リピカの箱庭
76

そうやってどれだけ時間が経ったのか、ようやくイオンの手が退いた。深いため息がこぼれて、見えない瞳に布がかけられる。私はそれを握ってゆっくりと体を起こした。痛みはするが耐えられないほどではない。
「それで隠しておきなよ。あとで清潔な布もらってくる」
「感謝します、ノイ」
「いいって。……約束だし」
ぽつりと呟いた言葉は聞こえなかった。訊き返そうとも思ったが、それよりも気になることがある。
「ノイ、ところでアリエッタはどうしたのです」
イオンの表情は硬い。どうして彼があそこにいたのか、そしてアリエッタはどうしたのか。彼らなら空を飛ぶ手段があるので最悪崩落に巻き込まれても無事だと思ったのに、イオンはここまで来てしまっている。そもそもアクゼリュスに残っていた理由も不明だ。
「その前に……一つ言っておかなきゃいけない」
ひどく真剣にイオンはこちらを見据えた。ぎゅっと強く握られた拳は、まるで祈るようだった。
「こうなることを――僕は知っていた」
なぜ、という疑問が最初に出てきて、すぐに納得した。イオンは導師だったのだ。秘預言のことを知っていてもおかしくない。どうして彼が最初に導師一行を見たと報告してきたときに気がつけなかったのか。己の迂闊さを呪う。
「秘預言ですね」
「……そうだ。あの赤髪の親善大使――聖なる焔の光がアクゼリュスを滅ぼすってことが預言には詠まれていた。だから、邪魔してたんだ」
「邪魔?」
「本当はアクゼリュスに辿り着けないように始末したかった。無理だったんだけど」
ふむ。なんとなく読めてきた。確かに不思議に思っていた、先遣隊の到着から親善大使一行の到着はかなり時間があった。おかげで住民の避難はほぼ完了していたわけだが――まさかイオンが邪魔をしていたからだったとは。
アリエッタには復讐という動機があったが、一方でイオンがこんなことを考えていたとは。少なくとも、アクゼリュスを守ろうとしての行動だったというのは確かだろう。
「なるほど。それでアクゼリュスに残っていたのですね」
「……怒らないの?」
「はい?」
一人納得していると、珍しくおずおずといったふうにイオンが首を傾げる。私は瞬いて彼の表情を見つめた。
「何か怒ることでしたか?」
「だって、あなたに言わなかったんだよ。滅びると知っていたのに」
「ですが、アクゼリュスを守ろうとしていたのでしょう。それに、私が知っていた場合立場がややこしくなる。そのことも考えていたのでは?」
「そう、だけど」
前提として私も知ってはいたのだけど。イオンのほうがずっと能動的に動いていたのだ、彼を責める理由なんてない。一人で勝手にこなそうとしていたことに思うところはあるものの、それこそ私に何か言う資格なんてないだろう。イオンはうう、と唸って拳を開いた。
「ホントやりにくい……なんで分かるんだよ……」
「怒られたかったのですか?酔狂ですね」
「あんたのほうがよっぽど酔狂だよ!まあ、それはいいとして」
あんまりよくはないのだけど、今は追及しないでおこう。仕切りなおそうとするイオンの言葉を待った。
「あいつらとやりあってこっちも負傷してたからすぐには動けなくてね。崩落が始まってあんたを見つけたのはぎりぎりだった。で、助けようとしたところでヴァンが来た」
「……グランツ謡将が?」
「魔物を操って飛んでたんだよ。アリエッタが調教したわけでもないのにどうやったのか……」
それは疑問だ。空を飛んで脱出する方法と言えば、魔物以外にもネイス博士の譜業が考えられたがそちらではなかったとは。アリエッタ以外にも魔物使いがいるということだろうか?しかし。
「ヴァンはアリエッタを人質に取ってあんたを要求してきた。まあ、崩落に間に合わなかったんだけど」
「アリエッタがグランツ謡将に?ということは」
「落ちた場所にはあいつはいなかったから、巻き込まれなかったんだろう。アリエッタもね。もしかしたらアリエッタはダアトに連れて行かれたのかもしれない」
「そう……ですね」
その可能性はある。――が、アリエッタが殺された可能性もあるだろう。目撃者であるアリエッタの口封じをしないとは思えないからだ。それをイオンが口にしないのは、仮にも考えたくないからだというのは分かっていた。私もそれには口をつぐんでおく。アリエッタには利用価値がある。ならばダアトにいる可能性だって大いにある。
それはそれとして、グランツ謡将は――ヴァンデスデルカはやはり私の安全を確保したうえでアクゼリュスを崩落させようとしたのか。ガイラルディアのことはお構いなしだったので一種の賭けではあったが、私が避難するまで時間を稼ぐ方法は成功したらしい。避難完了の狼煙が上がってからルークを使ったのもそういうことだろう。しかし、最後の最後で見つかってしまうとは誤算だった。
「あんたを使って何しようとしたかは分かんないけど、マルクトには睨まれたくなかったのかな、ヴァンのやつ。キムラスカの王族はあっさり使い捨てるくせに――ああいや、あれは預言にあったからか?」
考え込んでいるイオンには悪いが、それは今答えを出すものでもない。というか、面倒なことが一つ残っていた。
「……とにかく、今後のことですが。今のあなたは親善大使一行に対して敵と認定されているということですね」
「そ。で、その敵がガルディオス伯爵の知り合いなのもバレてる。あとさっき、死霊使いに僕が今の秘預言を知ってることもバラされた」
ああもう、敵に回ると厄介だなジェイド・カーティス!なんでそう簡単にホイホイ暴いてくるんだ、面倒な。この後の展開を思い出しながら頭を捻る。
とりあえず、イオンはダアトに行きたがるだろう。アリエッタが彼の中の最優先事項だ。そして私は――どうしようか。生存がガイラルディアとカーティス大佐にも分かっている以上、行方をくらますわけにもいかないし。グランコクマに向かうべきだろう。生きているなら仕事もある。
つまり、外殻に戻ってからも彼らと行動を共にするのが一番ということだ。その一行に敵認定されているのはいただけない。
「僕がイオンだって言うつもり?」
「それは極力――」
「別にいいよ。秘預言知ってるって分かってるならもうそっちのほうがいいだろ。それに、ヴァンのしでかしたことを教えてやった方がいいと思う。ヴァンが何を考えてるんだか知らないけど、やられっぱなしってのも気に食わない」
平然と言うイオンに私は思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。こちらとしてはイオンの正体は隠しておきたかった。だって、彼はもう導師ではないのだ。ただのイオン――ノイをこんな事態に巻き込むつもりもなかったのに。
「……あなたはもう関わらなくていいのですよ、イオン。忘れてしまえばいいと言ったでしょう」
「違うよ。選んだのは僕だ。僕が自分の意思で秘預言を利用した」
真っすぐな瞳が私に向けられる。これ以上何か言い募ることもできなかった。
「いいよね?ガルディオス伯爵」
「それが、……あなたの選択ならば」
私に止めることはできない。いつか言った通り、彼は選び続けているのだ。忘れてしまえば自由だと告げたのにそうはしなかった。アクゼリュスのために己の知識の中の秘預言を利用していた。巻き込みたくないと思うことがきっと傲慢だ。
フードをの下の素顔は、確かに導師イオンとは違うものだから。


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