胡蝶の舞
幼少期編-8

週に一度、あるいは二週間に一度。父上に稽古をつけてもらえるのはそれだけだったけど、自分なりに体力をつけようとは努力した。その努力が実を結んでいるかは微妙だけど、やらないよりはたぶんいいと思う。そう信じたい。
使用人たちは相変わらず私を遠巻きにしてくる。それが当たり前なので気にはならなかったが、ほとんど父上としか会話をしないのはどうかと思う。そんなとき思い出すのはダミュロンのことだ。
前に住んでいた街の名前はファリハイドというらしい。私は父上の書斎――出入りすることが許可されてからは入り浸っている――から分厚くて豪華な装丁の本を一冊取り出した。いわゆる貴族名鑑というやつだ。
薄い紙をぱらぱらとめくって目当ての頁を探し当てる。ファリハイドの名士、アトマイス家。ダミュロンが指差した屋敷があの街で一番大きかったのだから、そういうことだ。
「ダミュロン、アトマイス……」
勝手に調べたことに妙な罪悪感が湧いてきて私は慌てて本を閉じた。でも、もしダミュロンが本当にアトマイス家の人間ならどうにかして連絡を取ることは可能なのではないか。そんなふうに思ってから首を横に振る。
あの街を出てもうどれくらい経った?もうすぐ母の命日だ。一年近く経てば、ダミュロンは私のことなんか忘れてしまっていてもおかしくない。だって、ダミュロンの世界は私のそれよりずっとずっと広いのだから。
調べるべきではなかったと後悔して、私は本を戻した。木製の脚立の上でぼんやりと本の背表紙たちを眺める。知らないうちに鼻の奥がつんとしていて鼻をすすった。脚立を片付けて書斎を出る。今日は父上はいないから本を読むことくらいしかやることはないのだが、部屋に閉じこもる気分でもない。
庭に出て見上げると空には相変わらず大きな剣が見える。ぼんやりと見上げていると草を踏む音がして私は振り向いた。
使用人ではない、知らない人だった。私はその人を見上げる。陽に透けるような銀の髪は長く伸ばされていて、赤い瞳は父上のものともまた違う色をしている。騎士のような格好をしているので、不審者ではないと思う。
……誰だろう。知っているような、なぜかそんな気がする。
「お前は」
その人は口を開いた。落ち着いた声色に私はまた内心首を傾げた。やはり知っている、のか?
「この家の子供か」
「……ん。だれだ?」
「お前の父親の知り合いだ」
「ちちうえはしごと。いまはいえにいない」
「それは知っているが、呼び出されたのでな」
なるほど、よくわからない。その人がスタスタと玄関の方へ歩いていくので私もついて行った。と言っても父上みたいにゆっくり歩いてはくれなかったのでだいぶ遠ざかってしまった。私が玄関ホールにたどり着いた時には影も形もなかったので見当をつけて応接室へ行ってみる。
案の定、その人はソファに腰掛けていた。玄関に着くまでの間に侍従が屋敷の外へ向かって行ったので、多分父上はすぐ帰ってくるのだろう。私は向かいのソファによじ登って彼を見つめた。
「私に何か用か」
「うん」
そうしていたら流石に声をかけられた。私は頷いたが、名前を聞くにしても自分から名乗った方がいいと思い至る。
「わたしのなまえはレティシア。あなたのなまえはなんという?」
「私はデュークだ」
「デューク……」
思わず繰り返してしまった。デューク、っていうと、あのデュークか!目を瞬かせて、慌てて驚きを隠す。まさかこんなところでデュークと会ってしまうとは思わなかった。彼が騎士団に所属している父上に一体何の用があるのだろう?そういえば、デュークは昔騎士団に所属していたような話があった気がする。
「デュークはちちうえのしごとのなかまか」
「いや、私は騎士団には所属していない。今はな」
「ではなにをしている?」
「旅をしている」
風来坊をしているらしい。それにしては貴族らしく上品な感じだ。人魔戦争の時の英雄だったという話だから物語当時それなりの年齢のはずなんだが、正直外見は今も同じくらいに見える。つまりデュークの外見から今がどれくらいの時期か判断するのは無理そうだった。
「ともだちはげんきか」
とりあえず人魔戦争の前後かは気になるので訊いてみる。デュークは眉をひそめた。
「何のことだ」
「しらないなら、いい」
そう言ったところでちょうど部屋の扉がノックされた。父上かと思ったが、入ってきたのはカートを押したメイドだった。彼女は私を見て「お嬢様!」と小さく悲鳴を上げる。私がここにいるのは予想外だったらしい。
「なぜこちらにいらっしゃるのです」
「きょかがいるのか?」
「このお方は旦那様のお客様でいらっしゃいます」
「しっている。ちちうえがいないのだから、わたしがおあいてをするべきだろう」
どうせ何を言いつくろってもつまみ出されるのだし、適当に言い訳をしてソファの上でふんぞり返ってやる。メイドは絶句して「失礼します!」と部屋から出て行った。家令でも呼びに行ったか?お茶を持ってきたのに準備もしていかないとは。困ったものである。とはいえ私の身長では茶器に手が届かないのでデュークにふるまうこともできなかった。
「わるいな、デューク」
「構わない。喉は乾いていないからな」
デュークは私を見て目を細めた。表情はあまり動かなかったが、多分笑っているのだと思う。
「話に聞いていた通り、変わった子供だ」
「ちちうえからきいたのか?」
「ああ。剣の腕も良いと聞いたときは疑ったものだが――」
空気が張り詰める。私は咄嗟にソファから飛び降りて構えた。しかし獲物は何も持っていない。じんわりと背中に嫌な汗をかく。デュークは私の様子を見て立ち上がった。
「その様だと事実なのだな」
殺気は掻き消えていた。父上といい、いたいけな幼児相手に殺気を出すとはひどいものだ。泣いていてもおかしくないぞ。……なんで自分が平気なのかはよくわからないけど。父上に似たのだろうか。
「む」
力を抜いてソファに座りなおそうとしたが、足音が聞こえてきて私はそのまま壁際に駆け寄って机によじ登り窓を開けた。デュークが不思議そうな顔をする。
「どうした?」
「しつじがくる。しつれいする」
「……フ。ではな」
「うん」
窓枠に足をかけて飛び降りる。丁度家令が部屋に入ってきたらしかったので私はいそいで茂みに身を隠した。「お嬢様!」探す声が聞こえるが知らないふりだ。だいたい殺気を出したというのにデュークを咎めもしないのだから私のことなどどうでもいいんだろう。
それにしても、と息をひそめながら考える。デュークと知り合いなんて、父上はいったい何者なのだろう。デュークが帝都にいるということはまだ人魔戦争の前のようだけど。また一つ謎が深まった。


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