夢のあとさき
75

暗闇だった。いや、真白い空間かもしれない。
私は一人で立っている。右を向いても、左を向いても、前も後ろも頭上にさえもなにもない。ぽつんとひとりぼっちだった。
おもむろに一歩踏み出す。右足の次は左足を前に出す。そうやって歩いていると、気付けば私は広い草原にいた。
手前には森が見える。高い山があって、水の流れる音も微かに聞こえてきた。それから、剣を振るう音も。
男が魔物に対峙している。獣のような魔物たちは剣で、あるいは魔術で次々と地に伏せられていった。そして最後の一匹を屠ったあと、男は剣の血を払うと鞘に納め、顔を上げた。
「レティシア」
その声は木の上にいた子どもにかけられたものだった。手を伸ばして男が子どもを下ろす。そのまま地面に下ろそうとしたようだったが、子どもは男にしがみついて離れなかった。
「おとうさぁん……」
「怖かったな。もう大丈夫だ」
ぽんぽんと大きな手が子どもの背を撫でる。子どもはぐずぐずと鼻を鳴らしていたが、泣きだしはせずに男の服をぎゅっと掴んでいた。
「アンナたちのところへ戻ろう」
「おかーさんと、ろいど、へーき?」
「ノイシュがいるから大丈夫だろう」
「ん……」
子どもはこくりと頷いた。男は子どもを抱いたまま大きな歩幅で歩きだす。魔物の死体は炎で灰に帰されていた。
「おとうさんは、どうして、ひをぱってだせるの?」
子どもがたどたどしい声で尋ねる。自分ができないから疑問に思ったのだ。
「……私は、魔導注入を受けたからな」
「まどーちゅうにゅうってなあに?」
「人間にも魔術を使えるようにするものだ」
「まじゅつ」
「マナを使って火を出したり、雷を出したりすることだな」
「ふうん」
子どもは分かっていない相槌を打つ。そして今度は男の腰に下げた剣を見下ろす。
「けんで、ずばーってできるのは、なんで?」
「たくさん練習したからだな」
「れんしゅうしたら、わたしも、けんでまものをたおせる?」
男は困ったように眉を下げた。だが、きらきらとした目で見上げてくる子どもに答えを返さないことはできなかったのだろう。
「倒せるようになるかもしれない。だが、戦うのは恐ろしいぞ。先ほども怖かったのではないか?」
「……うん。でも、おとうさん、いつもたいへんだから、おてつだいする!」
「そうか……」
男は苦笑した。そして子どもの頭を撫でようとして、自分の手が汚れたままであることに気がついて手を下ろす。
「私がおまえたちを護るのだから……必要はないのだがな」

「うそつき」
私の声に男は振り向かない。視線を落として拳を強く握った。血を吐くような、そんな錯覚に陥りながらもう一度言う。
「うそつき。お母さんを殺したくせに」
分かっている。エクスフィアを剥がされてしまった母を救うにはそうするしかなかったのだと。エンジェルス計画の実験体であった母が殺されたのは、父のせいではないことも。
「私たちを迎えに来てくれなかったくせに……」
待つことをやめたのはいつだっただろう。ロイドはずいぶんと早く親父さんとの生活に慣れたが、私はそうではなかった。いつ、諦めたのだったか。もう迎えになんて誰も来ないと悟ったのは。
「私たちを見殺しにしようとしたくせに!」
でも、ロイドのことをかばったのはあの人だ。無事かと、そう――心底安堵したような声を零したのも。
私はまたひとりぼっちで立っていた。男の姿も子どもの姿もどこにも見当たらない。歯を食いしばって顔を上げる。ぽつんと見えたのは見慣れた赤い背中だった。
「……ロイド」
声をかけてもロイドは振り返らない。ロイドの横にはコレットがいた。ジーニアスもいた。リフィルも、しいなも。ゼロスもプレセアもリーガルも。
行かなければ。彼らのもとに、行って、なすべきことをしなければ。
はじめはコレットを救うためだった。彼女が犠牲になるような世界の仕組みが間違っていると思ったから。でも、それだけではないことを知ってしまっている。
エクスフィアを創ることも、マナの流れを繰り返し反転させて停滞を産むことも、ハーフエルフへの差別意識も。ユグドラシルの創る千年王国は間違っていると私は思っているから。それを止めなくてはならない。
ふと、振り向いた。誰もいなかったが、誰かいたような気がしたのだ。背中をやさしい手が撫でてくれてたのを知っていた。
――レティは、お父さんに似ているわね。
かぶりを振って私は前を向いた。歯を食いしばって、踏み出す。走り出す。
「ロイド!」
追い越されていたその背に追いつくために。


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