おはよう。
朝、顔を洗っていたら後ろから聞き慣れた優しい声。
おはよう、母さん。
そんな風に返事をして振り向くと、予想とはまるきり違う人物がそこにいた。
………母さんじゃないよ。
彼女が言う。やっぱり、とても怖い顔をしている。でも、もう僕はそれに慣れているから……
母さんじゃなくて……ジョゼだよ。
そう続けて、ジョゼは僕にタオルを渡して来た。
急に声をかけないでよ。驚くから。
そんなことを呟きながら、顔を拭いてぼんやりと窓の外を眺める。
一面の濃くて湿った緑。かさついて乾燥したあの……狭い街とはまるきり違う。
あれ、でも何故。何故、僕の故郷にジョゼがいるのだろう。
当たり前のように……共に生活を。
おはよう。良い天気だね。
ジョゼは顔の水分を拭い終えた僕からタオルを受け取って、淡い微笑みを漏らす。
良い一日になるといいね、ベルトルト。
そうして、冷たい熱が僕の身体をゆっくりと抱きとめた。まったく素直に僕も抱き締め返す。
あれ、いつの間に……僕らはこんなに穏やかな関係を。心地良くて、落ち着いて……
それでこの感覚は、ずっと昔に……母さん……いや、もっと、遂さっき……そうだ、
うっすらと瞼を開くと、すっかり乾燥しきってひび割れたお馴染みの天井が目に入る。
水を含んで潤んだ深い緑や、透明に澄み渡る懐かしい景色はもうどこにもなかった。
……辺りは真っ暗で、夜だ。だが感覚的に……夕刻眠りに落ちてからそれほど時間が経っているわけでもないらしいことが分かる……
(夢)
その一言を思い浮かべて、ひどく虚しい気分になった。
だが……あの冷たい熱が未だに続いているような気もする。それは高かった自身の熱がやや下がってきたことにも由来するのだろうが……
(匂い?)
…………嗅覚は、記憶に直結するという。……そうかもしれない。どういうわけか、懐かしい匂いがずっとして堪らない気持ちになる。
ゆっくりと、幾分軽くなった身体で寝返りを打った。
横向きになると頬が固い枕に当たる。……おかしい。あれだけ汗をかいた筈なのに、まだ清潔な感触を齎してくれている。
(………………。)
枕が変わっていた。
医務室に据えられている、使い古されては煎餅のようにぺったりとしたものではなく、固くて少しざらざらとした感覚。あと、僅かにするこの香りは……彼女の、やわっこい髪をぐしゃぐしゃと混ぜてやったときにするのとまったく同じものである。
(蕎麦殻なのか)
道理で、普段使っている綿の枕よりも通気性があって涼しい訳だ。熱があるときには丁度良い。
そうして彼女は蕎麦殻の枕を常時愛用しているのだろうかと考えた。なんというか……年寄り臭い奴である。
(母さんの匂いでは無かったけれど……似ているのは、一応はあれも生物学上女だからなのか…?
