…………その夜。ジャンの部屋の扉が音も無く開くと、ジョゼがよろよろとした足取りで中に踏み込んで来た。
「ノックしろよ。」
ベッドに寝そべっていたジャンがやや苛立たしげに彼女に告げる。
しかしジョゼはそれを無視してベッドの傍まで歩を進めると、床に座り込んでベッドにぼすんと頭を乗せ、ぴくりとも動かなくなった。
「………………?」
ジャンはそれを不可思議そうにしながらも、ジョゼを取り巻く雰囲気から……何かしら落ち込んでいる事を感じ取る。
(しょーがねえ………)
正直面倒くさかったが、体は寝かせたままで腕だけ伸ばし、妹の髪を雑に撫でてやりながら「何があったー」と声をかけた。
ジョゼは頭を少しだけ動かして口の中で何かをぶつぶつと呟く。
そして、本当に小さな声で「………私は汚されてしまったよ………」と零した。
「はあ!!??」
彼女の一言に思わずがばりと半身を起こして頓狂な声を上げるジャン。脳内には様々な憶測が飛び交っていく。
「………ちょ、おま………汚されたって「私はいつの間にか社会に汚されて純粋な心を失ってしまったんだよ………!!」
焦りながらジョゼの顔を覗き込もうとするジャン。そこにジョゼが勢い良く頭を上げたので二人の額は壮絶な音を立ててぶつかった。
「っ……………!!??」
「でぇっ…………」
しばらく自らの頭を抱え、ぶるぶると震えて痛みに耐えるジャンとジョゼ。双方中々の石頭ぶりである。
「ご…ごめん、兄さん。悪気は無かったんだ。」
「あったらぶち殺してやる」
「ひええ」
ようやく痛みが和らいだ様で二人は顔を上げる。互いの赤くなった額を眺めて(マヌケな光景だなー)とぼんやり思いながら。
「………で。結局何があったんだ」
仕切り直す様に咳払いをひとつしてジャンは尋ねる。
…………ジョゼは、兄の言葉にハッとした表情を見せた後、悩みを思い出したらしくまたもしゅんと項垂れてしまった。
今気付いたのだが、ジョゼは小脇にスケッチブックを抱えている。彼女はそれをゆっくりとジャンに差し出す。
ジャンはそれを黙って受け取り、促されるままに寝そべりながら中身をぺらぺらと捲った。
…………中に描かれていたものは……恐らく茶色いコンテで描いたのだろう。街のそこここの景観がしっかりとした筆致で描かれていた。
(うまいな………)
そう、上手いのである。だが………何と言うか、あまりにもきっちりと描かれ過ぎているというか……固過ぎるというか…………
「………見ててすげえ息苦しい絵だな。」
「い、息苦しい?」
「お前さあ、もう少し年頃らしくのびのびと描けねえの。色だって一色しか使ってねえじゃねえか。」
「のびのび………?」
「まあ何だ……お前の事だからそこら辺の画集でも参考にしたのかも分からねえが、もっと好きに描いてみろよ。」
「………う、うん。母さんにもおんなじ事言われたよ。でもさ……好きに描いたつもりだし、のびのび……とか年頃らしく……って言われてもよく分かんないよ。だってそれで私は精一杯なつもりだったし……」
ジョゼは少し不満げに漏らした。
ジャンはもう一度描かれた近隣の街の風景に視線を落とす。
やはり、下手ではない。かといって何の感慨も湧かない絵である。真面目に描かれ過ぎて、至極つまらない。
「第一……お前、何で絵なんて描こうと思ったんだ。」
スケッチブックを閉じながらジャンが尋ねると、ジョゼはううん、と唸りながら少しだけ首をひねってこちらを見上げる。
「それは……兄さんも描いてるし……、母さんが何か趣味を持った方が良いって言うから………。」
「そ、そうか。……結果、趣味になりそうか?」
「あんまり。」
ジョゼはそう漏らすと、床にぺたりと座り込んだままの姿勢でジャンの事をじっと見つめた。
…………ジャンはジョゼの思考を読み取ったらしい。溜め息をひとつ吐くと、体を少しだけずらして彼女がベッドに収まる為のスペースを作ってやる。
