……………それからどれ程経っただろう。
一時間と少しくらいかな。
とりあえず、まだ交代の時間では無かった。
後ろから人が動く気配がしたかと思うと、やがてゆったりとした足音が近付いてきた。
そして、火の番をしていた僕の隣に腰掛ける。
……………互いの肩口が触れ合うほどに、ぴったりとした距離だった。
少し驚いたが、周囲の静けさも手伝って穏やかな気持ちでそれを受け入れる。
「どうしたの。」
そう尋ねては、僕の方からも少しだけ彼女のほうに身を寄せた。
「……………………。」
少しの間ジョゼは黙っていたが…やがて一言、「ちょっと、寒いから……。」と零しては焚火に掌を近付けて、かざした。
それを聞いて、ああ…そう言えば彼女は寒さに弱かったな…ということに思い当たる。
だから自らの膝にかけていた毛布を広げ、その肩にかけてやった。
するとジョゼが片側のほうを持ち上げて僕を招くようにする。
…………少し、躊躇したがそれを享受した。
こうして僕とジョゼは一枚の毛布に抱かれるようにして、ひっそりと身を寄せ合う形となった。
外では、相変わらず雪が深々と降り続けている。
この寒さでは、きっと降る傍から凍っていってしまうのだろう。
冷たくて静かで、少し神秘な夜だと思った。
洞窟の入口から僅かに覗く空には青い星がひとつ、北の方角を表して微かな光を投げ掛けている。
「マルコは温かいよね。」
しばらくして、ジョゼがぽつりと呟いた。
降り積もっては消えていってしまう氷の結晶のように儚くて、それでいて優しい声だと思った。
「……ジョゼの体温は、ちょっと低いよね。」
そう返すと、彼女は微かに首を動かして頷く。
「うん……。だからマルコと一緒だとすごく温かくて気持ちが良い。」
「僕は懐炉じゃないんだけどなあ……。」
「………寒いときだけじゃないよ。いつもそう。
マルコといると、色んなところが温かくて……すごく幸せな気持ちになる。」
ジョゼはいつもの平坦な口調で、淡々と語った。
僕は……身につけたマフラーから漂う彼女の色濃い気配と、すぐ隣にその本人がいる事実と……更には沢山の思いがけない言葉たちによって、何だかもう、色々なものが堪らなかった。
雪はずっと降っている。息を吸い込むと冷たい空気で肺が痛い。
そして目頭の奥がじんと熱くて、泣きそうになった。
…………ジョゼの初恋は、且つて昔の…トロスト区にいた頃、僕が顔も名前も知らない少年なのかもしれないけれど……僕の初めての、それでいてきっと最後の恋の相手は、間違いなく君なんだよ。
強い強い、そんな確信が胸の中から始まって全身を巡り、息もできないくらいだった。
ジョゼのことが好き。
その想いが強いからこそ、本当に小さなやきもち…それすらも根が深い嫉妬へと変わってしまう。
…………悔しくて、でもそれをどこにぶつけて良いか分からなくて…また少し、自分の唇を噛んだ。
――――――いつの間にか固く握ってしまっていた掌が、自分よりも少し低い体温に包まれていたのに気が付いたのは、それからしばらく経ってからだった。
ジョゼはただ僕の手の甲の上に触れるようにして、掌を置いている。
それから、「やっぱりちょっと、寒いね……。」と呟いた。
僕はそれには何も応えず…辺りは再び静寂に包まれる。
雪の合間に吹いていた風は、すっかり弱くなっているらしい。
「……あ、あのさ。」
そこで僕はついに口を開く。
ジョゼはゆっくりとこちらを向いて、言葉を聞き届けようと、待っていた。
「ジョゼはさ、初恋の人のことって……覚えてる?」
ゆっくりと零された僕の言葉に、同じようにゆっくりと瞬きをされる。
それから、「急に……どうしたの。」と不思議そうに尋ねてきた。
「いや……なんとなくというか…ちょっと、ジャンに聞いて。」
罰が悪くなってきて、尻すぼみになる言葉で応えると、彼女は「兄さんが。」と言葉をそのまま繰り返した。
「うん……。ジョゼが昔に、その…好きな人がいて……。その人に手紙を…………」
書いたことがあるって。
そこまでは、なんだかもう声に出すことが出来なかった。
……………ジョゼは肩にかかっていた毛布を自身へと、そして僕にも巻き直してから…煌々と橙の光を燃やす焚火の方を見た。
それから次に、雪が降りしきる洞窟の入口の方を見る。
その横顔には相変わらず黒い影が落ち込んでいて、表情はよく伺えなかった。
けれど、寒さから鼻の先が少しだけ赤くなっている。
そこにわずかな日常の気配が残っているような気がして、妙にほっとした気持ちになった。
「ああ。」
ふいに、ジョゼがぽんと掌を打ち鳴らして声を上げた。
全くもっての静寂に急に湧き起こった声に驚いて、僕は少しだけ肩を揺らす。
「そういえばあったね。……そんなこと。」
ジョゼはしみじみとそう言っては、二、三度頷いてなにかを感じ入るようにした。
…………僕は横目でそれを眺めながら、「……今でもその人のこと、気になる…?」となんとも女々しい質問をしてみせた。
するとジョゼは繁々とした表情で僕の方を見ては、くすりとおかしそうにする。
表情の変化が少ない彼女にしては随分とよく笑ったものだったので…僕はそれを珍しいものを見る気持ちで眺めた。
「どうだろうね…。マルコに言われる今の今まで思い出せなかった人のことだし。
それにあれは初恋なんて大それたものでもないと思うよ……。」
ジョゼは尚も面白そうにしていた。
けれど確かに、その瞳の中では懐かしそうな光が微かに宿っている。
「でも……明るくて楽しくて……いつも一人でいた私にもよく構ってくれる面倒見の良い人だったなあ……。」
彼女が穏やかな声で、一言一言名も知らぬ少年のことを振り返る度に、ひどく胸が痛んだ。
「両親が仕事で……どこだっけ……とにかく、どこか遠いところに行くっていうから、お別れする時はちょっと寂しかったね。
…………でもあの子もそう言えば憲兵になるのは憧れなんだ…なんてマルコみたいなことを言ってたから、もしかしたらどこかで思いがけず再会しちゃうかもね。」
………………どうか、そんな時は一生来ないで欲しい。
ジョゼには悪いけれど、心の底からそう思った。
そしてまた……少しの沈黙。
ジョゼは奴のことを思い出しては懐かしんでいるのだろうか。
……………また、会いたいとか……そんなことを、思っているのだろうか………。
幼い頃、きっと今よりももっと引っ込み思案で人見知りだったであろうジョゼが、一生懸命に手紙を綴った人物のことが羨ましくて仕方がなかった。その人になりたいとすら思った。
自分の中に、こんなどうしようもならない我が儘な子供のような感情が潜んでいたなんて、今この時に初めて知ってしまった。
……………あまり、知りたくはなかった。
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