女の人は良い匂いがするとよく言うけれど………)
どうにもベルトルトはジョゼという人物を女性と分類したくなかった。釈然としない気持ちでいっぱいである。
そんなことを止め処なく思考しながら、今度は反対側に寝返りを打った。
………そうすると、医務室全体が見渡せる姿勢になる。室内は無人だった。ほんの少し期待をしたことが馬鹿みたいに思える。
(…………………。)
喉が異常に乾いていた。ここは埃っぽくて、とにかく空気がからからとしていて嫌いだ。
比べてしまえば多少不便だけれど、山奥の故郷のほうがずっと…色々なものが豊かだった。
水を飲もうと、サイドテーブルの水差しへと緩慢に腕を伸ばす。
その時にようやく気が付いた。……何かが、白い布に覆われてそこにある。平たい……盆のようなものの上に柔らかい曲線を描いて。
上半身を起き上げて、ガラスのコップに水を注いで一気に飲んだ。もう一杯。
………布をめくって見なくても、中身が何かは分かっていた。ようやく渇きが落ち着いて、三杯目を少しずつ飲みながら、「いらないって言ったのに」と呟く。
「………良い事したつもりにでもなってるのかな、あの馬鹿。怖い顔。」
ここに居ない人物に対しての暴言を並べていく。間抜けな反応を返してくれる彼女がいなくて、やや物足りない気持ちになる。
空になったコップを元の位置に戻して再び毛布の中に潜り込む。
心の内で「あの馬鹿」と再び繰り返した。
すぐにまた思考は、遥か下の方へと落っこちて行く。その最中…満更な気持ちでもない自分がいることに気が付いて、訳も無く悔しかった。
*
「ハックショイ!!」
翌朝…ジャンの隣、マルコの向かいで朝食を摂っていたジョゼが女子らしからぬ盛大なクシャミをした。
「なんだよ汚ねえなあ」
続けて鼻をかんでいる妹に対してジャンは嫌そうに言う。反してマルコは「……随分大きなクシャミだね。大丈夫?」と心配しては彼女を気にかけている様子であった。
「……うーん。なんか、風邪ひいたかも……。」
ジョゼは二枚目のちり紙を取り出してまた鼻をかむ。
「おいしっかりしろよ…。言っておくがオレにだけは伝染すなよ、このえんがちょめ」
「ジャン……そういう大人げないこと言うなよ…。」
わざとらしく彼女から椅子をがたがたと離すジャンを嗜めるようにマルコが呟く。
しかしジョゼの風邪は結構本格的なようで、また大きなクシャミがひとつ。
そうこうしているうちに、ベルトルトが非常に爽やかな趣きで食堂に入ってくる。どうやらすっかり全快したようであった。
そうして……鼻をかんでいるジョゼの様子をちら、と認めてにっこりと笑う。
「ああ、伝染したら治るって本当だったんだねえ。」
どうやら…いや間違いなく、彼女の風邪の出所はベルトルトのようであった。
ジョゼはどう反応したものか分からず、「そりゃあどうも……」と曖昧な返事をする。そうして、またクシャミ。
「ほらあ、僕からもらった風邪だよ、有り難いとは思わないの。プレゼントだよ。」
元気になったベルトルトはいつもに輪をかけてうざったくジョゼに絡みに行くようである。
その様子をライナーはまたまた巻き込まれないように遠くから見守っていた。胸の内で頑張れと、彼女に力強いエールを贈りながら。
「まあ…でも昨日は僕、結構ジョゼに世話になったからね。恩に感じていない訳じゃない…。」
そんなことを呟きながら、すっかり鼻の頭を赤くしてしまっている彼女の元へとベルトルトはのっそり近付いていく。
何をするのかとマルコ、ジャン、そうしてジョゼは様子を黙って見ていた。
「ひえ……」
悲鳴とも喘ぎともつかないような微妙な声が、ジョゼの口から漏れる。
彼女の身体は軽々とベルトルトに米俵のように担がれてしまった。身の丈のある彼女をこうも自由に扱えるのは男性を含めても数少ない為…ジョゼは慣れない体験に困惑を隠せないようである。
……一拍遅れてジャンとマルコが「…はい?」「なっなんだ」と頓狂な反応をする。
「だからさ、恩返しに今度は僕が湛然に看病してあげるよ。そりゃあもうかわいがってあげるからさ」
いつもよりも心持ち体温が高くなってしまっているジョゼを抱えながらベルトルトは機嫌良く言った。
「ちょっ、待っ」と勘弁して欲しい旨がジョゼの唇から零れるが、それが彼に伝わることは無かった。
「というわけで僕、ジョゼを医務室に連れて行ってやるから…あとヨロシク」
呆然としていたマルコとジャンにそれだけ言い残して、至極楽しそうな面持ちで食堂を後にするベルトルト。
我に返ったジャンとマルコが非常に焦った様子で、追いかけてはそれに続いていった。
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