「兄さん……待って……!」
夜の道をまるで真っ昼間の様にさくさくと歩いていくジャンの後を、ジョゼは少し息を切らしながらついていく。
やがてジャンは足を止めてこちらを振り返ってはそんなジョゼをじっと見つめ、おもむろに右掌を差し出して来た。
(…………………。)
ジョゼは、少しの間それを見つめると、柔らかく笑って左手を重ねた。少し骨張っていて、自分よりいくらか体温の高い兄の掌がジョゼは大好きだった。
……………二人で並んで歩くのは久しぶりである。
それはジャンが部屋に引きこもりがちだった事もあるが、思春期故の気恥ずかしさからか人前で手を繋ぐ事を、彼は最近良しとしてくれなかったから………
「兄さん、何処行くの」
ジョゼは久々に繋がれた嬉しさからぎゅうとそれを握りしめて尋ねる。
ジャンは質問に答える事はしなかったが、同じ様に強くジョゼの掌を握り返してくれた。
やがて二人は沢に差し掛かる。そこでようやくジャンは口を開いた。
「ジョゼ。こっからは目瞑れ。」
そう言う彼の表情は暗がりながらも何処か楽しそうにしているのが分かる。
ジョゼは言われた通りに目を閉じた。すると、肌に絡む様な夜の空気がより身近に感じられる。そしてもうひとつ、左掌の先の温もりもまた。
少し、手を引かれて歩いた所で「開けていいぞ」と耳元で囁かれる。思った以上に兄との距離が近かった事に驚いたジョゼは、思わず肩を震わせる。
その反応にジャンは悪い悪い、驚かせちまったな、と愉快そうに笑った。
ジョゼは、もう……と溜め息を吐いてゆっくりと瞳を開ける。しかし、眩しい光が目に飛び込んだのですぐに閉じてしまう。
ん………?眩しい?夜なのに………??
不可思議に思ったジョゼはもう一度確かめる様に目を開いた。
そして次に、だらしなく口も半開きにしてしまった。
しばらくジョゼは………そのままの状態でぽかんと沢を背景にした風景を眺めていた。
ようやく小さく口にした一言は、「………すごい。」だった。そんなありきたりな一言しか言葉に出来ない程、眼前の光景は美事なものであった。
「すごいなあ………。トロストも開発がどんどん始まっちゃって、蛍なんてもう見れないものだと思ってたんだけれど……そっか。ここにいたんだ……」
水に打たれた青草に縋る何匹もの首筋の赤い蛍を眺めながらジョゼは静かに漏らす。その横顔を青白い蛍光が儚く霞めていった。
「どうだ。すごいだろ。」
ジャンは至極得意そうにジョゼへと告げる。予想通りの妹の反応に大変満足している様だ。
「うん、凄い……。」
ジョゼもまた素直に返事する。辺り一面、星を散らした様な光景にただただ圧巻されながら。
「綺麗だろ?」
ジャンは更に質問を重ねた。
「……うん。綺麗。」
「楽しいか?」
「勿論だよ……。」
「もう、つまんなくなくなっただろ?」
「うん。………え?」
そこでジョゼは沢に来てから初めてジャンの方へと視線を寄越す。じっと見つめると、照れてしまったのか彼は目を伏せた。繋がれた手には少しの力がこもる。
(………兄さん。私を元気づけようとしてくれてるんだ………。)
それを理解すると、ジョゼは胸の中に今晩の空気の様に温かく湿ったものが広がるのを実感した。
嬉しくてたまらないのにどう伝えて良いか分からず、ジョゼは空いている方の掌で胸の辺りをおさえて俯く。
「その……な。」
そこでジャンが躊躇いながらもゆっくりと口を開いた。
「お前は確かに何かが突出してできる訳でもねえし、話しててもイマイチ内容が纏まってなくて何言ってんのかよく分からねえ時もある。秀でた特徴は顔の怖さ位だしな。」
「ひどい……。」
突然の罵倒の嵐にジョゼは思わず力ない声を上げる。
「でも、オレはお前をつまらない人間だとは思わねえよ。」
ジャンは必死で照れを我慢しているらしい。ジョゼの掌を握る手はもはや痛い程に力がこもっていた。
「………何て言うか……オレは、その。お前といて結構、楽しいしよ。」
それだけ言い終わると、ジャンはちらりと横目でジョゼを眺める。
……無反応である。
あれ……おかしいな。オレ、今結構良い事言ったよな?
