頭の上に影が出来て……今まで身体に降りしきっていた冷たい雨が遮られた。
何かと思い、少年は後ろを向く。……あまり馴染みの無い人間が自身を傘で降雨から守っていた。
「…………………。なんだよ、お前。」
本来なら礼を述べるべきなのだろう。しかしそのとき彼は非常に機嫌が悪かった。
その上……元よりこの鉄面皮の女が苦手だったのだ。それの兄は輪をかけて嫌いである。
(確か、名前はジョゼ…だっけ。いっつもジャンの後ろにいて存在感あまり無い奴……)
「う……ん。ほら、雨降ってるから…。偶然君を見つけて………うん。」
(………すげー、一年以上一緒に生活してんのに初めて話したよ。)
そうして、想像通りに喋るのは下手なようである。言いたいことは分かるが会話が弾むタイプとは思えなかった。
「別に頼んでねえよ」
すげなく応えると、そっかと短い返事をされる。
雨脚は強くなるようで、ぼたぼたと傘を打ち鳴らす音が派手に響いた。
「でも……どちらにせよ早く屋根があるところへ。濡れ続けると風邪をひいちゃう。」
「…………………。」
少年は何も応えない。
ジョゼはその場で待った。放っておいて欲しいことを察する器用さを生憎彼女は持ち合わせていないらしい。
やがて、伏せられた彼の視線を辿ってジョゼは地面のある一点を眺めた。
二人は同じ傘の下そこをじっと見つめる。………そうやって少しの時が経過した。
「鳥を……埋めたんだ。」
やがて少年はぽそりと呟く。盛り土にはひとつ細い枝が刺されていた。
強くなってきた雨に煽られ斜めに倒れていくので、ジョゼは空いているほうの手で軽く直してやった。
「羽を怪我してたから…少し面倒を見た。でも駄目だったな、中々治らなかったんだ。」
元より俺はそういう専門知識は無いし……と呟きながら、少年は何故この女にこんな話をしているのだろうという気持ちになる。
ジョゼは……相変わらず無反応で相槌ひとつ打たない。けれど聞いているのだろう。
気付くと、鋭い形をした瞳がこちらを真っ直ぐに見ていた。
(怖い顔だな)
改めて思った。………この近寄り難い雰囲気で割と損をしているんだろうな、とも。
「餌をやるうちに懐かれちまったから……仕方無くっていう感じでそれがひと月くらい続いたかな。
で、今日来たら……猫にでもやられたんだろうな、飛べない鳥ほど不自由なもんは無いから……」
雨が物言わぬ岩や樹木たちをしとどに濡らして、辺りはすっかり灰色だった。
ずっと少年を眺める彼女の瞳だけが深く鮮やかな色を湛えているような。
「俺……さっきまで座学の補習を受けてた。だからいつもよりこれのところに来る時間が遅くなったんだ。
サボらないで補習なんかに引っ掛からず、いつも通りに来てれば………とか。」
ジョゼが何も言わないので、少年は話を続けた。
誰かに聞いてもらえることで多少救われた気持ちにもなる。
そうして、こういうときに相手をしてもらうのは親し過ぎない人物のほうが良いのかもしれない。
俺の所為かな……と最後に囁いて彼は口を噤んだ。
ジョゼはただしんとしてその様を静観していたが、やがて傘の柄をより近くに差し出してくる。
持っていてくれということか。
少年が受け取ると、彼女は屈んで足下から小さな野花をひとつずつ摘んでいく。
名前は知らないが……よく見かける、白く小さな花弁をしたものだ。
ジョゼは五、六本のそれらを丁寧に編んで掌に収まるくらいの花輪を作る。
その様をぼんやり眺めながら……そういえばこの女はやたらと手先が器用なんだっけ、ということを思い当たる。
顔に似合わず繊細な仕事が得意で、技巧術の成績はかなり良かったよな……。
「………君の所為じゃないよ」
ようやく彼女は口を開いた。盛り土の上、真っ直ぐになった枝の傍に花輪を置いてから立ち上がる。
視線は土の上に再び落とされていた。
「ひと月怪我が治らないんだったら……どのみち避けられない運命だよ。野生の動物にとって…
だからよく生きたほう……それに幸せだったんじゃないかな。」
ジョゼは少年のほうへゆっくりと手を伸ばしてから、傘をありがとう、と言う。
返してやるときに触れた掌はお互い濡れていた。
「それに鳥は空を飛んで生きるものだから……人に餌をもらって生命を長らえるのは、少し違うよね。」
雨をどんどんと降らせる、濁った色をした空を彼女は見上げる。
少年はやりきれない気持ちでそれを聞いていた。空気はまるきり冷ややかなのに関わらず、眼球の奥がじくじくと熱を持って痛む。
「俺がしたことは……無意味だったのか。」
呟けば、ジョゼは少々眉根を寄せつつ首を振った。
「…………それは、すごく難しい。」
「いや……分かってた。折れた翼じゃ仕方無いんだ。」
彼女がポケットの中をごそごそと探してハンカチをくれる。
白くて糊がされていた。………少しやり過ぎだ。固くて頬がひりひりした。
暗い雨が傘をずっと打ち鳴らしている。
ジョゼが小さく「悲しいね」と零すので、頷いた。
「それで……君は優しい人だ。」
彼女は続けて言ったきり沈黙する。灰色に染まった樹木たちと同じように静かだった。
そうして少年は立ったままで泣いた。けわしい興奮や悲しさが、雨で徐々に溶かされていくような心地のままで、ずっと。
*
「…………通り雨だったみたい」
先程とは打って変わって爽やかな色になった空を眺めて、ジョゼは傘を畳んだ。
時刻はもう夕刻らしい。空模様は緋色と藍色のちょうど間をしていた。
「悪いな……。付き合わせて。」
そう零して少年はハンカチを返そうとしたが、それが自らの涙と鼻水でべっしょりしていることに気が付いて「…………洗ってからのほうが、良いか」と尋ねる。
「いや……良いよ。気にしないで」
ジョゼは表情の変化無しにそれを受け取った。
彼は「悪い」ともう一度謝る。
「…………そろそろ、戻らない。夕飯がもうすぐだから」
「そういえば腹が減った」
「まあ……泣くとお腹が減るものだから。」
行こう、と言われて少年は続いた。……彼女の隣に並んで横顔をじっと眺めてみる。
怒っている……のか。いや、元からこういう顔か。可哀想だな、本当にこの凶相で損をしている。
「…………何かなあ。」
あまりにもじろじろ見られるので、少し困ったようにジョゼが尋ねる。
少年は「いや……」と弁明するが、尚もその顔を観察し続けた。
「…………………。お前、よく見るとそこそこ良い女だな。」
「えっ」
「ちょっと笑ってみろよ」
「…………………。」
(……怖っ)
ジョゼにとっては精一杯の笑顔らしい引きつった表情に対して……呆れたあとに何だか笑ってしまう。
強い雨に打たれたにも関わらず随分と清々しい気持ちで、少年は新しい友人の隣に並んで食堂までの道を辿った。
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