そうすると、先程よりもいくらか柔らかな表情をしてジョゼがジャンの隣に横になってきた。
そう言えば………最近は絵を描く事に夢中でこいつにはまるで構ってやれてなかったから、この距離や、会話も久しぶりだ…………。
ひどい甘えたのジョゼの事である。自惚れでは無く、随分と寂しい思いをさせてしまったのではないか……と、ジャンは反省の気持ちを小さく胸に抱いた。
それを表す様に頬に触ってやると、ジョゼが掌の上に自分のものを重ねて目を細める。………が、やはり未だにその瞳は憂う様な色をしていた。
「………昔は、そりゃあ絵を描くのも人形で遊ぶのも好きだったよ。」
そして、平坦な調子で語り出す。ジャンは彼女の髪の毛を指に絡めて大人しく耳を傾けた。
「でも……大きくなるに連れて楽しい事とか……ワクワクする事って気付いたらどんどん無くなってて……」
ジョゼはちらりとベッド脇に置かれたスケッチブックに目をやる。
…………確かに、母親や兄の言う通りに自分の絵はまるで自身そのものを表しているかの様な物足りない出来映えだった。
当たり前である。描いている本人がどこかつまらないと思いながら描いていたのだから。
だから………決して上手とは言えなくても、一生懸命楽しんで描いた兄さんの絵の方が良いと母さんが言うのは至極当然であって………
でもそれが今の私の精一杯なのだし、勉強と違って無邪気さとか、のびのびさとか、そういうのは意識して身に付く事ではなくて………
あれ、あれ。何だか頭がこんがらがってきた。
「とにかく………今日、つくづく気付いたよ。私ってつまらない人間なんだなあって………」
これじゃあ友達が出来ないのも当然だ、とジョゼは自分の頭の中に散乱する考えを総括する様に溜め息と共に言葉を吐き出す。
ジャンはと言うと、正直何を言ったら良いか分からずに「……お、おう。」と返事をするしかなかった。
だって事実ジョゼは言葉の通り結構な割合でつまらない人間だと兄であるジャンも自覚していたからだ。
というか逆に言うと…………
「今更気付いたのか。」「ひどいよ!!!」
ジョゼはがばりと顔を上げて兄に抗議する。ジャンはやべえ、言っちまった、と思わず口を手で覆うが時既に遅し。
眉を下げて何かを反論しようとジョゼは口をモゴモゴさせるが、やがて諦めたらしく大きく息を吐いて項垂れる。
「わ、悪かったって、ジョゼ。」
とりあえずジャンは落ち込むジョゼを慰めようと頭を撫でてやるがまったく持って彼女を取り巻く空気が晴れる事は無い。
成すがままに撫でられていたジョゼだったが、やがてのそりとベッドの上から床へと足を下ろして靴を履いた。
「……………お風呂、入ってくるね。」
そして頼りない声でそれだけ告げると、ジャンの方を振り返る事無く入口へと向かう。
やがてぎいぱたん、という力ない音と共に扉が開閉され、ジョゼはジャンの自室から立ち去っていった。
ジャンは………未だにベッドに寝そべった姿勢のまま妹が消えていった扉をぼんやりと眺める。
そして、手を伸ばして今まで隣に自分と同じ様に横になっていたジョゼが作った窪みに軽く触れた。当たり前だがまだ温かい。
(…………あー。)
……………どうしたものだろうか。やはり……大切な妹だ。落ち込んでいれば慰めたくなるし、元気が無い時は元に戻る様に手を尽くしてやりたくなるのが兄妹というものだろう。きっとそのまた逆も然りの筈だ。
(でもなあ………。)
自分がつまらない人間だとか、そんなの気にする必要は微塵も無えと思うんだがな。面白いあいつ、何て方が返って気味が悪りい。
「………今のままで、充分だと思うぞ。」
本当に小さくそう呟くと、どうしてか心が穏やかになった。
そして……なんつーか、あいつ、随分下らねー事で悩んでんな、という実感が湧き起こる。
自然と笑みが漏れて来て、思わずジャンは声を上げて笑ってしまった。
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