ジョゼは、湿った長い髪をタオルで拭いながら部屋へと戻った。
先程の憂鬱な気持ちは少し無くなっていたが、未だに小さな溜め息が吐息の様に口から漏れるのを止める事はできなかった。
―――――部屋の中は、真っ暗だった。
そしてきちんと整えられ、無駄な物は何も無い。ジャンの部屋とは随分違う。
だが、ジョゼはどういう訳だか整頓された自分の部屋よりもやや乱雑なジャンの部屋の方が好きだった。
…………今日は、兄さんの部屋で、久しぶりにお喋りする事ができた。
ほんのそれだけの事が、ジョゼにとっては例えようも無い嬉しさとなって体を巡っていく。
だが……それと同時に自身の悩みも同じ様に細かな粒子になって、血の管の中に浸透してくるのを感じてしまった。
ジョゼは目を伏せて首を左右に振り、その思考を追い出そうと試みるが……それはしつこく、胸の内にわだかまり続ける。
(…………………。)
今まで………ジョゼは、仕事で家を空けがちな父の分まで、自分たち兄妹二人の面倒を細やかに見てくれる母を手伝い、手を煩わせない様に勉学に懸命に取り組み………
そうしてさえいれば、周りも喜んでくれるし、自分自身もはっきりと正しい事をしている、という実感を持って生きて行く事ができたのだ。
だが、それが急に突然『もう少し自分の好きな事をやっても良いんだよ。』だなんて言われると、今までの自分は何だったのか……
そして、何の目標も無くただ真面目にやってきた、それ以上でもなくそれ以下でもない至極つまらない自分に急激に気付かされてしまったのだ。
(きっと、逃げてたんだろうなあ………)
兄さんみたいに、沢山の事に挑戦しては挫折して、また諦めずに立ち向かっていく………
そう言う事をする勇気が無かったから、ただ愚直に、判で押した様な毎日を過ごして今日まで生きて来たのだろう。
―――――ジョゼはそのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。髪は未だに湿っているらしく、頬にひやりと冷たい感触を齎した。
そっと目を閉じると途端に睡魔が襲ってくる。…………駄目、ちゃんと髪を渇かさないと………とかなんとか考えながらも、ジョゼはあっという間に眠りの淵へと転がり込んでいってしまった。
*
コン………と何処かをノックする様な音でジョゼは浅い微睡みからゆっくりと覚醒する。
横になったままの姿勢で天井をぱちくりと見つめていると、またまたコンコン…という音が。
ぼんやりとしながらその音が更に重ねられていくのに耳を澄ましていると、徐々にそれは大きくなっていき、最終的には暴力的と言えるまでに変化していった。
(な、なにごと………。)
流石のジョゼもようやくよろよろと起き上がって靴を履くと、音の出所を確かめる為に室内をぐるりと見渡す。
そして…………発見する。窓越しに憤怒の形相でこちらをねめ付ける兄に姿を。
(えっと………。)
ジョゼは思わず一瞬固まる。………が、更にジャンが振りかぶって窓ガラスを叩こうとするので慌ててガタガタと錠前を外してそこを開けてやった。
「起きてんならとっとと開けろこのボンクラ!!」
「痛い!!」
そして炸裂する兄の頭突き。ジョゼは昼と同じく額を抑えて痛みからぶるぶると震えた。
「に……兄さん。こんな夜中に一体何を…「ぶっはあ、それよりお前すげえ頭してるぞ台風の目にでも頭突っ込んだか?」「兄さん、台風の目は無風だよ。」
ジョゼは、充分に渇かしきれなかった為に妙な癖がついてしまった自分の髪を整えながら目を伏せた。
…………全く。兄さんは本当にいつもいつも予想外の事を仕出かしてくれる。
「というか兄さん……ここ、二階………」
ジョゼが窓から身を乗り出して彼の足下を見ると、そこには梯子が据えられていた。………こんな夜中に、うちの兄は本当に何やってるんだ、とジョゼは呆れ半分でジャンの事を眺める。
しかし彼は妹からの視線の意味に気が付いていない。何処か得意そうにふふん、と鼻で笑ってみせる。
「………っと。早くしねえと夜が明けちまう。ジョゼ、行くぞ。」
そう言ってジャンはするすると身軽に梯子を降りていく。ジョゼは未だにぼんやりとしながら、ただその光景を眺めていた。
しかし、地面に降り立ったジャンが笑いながらこちらを見上げるのでハッとして目を瞬かせる。
彼はこちらに来い、と手招きしては楽しそうにしていた。………その様子に、ジョゼは心の何処かが心地良い熱を持つのを感じる。
こくりとジャンに頷いて応えると、ジョゼもまた梯子へと足をかけ、湿り気を帯びた夏の夜の空気中へと降りていった。
→