リピカの箱庭
幕間24

ケテルブルクのアスターも招集し、ユリアシティで平和条約が締結されようとしていた。その最後の署名をする前に声を上げたのはレティシアだった。
「……キムラスカが条約を守る保証はどこにあるのです」
冷たい声色で吐き捨てる。黙って見守っていたレティシアが唐突にそう呟いたのに一同ははっと彼女を振り返った。ガイもだ。
「同じような取り決めはホド戦争の以前にもありました。そしてホド戦争の後も。……二度も和平を裏切った貴様らをどう信じればよいというのだ」
硬い口調で言うレティシアは立ち上がってインゴベルト六世を見下ろす。インゴベルトは小さく息を吐いて首を横に振った。
「ホドやアクゼリュスの時とは違う。あれは預言による繁栄を、我が国にもたらすため……」
「そのためだけにホドに攻め入り、王位継承者をアクゼリュスに寄こしたのか。ホドとてキムラスカ人はいた。我が母のように」
ぎり、とレティシアが歯を食いしばり剣の柄に手をかける。流石にジェイドが「伯爵、」と腰を浮かせかかったが、それを制したのはピオニーだった。
「和平の証として嫁がせた我が母を殺し、我が父の首級を晒したのは誰だったか?」
父の首級――ガイの脳裏に浮かぶのはファブレ公爵邸に飾られていた父の宝剣だった。レティシアも父が討ち取られたあとどうなったのか、知っていたのか。
レティシアの視線はあくまでインゴベルトに向かっていたが、立ち上がったのはファブレ公爵だった。
「ガルディオス伯爵。復讐のためならば私を刺せばよい。前ガルディオス伯爵夫人を手にかけたのも、前伯爵の首級を国へ持ち帰ったのも私だ。あの方がマルクト攻略の手引きをしなかったのでな」
「っ!父上!本当に……」
「戦争だったのだ。勝つためならなんでもする。……お前を亡き者にすることで、ルグニカ平野の戦いを発生させたようにな」
ルークの問いにファブレ公爵も淡々と答える。ルークは絶句した。父が認めたことも、ガルディオス伯爵がここまで憎悪をむき出しにしていることも、どちらも信じがたい。
レティシアは「そうか」と小さく呟くと、見せびらかすように剣をすらりと抜いた。
「セシル伯爵家の件も、貴様の手引きだったな。――ならば、覚悟」
「ガルディオス伯爵っ!」
「レティシア!」
本当に剣を振るうとは思っていなかったのだろう。ルークとピオニーの声が重なる。その切っ先がファブレ公爵に届く前に、ガイは自分の剣を抜いていた。
キン!と金属がぶつかり合う音が響く。目の前の瞳は自分のそれと同じ色をしていた。
「ガイ……っ!」
背後でルークが自分を呼ぶ声がする。ぎりぎりと鍔競り合う中でそれに応える余裕はガイにはなかった。
「剣を引け、レティシア」
「なぜだ?ガイラルディア。これがお前の望みじゃないか」
自分と同じ声色でレティシアがささやく。ガイはぐ、と喉を鳴らした。
「このために、生きてきたんじゃないか。ガイラルディア・ガラン」
鏡映しの半身がそう問いかけてくる。憎しみに囚われた自分自身が。グランコクマに行くことを選ばず、ファブレ公爵家に復讐を誓ったあの日の幼いガイラルディアが。
こんなことをして、和平を台無しにすることがレティシアの望みであるはずがない。熱いものが身を焦がす。選ばなくてはならない。決別しなくてはならない。あの日の自分を否定して、見捨てなくてはならない。
「ちがう」
帰るべき場所はあったのに、誤ったのは自分だ。乾いた唇で繰り返す。
「ちがう。俺もお前も、生きる意味は復讐のためなんかじゃない」
昔のことばっか見てても前には進めない。そう信じると決めたのだから。
「――それがお前の選択か」
碧い瞳がガイを射抜く。
すぐそばにいればどう感じているのかすらわかる、ただ一人の愛おしい半身。けれど今ばかりは何もわからなかった。レティシアが何を思って今まで生きていたのか、離れていたガイにはわかるはずもない。
「そうだ、レティシア・ガラン。剣を下ろせ」
交わる剣からふ、と力が抜ける。武器はそのまま乾いた音を立てて磨かれた床を転がった。切っ先だけがファブレ公爵の足元へ届く。
「……そう」
レティシアは呟いて踵を返した。カツカツと靴音を立てて会議室を出て行った彼女を誰も止めることはできなかった。
剣を抜いたことはともかく、レティシアが言ったことは正鵠を射ている。幾度となく破られてきた和平が今度こそ守られるのか――その答えは否だろう。だが、今だけは守られる。預言に反し地殻を降ろす、今この時だけは。それが最も重要なことだった。
そして今はキムラスカにもガイが信じられる友人もいた。ガイは一瞬ファブレ公爵を睨んでから、ファブレ公爵の足元の剣をこわごわ拾ったルークに視線を移す。
「ルーク!あとは頼んだ」
「へっ!?」
親友に呼びかけてからガイは走りだした。和平のことはもう任せられる相手がいる。だが、レティシアのことは誰に任せるべきでもない。
会議室を出て、レティシアの向かった先へ迷わず足を運ぶ。ユリアシティの天井が高い建築はまるで異世界のようで、それでいてホドを思い出させた。その失われた故郷と似た場所でさまよう妹を見失うはずもない。
人気のないそこはバルコニーのようにせり出していて、行き止まりだった。軍服に似た服装で佇むレティシアは、故郷にいたあの頃のように明るい色のワンピースをまとう無邪気な少女ではない。
それでも、その手にはもう剣は取られていない。
「レティ」
声をかける。レティシアは振り向かなかったが、ガイは肩を掴んで胸に抱きとめた。
「レティシア。選んだのは俺だ。俺のせいにしていい」
剣を下ろしたのはガルディオス家当主の命令だと、そんな言葉で閉じ込めていい。ずっと泣いていたことを知っていた。泣く場所を失っていたことは、今知った。
震える肩を抱いて、貸した胸が濡れるのを静寂の中感じていた。


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