それから少ししたある夜、マルコはベッドの中にて頭の後ろで掌を組みつつ天井を眺めていた。
(……………。やっぱり、ちょっと声をかけてみようかな。)
思い浮かぶのは、日中のジョゼのしょんぼりとした表情だった。
(なんなら、僕が一緒に…ジャンの代わりで良いから、君の家まで付き添ってあげようかって……)
――――その晩のジョゼは…あからさまに落ち込んでいた。
いや、ジャンから家には帰らない旨をはっきり宣言された日から彼女のテンションはいつも以上に低いままだったのだが、今夜はまたそれが格別だった。
…………と、いうのも。ジャンが、折角尋ねて来た母親を追い返してしまったのである。
その時に偶然席を外していたジョゼは久々の母との再会を果たす事はできず…更に、こうも頑なに兄が家族を遠ざける事に若干ショックを受けてしまったらしい。
ジャンのそんな態度の理由は、勿論思春期独特の反抗心からくるものなのだが…反抗期と呼べる反抗期が無かったであろうジョゼにはそれが理解する事ができず、ただ項垂れてしまうばかりである。
(………こうも落ち込んでるジョゼを一人ぼっちで家に帰すのは何だか可哀想だし…)
そんな事をうだうだと考えながら、寝返りを打った。
視界は、灰色の夜色に染まった木造の天井から、目下の悩みの原因とも言える茶色がかったグレーの頭髪の持ち主の後頭部へと移る。
(くそ…人の気持ちも考えずに気持ち良さそうに寝て…)
マルコは胸中に若干いらっとした感慨を抱いた。
全く……お前は。僕が心から欲しがるものを持て余す程手にしてると言うのに、何がそんなに不満なんだ。
溜め息をひとつ吐いて、そっと目を伏せる。……もう、良い時間だと言うのに眠気は一向に訪れない。
(ジョゼの事が可哀想…とか。そういうのは、多分建前だよな………)
唇からは気怠げな溜め息が再び漏れた。窓の外からは何処かの草の間で鳴いているらしい虫の澄んだ音が聞こえる。
(僕は……少しでも良いから、ジャンよりも、いや…ジャンと同じ位で良いから……ジョゼとの距離を近付けたいだけなのかもしれない…。)
だから、この街に来れたのは何かのチャンスだと思った。
彼女の故郷で、僕が与り知る事の出来なかった…ジャンと、君の二人だけのものだった思い出に、少しでも入る余地を見つける事ができたらって……
(………やっぱり。……ジョゼに声をかけてみよう。)
言ってしまえば、簡単な事だ。ジョゼは僕の事を好いているし、とても懐いてくれている。ジャン程ではないにしても。
………きっと、快く…むしろ喜んで僕の同伴を受け入れてくれる筈だ。
(でも…緊張するなあ………。)
厚かましく思われないだろうか。……何より、好きな子の実家という非常に親密な距離感を彷彿とさせるところに出向くのは……その。なんというか………。
(照れる…………。)
自然と、顔には熱が集まってくるので……しばらく、そのじわりとした感触に感じ入る様に目を閉じた。
(でも……少しは頑張って…距離を縮めないと…今回は、またとないチャンスなんだから……)
このままでは、僕とジョゼはただの友達として終ってしまう可能性が非常に大だ。
いや…今の仲の良い距離も居心地は悪くは無いのだが………。………それでも。
(僕は……もっと近く……。本当は、一番近いのが良いんだ。)
目を開けば、やはり隣のベッドで寝ている人物の茶色がかった頭髪が目に入る。グレーの薄闇の中、それは今だけ彼の妹の柔らかな髪と同じ色に見えた。
(ちょっと勇気出して……ちゃんと、声をかけてみよう。)
なんとなく胸が苦しくなって……今はジャンを長い間見る事が敵わず、マルコは再び瞳を閉じる。
胸の奥がいつかと同じ様にちくちくと痛かった。………この気持ちの正体を、マルコはもう……充分過ぎる程知っている。