やがて沈黙に耐えきれなくなったジャンが「だから、その」と再び口を開く。
しかし、それを遮る様にジョゼが「兄さん」とジャンの事を呼んだ。
彼女はゆっくりとジャンの瞳を見つめると、ごく自然な所作で繋いだ掌を離して両腕を彼の首に回す。
突然の事にジャンは体を強張らせるが、首筋に埋められたジョゼの頭部から小さな息づかいと共に「大好き」という愛おしそうな声が聞こえると、何だか溜まらなくなってしまい、自分からも妹の体に腕を回してやった。
自分よりも頼りなく、柔らかな体である。髪からは石鹸の匂いが微かに漂い、沢の湿った土の香りと混ざり合っていた。
ジョゼはもう一度「大好き」と呟く。
それに応える様に体が抱かれる力が強まった。
…………ジャンの首筋から顔を上げると、やはり蛍が光彩を滲ませながら点いたり消えたりを繰り返す、見事な景色が周りには広がっていた。まるで光の澱である。
ジョゼは、今この日の景色を決して忘れない様にしようと、それを懸命に瞳に焼き付けた。
そして毎晩の様に思い出しては、兄さんに元気づけてもらった事を思い出そう。そうすれば、これからどんなに辛い、苦しい思いをしても……きっと今日みたいな楽しい気持ちになれる筈だから。
「……オレも、お前の事が好きだよ。」
呟く様な、変声期を終えて以前より低くなった兄の声が耳元でする。そして、それと同時に優しく頭が撫でられた。
…………今日、兄さんが私を慰めてくれた事を、いつか必ず恩返ししよう。
その時に、ジョゼの胸の中にひとつの決心が生まれた。
ううん。今日の事だけじゃない。兄さんは今まで私の事をいっつも慰めたり元気づけたり…甘えさせてくれた。
だからこれから、少しずつ返していかなくちゃ………
『もう少し自分の好きな事をやっても良いんだよ。』
ふいに昼間の母親の言葉が脳裏に響く。
うん………。母さん。私、これからは好きな事をするね。
ジョゼはゆっくりジャンの体から離れると、お返しと言った体で兄のふさふさと手触りの良い髪を撫でてやった。
当然ジャンは「何するんだよ」と困惑してジョゼの手を振り払う。彼女は淡く笑って「何でも無いよ」と穏やかな声で言った。
……………大好きな兄さんの傍で、一番の力になる。
これからは、その為に努力して、生きていく事にしよう。
ああ、兄さんは本当に凄い。私の心の中にあんなに渦巻いていた不安を取り除くだけじゃなくて、これからの道も示してくれるなんて。
「兄さんの妹に生まれて、本当に良かったよ。」
ジョゼがそう言えば、気恥ずかしさの境地に達しているらしいジャンは最早何も言わずにただジョゼの頭をわしゃわしゃと掻き混ぜる様に撫でた。
乱れた髪を整えながらジョゼは三度沢の光景を眺める。
蛍の大群はざあざあと音を立てて波打った。そして強風に撒き上げられては光の水飛沫の様に辺りに降り注ぐ。
視線はそのままで、「また、来ようね」と言えば、ジャンは「おう」と朗らかに応えた。
二人の掌はいつの間にか再び繋がれており、やはり握り合う力も強いものだった。
やがて兄妹はそのままそこに座り込み、時間を忘れて実の無い話に興じていく。
暁の中に最後の光を霞の様に溶け込ませ、数多くの蛍の命が尽きるまで、会話は途切れる事なく続いた。
ねっしー様のリクエストより
原作13巻の限定版DVDネタで書かせて頂きました。
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