リピカの箱庭
55

黒いヴェールで顔を隠す。そうしなくては自分がどんな顔をしているかわからなくて不安だった。笑っているのだろうか?それならば、周りから狂っていると思われてもおかしくない。
マルクト皇帝の崩御が伝えられたのは一週間前だった。長く病床に伏していた皇帝だったが、病状の悪化から死の報せまではあっという間だった。その報せが届いた日、私は部屋のクローゼット――私のクローゼットではなく、ぬいぐるみの服がしまってあるクローゼットから一番初めにロザリンドが作ってくれた服を取り出して、ぬいぐるみに着せた。
「ガイラルディア」
ぬいぐるみを抱きしめる。ようやく、ようやくだ。ホドを滅ぼす決断をした憎い男がようやく死んだ。私が殺せなかった仇がこの世からいなくなったのだ。できることなら報いを受けさせたかった、でもそれは私の立場ではできなかった。私は貴族として在ると決めたのだ。復讐をすることは、ついぞなかった。
ホドが滅んでからもう十年以上経っている。私は目を閉じてあの美しい景色を思い出そうとしたが、ホドグラドの街並みに上書きされてうまく描くことができなかった。
ガイラルディアの声ももう思い出せない。顔も、ガイラルディアのことは見たらすぐにわかるという確信はあったが、どんなだったかを思い描くことはできなかった。ガイラルディアだけではない、お姉さまも、お母さまも、お父さまも。私がなくしたもの全てが記憶から失われつつある。だから私の中の憎しみも薄れていっているのだろうか。この感情が私にとっての家族との繋がりなら、どうしたって忘れてはいけないと思うのに。忘れられないと思ったものは、どうしてかこんなにあっけない。久々に襲ってくる虚脱感に私は逆らえずに目を閉じた。

訃報が届いた日から今日のこの葬儀まで私はいつも通り過ごしていたつもりだったが、ロザリンドやアシュリークには「いつもと違う」とやたら心配されていた。こういう時は客観的な意見が正しいもので、私の挙動はおかしかったのだろう。貴族が参加するような葬儀で私の挙動不審さが分かる相手は少ないのでそんなに気を揉まなくてもいいような気がしたが、念のため顔を隠す帽子とヴェールを身につけて私は葬儀に参列していた。喪服には黒い真珠をあしらってやった。
儀式は長々と続き死ぬほど退屈だったが、最後にピオニー殿下――ピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下が出てきて挨拶するまでどうにか意識を保っていられた。陛下の声が自分の皇位の正当性を告げる。すでに決まっていることを、貴族たちの前で改めて宣言し認めさせるのだ。私はただその声が聞こえなくなるまで待っていた。
ぼんやりしている間に宣誓の儀も終わったのだろう。私は気がつけば骸の前に立っていた。ガラス張りの棺桶からは痩せ衰えた老人の姿が見える。この後の国葬まで棺桶はここに置かれたままで、貴族たちが自由に最後の挨拶をしてもいいことになっていた。死体は黙して語らず、私は死んだ男を殺すことはできない。
「レティシア様」
顔を上げると私の名前を呼んだエドヴァルドが物憂げな眼差しをこちらに向けていた。首をゆるりと振ったエドヴァルドは「行きましょう」と手を差し伸べてくる。そうだ、こんなところにいつまでいても意味なんてない。私はその手をとる。
「今は……何時ですか」
「もう昼過ぎですよ。食事はどうなさいますか」
「屋敷に帰ります。あなたは空腹でしょう」
コツ、コツと靴音が響く。思考がうまくまとまらなかった。今ここに立っていることが現実だとは思えない。
「帰ったら、ドレスの仕立てをしなくてはなりませんね」
「……ええ。ロザリンドに任せてはいかがですか」
「そうですね。ロザリンドなら間違いありません」
頭の中をどうにか整理しようとして言葉を紡ぐ。もうすぐ馬車にたどり着く、そしたら歩かなくてもいい。馬車に乗るのは相変わらず息が詰まって嫌いだけれど、今だけは気にならない気がした。

ピオニー陛下の正式な戴冠式は前皇帝の喪が明けてから執り行われる。なので準備をする時間は十分にあった。ドレスをこれまでにないくらいきちんと仕立てたのは、体格的にちゃんとしたドレスを着ても問題なくなってきたからというのもある。普段着のドレスとはまた違う正式な礼服というのは重いし窮屈なので成長期の子どもが着るものではない。ただ、未成年とはいえその言い訳も苦しくなってきた。
昔、ピオニー陛下に言った記憶がある。戴冠式には相応しい格好をする、だったか。特に寄付を募っていた頃など、グランコクマの貴族たちとは関わりはあるが、いわゆるちゃんとした社交界デビューというのは済ませていない。つまり、今回の戴冠式――おまけの晩餐会がそれなのである。
戴冠式自体は立っていればいいので気が楽だが、晩餐会には爵位を持つ以外の貴族、つまり子息だとかが訪れる。また面倒な輩に絡まれるだろうかと嘆息した。以前の襲撃事件のほとぼりも冷めてしまった頃だ。そんななか着飾って向かうというのはかなり憂鬱だが仕方ない。ロザリンドが気合いを入れて発注するのをなんとも言えない顔で眺めるしかなかった


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