゼは「そう……。」と諦めと寂しさをない交ぜにした相槌を打つ。

ベルトルトは無反応だった。………自身が彼女にとって特別では無いんだという事実が、先程まで機嫌が良かった分余計に気分を落ち込ませる。何と言うか、裏切られたような心持ちであった。


「………休んでるところ、邪魔してごめんね。」


ジョゼが謝る。……なんだかベルトルトは情けなくなった。明らかに現状は、自分の我が儘が彼女を振り回してしまっている……。それくらいは、彼にも充分理解することができた。

しかし、ベルトルトは彼女にだけはしおらしい態度をとる事が憚られた。何故かは分からない。これも所詮、ただの我が儘なのだろう。


「食欲あるかな……あと少ししたら夕飯だから、君の分を持ってくるから……。食べられるようだったら「いらない」


そんな彼に付き合って、尚根気づよく言葉をかけるジョゼは正直すごいとベルトルトは思った。心の中で拍手を贈る。

しかし、それに反して彼の口先から零れた言葉はひどく素っ気なかった。


「……………………。」


……ジョゼは、遂に黙った。それからゆっくりとベルトルトが横になっていたベッドの傍から立ち去る。その影は深い赤色の光の中で長く細く引き延ばされていた。



(………一体。僕はなにをやっているんだ)


一人になった医務室、押しつぶされるような静けさの中でベルトルトは自分に問い掛ける。当たり前だが返事は無い。


(勝手に拗ねて、ジョゼに当たって………)


まるきり子供である。大きな子供。きっとただ、甘えたいだけなのだろう。自分の気持ちが分かったからといって、それを素直に表現しようとは思わないけれど。


だが、流石にベルトルトもこのときばかりは自己嫌悪に苛まれた。


いや……そもそも、ジョゼが悪いんだ。ジョゼが僕を特別に思ってくれないから。

なんなんだ、優しくしてもらえればそれだけで、誰でも良いのか。……だから僕はジョゼには優しくしたくないんだ。他の人間と同等に扱われるのは嫌だから。


(でも………)


この目論みが成功しているとは言い難い。結局今日も、いたずらに傷付けてしまった。



ベルトルトはゆっくりと重たい身体で寝返りを打つ。毛布や枕は彼の高い体温や汗ですっかり温くなり、湿って不快な感触だった。

複雑に絡まった思考が、先程と同じ様にすうっと地面へと落っこちて行く感覚。

また、ベルトルトは半ば気を失うように眠りへと落ちる。しかし今度は包んでくれるようなあの……優しい冷たさは無い。

たった一人生温い空気の中、内側から溢れるどろっとした熱の気持ち悪さに耐えながら……彼は本当に小さな声で一言「ごめん」と。謝罪を送るべき人物は勿論すでにそこにはいなかったが。


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