(うん……。そうしよう。)
その痛みが、より今の自分の立ち位置への不満を感じさせてしまう。
……マルコはベッドの中、小さく頷くと、毛布を耳の辺りまで引っぱり上げて、強引に自身を眠りの中へと沈めようとした。
*
「………ええ?兄さん、それ……本当……!?」
ジョゼの三白眼気味の瞳は現在……細かい光の粒子でいっぱいに満たされていた。
きらきら、という彼女に非常に似合わない効果音が聞こえてきそうな勢いである。
「おう……。オレも、明日には家に帰るよ。」
ジャンの答えに、ジョゼは感極まったのか思わずジャンの首に腕を回して力強くそのその身体を抱擁した。
「お前等二人は本当に仲良い兄妹だな……」
その様子を呆れた様に眺めるライナー。料理対決の疲れが少々、表情からは垣間見える。
「……ジョゼ。貴方いくつなんですか。そろそろ兄離れした方が良いと何度も言ってるでしょう!」
そんなんじゃ将来ジャンの子を産むハメになりますよ!と何やら問題発言のサシャ。周囲は疲労もあってかそれをスルーする。
「でもよ。あんなに家帰るの嫌がってたのに急にどうしたんだ?」
そしてコニーが少々不思議そうに尋ねた。
ジャンは自らに嬉しそうに身を寄せる妹の髪を若干乱暴に撫でてやりながら、「……ちょっと、思う所があってよ…」と何処か照れ臭そうに答える。
「ああ!さてはお母さんが恋しくなったんですね!!」
「やっぱりな!ジャンは甘えん坊だなあ〜」
彼の反応を面白可笑しく受け取り、からかい出すサシャとコニー。
ジャンは「違えよ、馬鹿!!」と二人に向かって怒鳴り散らすが…その表情はいくらか晴れ晴れとしていた。
「きっと…母さんも父さんも、兄さんの事を待ってるよ…。とっても喜ぶ筈…!」
ようやく満足したのか、ジョゼはジャンの身体から離れる。
無表情ながらもその頬は紅潮しており、彼女がいかに喜びの只中にいるかを伝えていた。
ライナーはなんとなく微笑ましい気持ちになって会話を交わす兄妹を眺める。
………やはり、故郷というのは良いものだな、という少しの感慨を胸に抱きながら。
――――――
(………そうか。ジャンは、帰るのか。)
そんな楽しげな場の雰囲気を遠巻きに眺める人影がひとつ。
(良かったな……ジョゼ。)
そう思って、マルコは無理に笑顔を作ろうとした。だが……それは中々に困難を極める。
結局マルコは……トロスト区での訓練期間中、ジョゼに対して誘いを持ちかける事ができずにいた。
だが、今日という今日は…遂に意を決して彼女に言おうと思っていた矢先にこれである。出鼻をくじかれたのも良い所だ。
(でも……そうだよな。これでもう……僕がジョゼの実家についていく口実は無いもんな……)
あくまで、建前はジャンの不在に寂しがるジョゼに付き添うという形だ。
よって……ジャンが帰ると宣言した今…その建前は意味を成さないのであって………
(………ジョゼ。嬉しそうだな。)
更に言うと、今のジョゼの表情は且つて見た事の無い位生き生きとしていた。傍目には分かりにくいかもしれないが、過ごす年月が他の人間より多い自分には分かる。
ジョゼをああいう風に喜ばせる事のできる人物は、ジャンだけだと………。
(なんで………。)
またしても、溜め息。相手は血の繋がっている人間だ。こんな気持ちを抱くのは間違っている。
でも……それでも。そうは思わずはいられない程、あの二人は強い絆で結ばれているから………
(駄目だ……。今はまだ。………とても。)
首をゆるゆると左右に振って、マルコは彼等に背を向けて駐屯所への道を辿り始める。
そんなマルコの寂しい後ろ姿に、その場にいた人間は誰一人として気付く事は無かった。
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